その階段から眺める景色は 2
真上、遥か遠くで、首吊り人形が揺れている。
地に足がついた状態へと帰還した佐倉は、アーチ天井に吊り下げられた人形を見上げた。自分がやり遂げたことを誇らしく思いながら、遥か頭上のその人形が、スカートの中に、一切、何も着用していないことを清々しい気分で注視、点検した。
「呆けてないで、梯子立てろ」
ラックバレーに従って梯子を垂直に立てれば、戸口で覗いていた子供たちが外へと姿を現した。
しばらく、梯子を垂直に押さえたまま、周りではしゃぐ子供を見守ることになった。女の子は、下着未着用の首吊り人形を満足気に眺め、こちらに満面の笑顔を向けた。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
しっかり者らしきお姉ちゃんの発言に答えたのはラックバレーだ。さらりと答えた。衝撃。マジマジと相手を見てしまう。「ありがとう」の返答が、「どういたしまして」だってことを、この病的に痩躯な男が知っていたという謎の感動がそこにはあった。
「さすがに二人じゃ、この長梯子はどけられねえ。道向こうの『酒樽』から、たらふく振舞ってもらってきな」
「うん、ロイ、行こ!」
女の子が弟を引っ張って、『酒樽』方向へ駆けて行く。
「あの年齢でお酒を嗜むとか、将来が有望過ぎない……?」
「そんなバカな話あるか。『酒樽』の中は、シトラグラディスをこれでもかってくらい甘く煮た、殺傷力抜群の狂気の産物だ」
シトラグラディス。名産の柑橘類だ。
「シトラグラディスが関わると、味は疑わないけど、目を疑う食べ物が誕生しがちだよね」
「これに関しては、味も疑っていい」
ラックバレーはそう言うけれど、甘い飲み物を好きか嫌いかの味覚の違いだと思う。目が追いかけ続けていた女の子たちは、『酒樽』の隊員の所にたどり着いたようだった。『酒樽』隊員は、今も老若男女に囲まれて大人気だ。皆がああやって集まるんだから、美味しい飲み物なんだろう。ああ、そうか。『酒樽』なんて名前なのに、酒を振舞っているわけじゃないから、老若男女に大人気なのか。
『酒樽』の配給列に加わった女の子が振り返り、こちらに気づいて手を振ってくれた。
手は振り返せなかった。梯子を支えていたから。でも、会釈を返せば笑顔がもらえた。うん、ますます良い仕事をした気になれた。ただ人様の玄関口に人形をぶら下げただけなんだけど。
垂直にしていた梯子を、再び、立てかける。ようやく手が解放された。ラックバレーが脇に避けてあった箱の前に胡坐をかいた。佐倉が梯子を登った時には無かった木箱だ。ラックバレーが持ってきたのだろう。蓋を開けると歪な人形がこれでもかとばかりにぎゅうぎゅうに敷き詰められている。ひたすら怖い。猫背な男が、ひしめく人形の中に手を突っ込み、人形をこぼしながら取り出したのは、麻の巾着袋だった。
「あ、『銃屋』」
どうやらラックバレーは『銃屋』に任命されていたらしい。同班の『銃屋』のお仕事を見てきていた佐倉は、建物の出入り口の脇に設置された木箱に手を伸ばした。まるで牛乳や新聞を配達する為に設置されているかのようなどこにでもある何気ない木箱だ。普段、佐倉が意識したこともなかった、住宅地の玄関口に当たり前に存在する木箱の中身は――佐倉の人生には当たり前のように存在していなかった二挺の拳銃だ。
「慎重に扱えよ。ぜってぇ落とすな」
「落とすわけないよこんな危ないもの」
「世の中にはな、前科がねえ奴だけが吐いていい台詞ってもんがある」
佐倉は、細心の注意を払って、拳銃をひとつ、ラックバレーに手渡した。
骨張りすぎた長い指が迷うことなく銃の点検をしていく。隣にしゃがんだこっちは、銃のことなんてさっぱりだ。佐倉が銃という単語から想像するものなんて、映画のワンシーン、いかついマフィアのオッサンが実弾をひとつ、蓮根みたいな銃弾を入れるところに補充して、グルグルまわした後、自分のこめかみに当てて引き金を引き、ニヤリと笑いながら「さあ、お前の番だぜ」とか言っちゃう頭おかしい死のゲームのシーンくらいのものだ。しかし点検している手元を眺め続けていれば、この銃がイメージするような蓮根部分が無い銃だってことが分かってくる。ラックバレーは棒状のポッキンアイスを二つに折るみたいに、銃筒と握る部分を折り曲げた。銃筒部分に装填されていた銃弾が取り出される。――ここで佐倉の知る世界の銃には無さそうな異文化体験が訪れた。佐倉が想像する銃弾は、小指の先くらいの、古い南京錠みたいな鈍色のものだ。しかし、取り出されたものは、男の人の親指より大きそうなサイズの銃弾だった。しかも赤色の紙テープみたいなものでぐるぐる巻きにされている。包帯のようなその巻き方は、まるで花火玉のようだった。
「ん、」と、あちらから取り出した銃弾を差し出され、「ん、」と、こちらも両手をおわんのように用意した。手中へと落ちてきた銃弾は、なんだか重い。中に液体が入ってる……?
