扉の前 01
押入れの奥で、ダンボールを発見した。
「たからもの、ね」
ダンボールに平仮名で書かれた文字を、指でなぞる。
子供特有のイビツ文字。全体への配慮がなくて、一文字一文字、全力投球。『も』に至っては、必死のあまりに反転し、Jに横二本線という新字ぶり。この子供の将来の知能指数が心配になる。
幸いにして、文字を書いた少女は、学力ではなく身体能力に恵まれた。
その少女――笹塚佐倉は、ダンボールを床に置いた。
開いて中を覗き込めば、小学生の頃、この世で一番大切だと思い込んだ物たちが詰まっていた。牛乳パックのメンコ、お菓子についていたオマケのおもちゃ。スイミングスクールの皆勤賞のバッジや、先生からのご褒美シール。
懐かしい物。でももう必要のない過去の物だ。
黄ばんだ古い過去の陰に、何か潜んでいそうだ。
佐倉は、おっかなびっくり指で摘まんで、上の物を取り除く。――その中に、見慣れない物が紛れ込んでいた。
「んん?」
重厚な深緑の装丁の本。なんだこれ。アルバムサイズの大きさで、ダンボールの重さは、ほぼこれが原因のようだ。両手で持ち上げ、あぐらをかいた足に本を置く。
古臭い紙の匂いとともに、何かの甘い香りが漂った。香りは記憶の鍵となり、1人の人物を連想させた。
金木犀の家に住んでいた皺くちゃの人。
「京都のばあちゃんのか」
そうだ。そう。京都のばあちゃんのだ。同時に、小さい頃の苦い思い出も蘇った。
京都の祖母は、佐倉にこの本を遺したのだ。
これを貰った時、佐倉はありがとうと小さな声で親戚のオジサンに言いながら、ちっとも嬉しくなかった。読書なんて趣味じゃない。
いつだって自分は、泳ぐことが好きだったのに。
おばあちゃんはそんなことも知らなかったのだ。軽い失望とともに、遺品はダンボールに詰められた。遺品なんて、小さな佐倉には手に負えないものだったから、『たからもの』と一緒に見えない所に押し込んだのだ。
ダンボールが再び開封されたのは、今日この日。
高校二年の夏休み。
佐倉は本の表紙を撫でた。もしかすると、貴重な本だったのかもしれない。書店で売っているようなヤツじゃない。図書館にある古書みたいだ。
「何の本」
両手で持ってもずっしり重い。表紙を見た。何も書かれていなかった。裏表紙も同じ。
何気なく本を開いた。まず気付いたのは。
横書き。
なるほど、西洋古書のように横書きの遺品だとは想像していなかった。京都のばあちゃん=縦書きの先入観があったのだ。本を閉じて厚みのある表紙をめくる。
『マイミューン』
片仮名でそうあった。マイミューンってなんぞ。私のミューンってこと?
また適当に開いた。
『ドクター・クラツ 奴の診療にかかるくらいなら死を選ぶ。夜街の澱み通りと汚れた故郷通り十字路に診療所。人形に関連ありか。
ドラクロワ 危険で、素敵な救世主。場所は選んで呼べ。
ドリス・フォロアップ 旅の薬屋。湿布購入。ぼったくり。
ドム・ブローカー 獣族の老人。マドリの森を徘徊。
ナイル・ハーヴェスト・グリム 兄弟の中で一番トチ狂ってる。私は奴の遊び道具じゃない。昼街、グレースフロンティアの三番部隊長。あれを三番に据えるトップの神経も狂いきっている。
ナチシュリンカ…………』
……………なんじゃこれ。
右手人差し指をそのページに挟んだまま、パラパラとめくっていく。全部この調子だ。よくよく見ると、辞典みたいにアイウエオ順らしい。試しに一枚目を見たが、やはりア行から始まっている。
「なんかの辞典ってこと?」
人の名前っぽいけれど。
指を入れていたページに戻った。やはり名前だと思った。だってドクターって人だろうし、兄弟って言葉も人に使う。でも夜街とか昼街とか。
すごいファンタジー。
ゲームとか何かってことか。そうなるとこれはキャラクター辞典? 疑問は募って、根本の疑問へと戻っていく。なんだってこんなものを、私貰ってるんだろう。
これは本だけど、本じゃない。辞典らしいが用途不明だ。
本好きと勘違いされて、という訳でもない気がしてきた。
「考えても無駄だよなぁ」
しばらく考えて、佐倉は頭を切り替えた。死んだ祖母に疑問を持っても意味はない。
ここで佐倉の美点でもある、物事をあまり深く考えない所が、発揮された。普通、変な物をもらったと思ったのなら親にでも聞けばいいのだが、それすら彼女の頭には浮かんでいなかった。
本をどかして立ち上がる。ダンボールにしまい直そうとして、手が止まった。うん、別に机の横にあったって邪魔にはならない。
そうして祖母の本は、机の上に放置されることとなった。
彼女は本のことなどすぐに忘れた。思考は今日の予定へと向いていた。よし、今日は市民プールへ行ってこよう。きっとプールは子供だらけでまっすぐ泳げやしないだろうれど。とにかく水の中で身体を動かしたい。
部屋を出て行く佐倉の背後、机の上であの深緑の本が、ぼうとかすかに光ったことを――彼女は知らなかった。