扉の先 10
どうして、どうしてこんなことになって――――。
モントールは動かない。鎧のせいで、彼がどうなっているのかも分からない。風に流れた黒煙が、佐倉の視界を一瞬覆った。流れる黒煙が去った後、佐倉は周囲を見つめ、硬直した。
それは、初めて見る光景だった。地面が捲れ、煙と火に包まれて叫ぶ声、倒れる人。普通じゃないと思った。それは佐倉にとっては普通ではない光景だ。普通ではないことが、ここでは普通のことなのだ。
ここは自分のいた世界ではない。せり上がる恐怖に、心臓が大きく鼓動を打った。
ついに佐倉は自覚した。
村の誰かの生活のような些細な違いが、佐倉にここが異世界であることを認識させた。
そして、今、受け入れられない光景が、佐倉の心に異世界であることを自覚させた。
「わからな……」
涙で視界がぼやけた。怖かった。とにかく怖かった。心に守る薄い膜がなくなり、無防備になった感情に普通ではない光景が噛み付いてくる。封じ込めていた感覚の箱が開く。目を逸らし続けた『答え探し』がついに始まった。
「わからない…!」
ここは、どこだ!
「うちにっ……」
お母さんの背中が浮かんだ。プールへ行くと声をかけ、気をつけてねと言葉が返ってきたあの背中。お母さん。お母さん。お母さんどこ!
「帰りた……ぃ…!」
涙がこぼれて、訳が分からなくて、でも爆音も地響きも続いていて、誰かの叫び声が耳から離れなくて……!
不意に、泣きじゃくる佐倉の上に影が落ちる。いつの間にか、紅の女が傍らに立っていた。
「やっぱりニンゲンなんだねえ」
ハルトは屈んで、佐倉の顔を眺めた。
「目から水が出てる」
そういうハルトは人ではないのだと、佐倉は実感した。腕がないのに、血も出ていない。それは絶対に人ではない証だ。
人形と、彼女は何度か呼ばれていた。この紅の人は、確かに人の形をしている。でも人ではない何かだ。佐倉にとって知らないもの。佐倉の世界にいないもの。それがこちらを見ている女だった。薄ら笑いを浮かべているハルトが信じられなかった。
佐倉はハルトの服を掴んだ。彼女のその表情を変えてやりたかった。そうじゃなきゃ。そうじゃなくちゃ、倒れていった人達があまりにも……!
「何でこんなこと!」
「何でって」
ハルトは小首を傾げた。
「人形とニンゲンは変わらずこうだ。お互い、滅亡を望んでる」
佐倉の知る現実からはかけ離れた言葉。佐倉は誰かを殺したいと思ったことはない。そして誰かに殺されると思ったこともない。でもここでは誰もが身近に感じている。武器を持たなくては、誰も生きられない。
それがこの世界なのだ。
「どうして」
それでも訊ねずには入られなかった。声が震え、大粒の涙がこぼれる。
「どうして、ハルトと」
佐倉は倒れているモントールを指差した。感情が爆発した。
「――――この人達が殺しあわなくちゃいけないの!」
そして、掴んだままだったハルトの服を乱暴に引っ張った。
「私は……っ!」
佐倉は怒鳴った。
「ハルトが好きだ!」
ぽかん、とハルトが口を開けた。そんな彼女を押し退ける。佐倉に押されて、ハルトはよろけた。
「同じくらいに、モントールも好きだ! アルルカさんだって、凄い人だって思ってて……!」
大粒の涙がぼろぼろこぼれた。
「どっちもこの意味のわかんない場所で私のことを見てくれて、なんで、それなのにどうして!」
佐倉は涙を拭った。ぐっと顎に力を入れて、ハルトの先に見える惨状を睨みつけた。立ち上がる。今や佐倉は感情に流されるまま、動いていた。何かしていないと気が狂いそうだ。完全に「無謀な人助け病」にかかっていたのは心の隅では分かっていた。でもがむしゃらに動いていないと、心が壊れてしまいそう。
「サクラ?」
ハルトが横を通り過ぎた佐倉を呼んだ。
「何するつもり」
「何って決まってる。私にはどっちも大事なの。だから、助けるし止める。こんなの馬鹿げてる!」
「いや、馬鹿げてるのはあんただから」
ハルトは後を追った。『変なニンゲンだな』――脳内に言葉が流れ込む。おっとぉ、通信機、切り忘れていた。どうやら全員聞いていたようだ。
「だよねえ。何にもできないよサクラ。あんたじゃ無理」
後半部分は、変なニンゲンの子供に向かって言っていた。
「ニンゲンの御伽噺の勇者サマか、はたまたニンゲンの聖典の救世主サマサマでもご登場しない限り、こんな泥沼な状況を何とかできるわけがない」
ハルトは笑うように言った。もちろん、この子供は聞いてないと思ったのだが。
何故か佐倉は、目を見開いて、振り返った。
「なんで気がつかなかったんだろう……」
呆然と呟く子供は、側で見ていて普通ではなかった。ハルトは眉をひそめた。
「昼街とか、人形とか、グレースフロンティアとか、あの時読んだ――――」
「サクラ、あんた――――ちょっと?」
佐倉はハルトの問いかけも聞こえていない。彼女の言った『救世主サマサマ』が記憶の鍵。
物事が一瞬で綺麗に収まっていく。
祖母の本!
記憶がぶわ、と蘇り、思わずハルトの服を掴む。ええと、なんて書いてあった。あの本には、なんて。
――――危険で、素敵な救世主。場所は選んで呼べ。
その名前は。そう、その名前は。
佐倉は顔を上げた。
「ドラクロワ……?」
呟いた瞬間、天が割れた。