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ギルドの花 06

 佐倉は、手から離れたモップを拾い直すこともできなかった。口に両手を当てたまま動けない。目をそらしたら、何かとんでもないことをされるんじゃないか。それが怖くて、相手の顔を見上げ続けた。

 凝視していたから、些細な相手の変化にもちゃんと気が付いた。

 緩やかに丸くなった瞳が、次第に細くなり、睫毛の奥からすかし見るようになり―――うわ、うわ! 威圧感に押しつぶされそう。


 食堂の人でも喧嘩騒動を起こした人間でもないのだから、こちらの『私に言ってもどうしようもない』発言は正論だと今でも思う。でも正論だって、言っていい時と言ってはいけない時がある。今は間違いなく後者。こんな怖そうな人に正論ぶちかましてどうする。この人がポストが青って言ったら青だよ。太陽が西から昇るって言ったら、いや意外ですけど北からです、ぐらい言えるような機転の利くイエスマンでないと……!

 

 すなわち、今、自分がしなきゃならないのは、四の五の言わずに謝ってしまえということで―――

「ご、ごめんなさ―――っ?」

 手が伸びてきて、後頭部をがっちりと抑えられた。


 掴まれた……!

 そのままぐい、と引き寄せられた。

「わ、あっ!」

 慌てて手をついたのは、ぎぃゃぁぁああ、肌の上だ、肌の上! 

 佐倉は素っ頓狂な声を上げた。相手の割れた腹の上で、手を突っぱねた。こっちの力をものともせず、ぐいぐいと引き寄せられた。ついには相手の腹筋に、顔を密着させることになってしまった。

「な、何を……!?」

「シーッ」

 相手があやすように言葉を落としてきた。しー、じゃない。この状況、絶対、しー、じゃない。

 

 相手の腹に押し付けられて、拘束されていた。抱き締められるみたいに。心臓が痛いくらい打っている。離れなくちゃ。佐倉は思った。離れなくては、きっと心臓が壊れてしまう。

 抵抗して、暴れるけれど後頭部に当てられた手の平も、拘束する片腕も全然動かない――ええい、怪力め! カッと頭に血が昇りすぎて、イエスマン精神も吹っ飛んだ。

「いい加減に……はなせよ!」


 相手のため息。

「少し黙れ」

 脊髄が凍りつくような声音。

 先ほどのあやす声とは全然、違う。

 言葉通り、びくん、と身体を硬直させて黙り込むことしかできなかった。


 硬直した佐倉の耳に、盛大な音が入ってきた。

 それは、地響きのように長かった。

 そして、獣の唸り声のようでもあった。

 音は、無理やり押し付けられた腹筋、いや皮膚の内側からで、言い表すならば……


「…………ぐう?」

 まばたきをする。その時再び腹の中から、素晴らしく長い音がした。

 うん、こりゃさっきより長いね!

「おなかの、音……?」

 そう、これは空腹な時に鳴る――――そのまま後頭部を固定され、長い長い胃の抗議音を聞く羽目に陥った。


 目を丸くする佐倉に、

「腹、減ってんだよ」

 と、上からのんびりとした重低音。

 いやそれは、この長い音を聞けば誰にだって分かるけれども。もう状況が珍妙すぎて、正論がどうとか言う気も失せた。

「私に言っても意味がないんだってば。ご飯を作っているのは私じゃないし、食堂はこの通り使えない。そもそもまだこの時間なら、ご飯屋さんはどこでも開いていると思う」

「俺はもう外に出られる格好じゃねえ」

「だったら何か着ろよ」

 即座に口から飛び出した。顔が触れている皮膚が振動して、上からくっくと笑い声。――ああ、もう。なんで私、こんな怖そうな人に喧嘩を売るような言葉を、ぼろぼろこぼしているのだろう。


 ふわり、と相手の匂いが鼻腔をくすぐった。女性の香水とは違う、大人の男の人の清涼感のある香りがかすかに感じられる。香りに気付いたら、なんだか立っているのがやっとな気がした。

「あの」

 声は自然と小さくなる。

「あの、はなしてください」

 再び両手を突っぱねた。

「片付けないと……」

 これだけ言っているのに、相手からは何の反応も無い。再び、振り子が振り切れた。

「はなせってば!」

 答えたのは、押し当てられた皮膚の内側。ぐうううぅという長い抗議音。

 タイミングが良すぎて、不覚にも笑ってしまった。

 この人……。

 

「畜生、腹減ったなあ」

 そして相変わらず、お腹が鳴っていた。

 ―――なんだか、ダメだ。

 この人、怖いけど……怖いけど、人間的にダメダメだ。妙にツボに入ってしまって、佐倉は笑った。この人、怖いんだけど、でも変すぎて……


 面白い。


 佐倉は諦めた。自分の後頭部を抑えている腕を掴む。

「分かったってば。そのグウってのは、たくさん聞いた――もういいですから、調理場使って下さい。私、片付けに戻りますから」

 佐倉がそう言えば、食堂で食べるという主張の通った男はようやく解放してくれた。

「どうも。ササヅカ新兵部隊員」

 にっと笑った顔は、怖さを霧散させた。大人の男の人なのに、八重歯が見えて子供みたいな笑い顔。


 こくんと頷き、自然と笑みを浮かべたまま、佐倉は落としたモップを手に取った。中に戻りかけた所で、肘を掴まれた。うなじに、ざらつくくらい乾いた感触。肩越し、至近距離に青灰色の瞳があった。うなじに触れていたのが、唇と気付いた瞬間、体温がぐわと上昇する。叫ぼうとした。でも、相手が身体を起こし、横を通り過ぎて行く。咽喉から出かかった声は、行き場を失った。そのまま咽喉の奥へ飲み込むしかない。


 佐倉はぼんやりと自分のうなじに触れた。

 離れていくその背中は、やっぱり獰猛な肉食獣みたいだった。猫背ではないのに、しなやかで猫的。手足が長くて、肩幅広くて、肩甲骨が立派で、腰が細くて、そして、どこまでも大人の、男らしすぎた。……背中を見つめ、腰下の肌とジーンズの境目に目が行き、慌てて視線を上へと押し上げた。何、見てるんだ自分。


 見つめていた背中が、動きを止める。調理場の入り口で彼は振り返った。こちらを眺める視線。

「ハーヴェスト」

 重低音の声がそう告げる。

「え?」

 視線の魔力から急激に解き放たれて、はっとして聞き返す。彼は自分の心臓あたりを親指でついた。あ、つまり彼がハーヴェストか。

「あ、うん。どうも」

 そんな気の抜けた返事に彼はくっくと笑った。笑いながら、調理場へと消えた。ハーヴェストは歩行に音を立てなかった。


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