扉の前 02
感覚が伝えていた。
マイミューンは飛び起きた。
「デミトリ! 繋がったわ!」
隣からは何の反応もない。反射的に、彼女は隣ですやすや安眠中の男を蹴り飛ばした。細身の男がベッドから蹴り落とされて悲鳴を上げる。
「何……っするんですか!」
「繋がったって言ってるのよ!」
「繋がったって何が」
月明かりしかないコテージ宿、デミトリには相手の女の血管が切れる音が聞こえた気がした。夢かもしれないけど。ていうか夢であれ。
「何を……寝惚けたこと言ってやがる!」
願いは叶えられなかった。
マイミューンは短気で、一度感情が溢れると手がつけられない。
罵詈雑言の飛び出す口は、人形の自動銃なみ。綺麗な顔立ちをしているから、そんな女から飛び出す罵りの破壊力は凄まじいものがある。
「さっさと仕事せんかオノレは! てめえの手はクソを拭く時か、今しか使えねえだろが!」
これ、女の言うセリフじゃないだろ。
本当に残念すぎる女だ。何故だろう。隣で幸せそうに眠りについた彼女が思い出された。可愛いなぁと心の底から思いながら自分の目を閉じたわけで。なんで今、僕はこんなに罵られているんだろうか。うん、涙が出てくるな。外見がこうも清楚な美女風なのに、一度キレたら悪鬼のようなんて。
「寝惚けたことってね、僕、さっきまで実際安らかに眠っていたんですけどね」
「デミトリ! 早く! サクラが消える!」
――――『サクラ』
すとんとその単語が、脳内に落ちてきた。
一気に覚醒。
「サクラの話なら、最初にそう言ってくださいよ!」
マイミューンはもう小屋を出ていた。
今日は幸いにも満月だ。視界は良好。マイミューンの耳も良好。デミトリの怒鳴り声は、ちゃんと耳に届いていた。
「言ったよ私!」
「言ってません!」
「言った!」
「言ってませんって――あーもういいです、どっちでも!」
デミトリはあっという間に柔らかい土の上に円陣を描き出す。マイミューンが魔力を放つ。デミトリの低い声が耳の中に響いていた。彼の魔法語が、マイミューンの爆発的な魔力に方向性を与えてくれる。
『サクラ』
二人は彼女を思い描いた。どちらも実態を知らなかったけれど。
――――『サクラ』
「私はここだ! サクラ!」
相変わらず手順もへったくれもない魔法の使い方だ。デミトリは呆れながらも、マイミューンの絶対的な魔法量を信頼していた。そしてその力に意味を持たせるのがデミトリの役目だ。
「境界なき血族よ、玉繭の主よ、かの先誓と契約によりて、道を辿り――」
「来い!」
夜の闇が弾けた。
激しい光が円陣の内側から発せられ、爆風が円の中心から外へ向けて吹き荒れる。草が切れ、土埃が上がり、砂と青い臭いが鼻腔を刺激する。足元が揺れた。風が強すぎて、目を開けていられない。腕で顔を庇い見上げた空には、雲が円陣に向かって集まりつつあった。
黒雲は雨を落とす。稲妻を呼び、ばちりばちりと火を生んだ。
雷鳴。稲妻が天から円陣に落ちた。衝撃に、二人の身体は吹き飛ばされた。眩しすぎる光が視界を白く染め上げた。再び爆音。死ぬかもしれない。地面に這いつくばってマイミューンは思った。
再び雷光。衝撃が襲い、地面が抉れ、捲くれた石がこちらに飛――
「マイミューン」
男の低い声がした。身体を揺すられて、意識が浮上する。
目蓋を押し上げた。
デミトリが覗き込んでいた。マイミューンは二度、茫洋とまばたきし、地面に転がったまま上に広がる夜空を見つめた。
嘘みたいに綺麗な星空だ。さっきはあんなに荒れ狂っていたのに。
身体が硬直した。
「サクラは……!」
「それが」
泥だらけのデミトリに助け起こされる。額に布を当てられていた。無意識に彼の手の上から額の布を押さえつけながら、円陣だった場所に視線を彷徨わせた。跡形もない。
地面は円状に深く深く、穿たれていた。
「中には……?」
「いえ、誰も」
デミトリが首を振った。マイミューンは襲い来る感情と戦い、喪失感に耐えた。デミトリから目をそらしたまま、呟いた。
「感覚から消えかかっていたから。私、……間に合わなかったのね」
「また次の機会ですね」
デミトリが労わるように言った。支えてくれようとしているのは分かっている。でも今は、どうしようもないくらい落ち込んでいた。デミトリに肩を借り、宿小屋に向かいながらマイミューンは唇を噛んだ。
また次の機会は、いったいいつになるのだろう。
何年も待った。何年も待って、ようやくやってきたチャンスを失った。
次は、いったい何年後だというのだろう。
***********
マイミューンは待たなくても良かった。
失意の彼女がデミトリによってベッドに寝かされた頃、1人の少女がここに『いた』。
『ここ』に、少女は『いた』のだ。
「あー……」
外に出る矢先だった彼女は、青と白色の半袖パーカーと黒のハーフパンツ、ランニングシューズに黒の帽子という格好で、そこに立っていた。
眼前に広がるのは、昼だったはずなのに夜の空で、よく知っている道路だったはずなのに、未舗装の路面と明らかに木材で作られたプレハブのような家並み。
立ちすくみ、一歩も動けない。
――こうして、笹塚『佐倉』は、この世界にやってきた。
「何じゃこれ」
世界に放り出された少女は、その意味など知るはずもない。
「何じゃこれ!」
ただただ、立ち尽くしていた。