扉の先 11
天が裂けた。
まるで絵画天井を破り裂くように、その隙間から巨大な紫色の指が現れた。
目撃した双方が、双方とも言葉を失った。
『は、ハルト!』
通信機から我に返った仲間の声。
『なんかやべえぞ!』
そんなこと、ここから見ていても分かるんだよ阿呆。
『全員退却!』
波が引くように、人形達が動き出す。ハルトも脳内に響く命令に条件反射で動こうとして、くんっと服が引っ張られるような感触を感じた。服を掴む細い指。はっとして少女を見やる。
上空を見つめ、口を開けたまま全く動いていない。
「サクラ?」
「や……」
上空の鬱血した指が身震いした。産道から出てくるように、掌が裂け目から飛び出した。五つの紫の指先が、痙攣を繰り返し、やがて拳を握る。
ハルトは息を呑んだ。
――――まさか、それを振り下ろすなんてことは。
「そんなことになったら、この地域丸ごと、潰される……!」
「やだ! なし! 呼んでない呼んでない!」
隣の子供が駆け出した。
「さ、サクラっ?」
佐倉は夢中で駆けた。『危険で、素敵な救世主。場所を選んで呼べ』って成程、確かにその通りだ。あんなもので大地を叩かれたら、全員死んでしまうではないか!
「そんなこと望んでない!」
望んでいたのはどちらも助けることで、どちらも殺すことじゃない!
佐倉は走った。倒れている兵士の横を通り過ぎ、なだらかな丘を駆け下り、真上を見上げるアルルカの横を走り抜けた。
「ドラクロワ! やめろ!」
佐倉は叫んだ。上空の拳が制止したように、見えた。私の声、届いてる?
「ご、ごめんなさい! 呼ぶつもりなんてなくて! そんなことして欲しくないの! ごめ、ごめんなさい!」
まるで不良に絡まれた人みたいに平謝り。でも効果はあった。痙攣を続ける拳が、ゆるやかに弛緩し始める。だらりと伸びた指は、掛け軸の中の幽霊の手つきみたいだった。ず、ず、ずと効果音がつきそうなぐらいゆっくりと、それは裂目へと戻っていく。
「あ、来てくれて、あ、ありがとう、ございました」
何故か帰る時には気分良く帰っていただきたいという見当外れな考えがよぎった。空の切れ目が完全に消滅するまでは目を離せず、ハラハラと天を見つめる。そんな佐倉から目を離せなかったのは――ハルト。
ハルトは、あの子供がしたことに、気付いてしまった。
「……何なんだ、あの子」
『ハルト引け! 他の奴はもう引いたぞ!』
「分かったよ!」
噛み付くように言い返す。でも、足は動かなかった。欲しいと思った。あれが欲しい。遊び半分で言っていたのとは訳が違う。あれは強大な力だ。あれがあればニンゲンに勝てる。神経の奥の奥で這いずるような欲求がハルトに囁いた。――欲しい? いや、あの力は、なくてはならないものだ。我々には、絶対に『必要』な力だ。
手に入れろ。
手に入れなくては。
引き寄せられるように、足が動き――
――――しかし、間に厄介な男が立っていた。
熱にうかされたように動きかけた歩みが止まる。
眼前に、五番のアルルカがいた。黒髪を結い上げ、独特の鎧を着込む男は、鋭い視線をこちらに向けていた。すいと視線がそれ、彼の目が佐倉を捉えた。こっちの思惑に気付いている。男はゆっくりと数歩前へ、歩を進めた。そしてぴたりと止まった位置は、ハルトと佐倉の間の、目に見えぬ線上だった。分断するように立ち、再び射抜く視線をこちらに投げてくる。
相手が悪すぎる。
「クソ!」
ハルトは引くしかなかった。
失った腕分の軽さと後ろ髪引かれるような感覚を味わいながら、彼女は身を翻した。