その間に、ラックバレーは、人形と一緒に持ち運んでいる麻袋から、新しい弾薬を取り出していた。
佐倉は、自分の手の中に落とされた銃弾と、ラックバレーが装填する銃弾を見比べた。
「これ、何?」
「シケってるとまじぃからこうやって交換が欠かせねえ。いざって時に使えないと……」
「使えないと?」
ラックバレーは、目線だけ、一度、こちらに向けた。見開かれた瞳。すぐに視線は銃に戻される。まるで見てはいけないものを見てしまったかのような反応。再び作業に戻ろうとしたラックバレーは、呻いて、項垂れ、搾り出したのは絶望というような声だった。
「お前さあ、嵐姫、知らねえってなんで誰にも言ってねえんだよ……!」
「あ、うん、そう! 知らないんだけどすごいよね! でも誰も知らないって気づかないんだよね!」
「いや言えよ知らねえなら! なに当然って顔で手伝ってんだよ、何の手伝いか全然わかってねえってことだろうがよ、てかまじでお前の田舎どうなってんだよホントに!」
佐倉は、ラックバレーの説教に、こくん、と頷いた。
「……反論はねえのかよ?」
「いや、うん。まさにそうっていうか。なんか、ついつい、指示もらえるし、言われたことやってればいっかぁ的に考えちゃうところあるなって。気をつけようって思ってるんだけど、もはや癖かなあって、反省してたとこ」
反対の論ではなく反省の弁を述べたら、数秒後、盛大な舌打ちが返ってきた。舌打ちて。
「嵐姫は、この季節に街にやってくるギアだ」
「ぎあ?」
「そこからか! おうよ任せろくそったれ! ギアは……あー、ギアは……神様? そう、神様だ」
「かみさま」
「待て、神様じゃまずいか。何も知らねえ相手にこの答えじゃダメか。やっぱり神様じゃない」
「かみさまじゃない」
「あー……ギアはだな、ありえねえ存在っていうか、だが信仰の対象ってわけじゃねえからそういう意味では神様じゃないんだが」
「かみさまじゃない」
「いや、もう、不条理そのもんだし超常的存在なわけだから神様であってるような……」
「かみさま」
「この世の存在じゃねえっていうか、異常と災厄の塊っていうか」
「ドラクロワみたいなもの?」
ラックバレーがこちらを見た。
佐倉には嵐姫が何かは分からないが、不条理で超常的で異常と災厄の塊な天を裂く鬱血した巨指には心当たりがあった。
あのおぞましさは、決して信仰できない存在だと思う。
だが、地上の小競合いを有無も言わさず黙らせるような圧倒的な存在感は、まさしく神様の一種だと思えた。
「まあ、それもギアだろうな。この世に存在しているなら。だが古代神ってくくりに入っているやつってのはかなり眉唾モンだし、ギアのくくりに入れていいのか微妙」
あれ、なんだろう、ドラクロワさん、存在を否定されてない……?
声を大にして、いるよ! その古代神!って天裂くギアさんをかばいだてたくなったが、ほとばしる感情で勢い余って口走ったら最期、お団子頭の御方の手によって頭と胴体が永遠の別れを告げかねない。
頭と胴体にはまだ仲良しでいてほしいから、佐倉は懸命にも、咽喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「何だそのクソみてえな顔。なに、お前、疫王好きとか少数派の嗜好、貫いてんの?」
「……いや、全然、そんな嗜好貫こうと思ってなんかないけど、ただ、名前知ってただけ」
「嵐姫もギアも分かってなくて、疫王だけ知ってるとかお前の知識の偏り具合が、まじで意味がわからねえよ……」
ラックバレーは首を振りながら、手元の銃へと顔を戻し、続けた。
「古代神って世界宗教で人為的に作り出された感があるだろ、真実なんだか虚偽なんだか、よくわかんねえ。たぶん、疫王は虚偽じゃね?」
可哀想! ドラクロワ! 存在自体、全面的な虚偽扱い!
「その点、嵐姫は完全なる真実。毎年毎年ここにやってくる、心底ありがてえギアだ」
「不条理で、異常で、災厄の塊のギアが、この季節にこの街にやって来るってこと?」
「だいたい白天祭が終わったあとの、この季節だな」
「何しに?」
ラックバレーは、肩をすくめた。
「人間に完璧にその理由がわかるなら、ギアは不条理のくくりに入らねえ」
なるほど、神のみぞ知るってことなんだろう。
「嵐姫は、たいてい、人間が寝静まった時間に、こういう道を通り抜けていくだけだ」
ラックバレーは人差し指を左右に振り、目の前の石畳の通りを指し示した。
「家の出入り口にはこうしてまじないがあるし、嵐姫はよっぽどなことがない限り、建物の中のものには興味を示さねえ。嵐姫は盲目だ。かわりに視覚以外のものに、すげえ過敏に反応してくる。通りにいるって気づいたら、寝床で身ぃ縮めて、息殺してろ」
「道でばったり出会っちゃったら?」
「安心しろ、死にはしねえ。まっさらな人間の抜け殻が出来上がるだけだ。数年経てば自我も生まれて、十年程度経てばひとりで生活できるくらいには社会復帰できるだろ。まあ、それが抜け殻前の人間と同じ人間かどうかは、わからねえが」
安心しろと言われながら、ちっとも安心できない答えが返ってきた。
ラックバレーは、点検中の銃をこちらに見せた。
「どうしようもねえ状況になった時の、人間の最期のあがきが、これだ」
赤布に巻かれた銃弾を装填し、銃筒を持って、こちらへと差し出してくる。
佐倉は慎重に銃を受け取った。
「今、お前が持っているほうの銃が、陽動弾の銃」
「陽動弾」
「そう、目くらましの銃。まあ、嵐姫は目が見えてねえけどな。銃弾には嵐姫の気がひける力が詰まってる。嵐姫に遭遇するようなクソみてえな状況に陥ったら、これを撃って、逃げる。死ぬ気で。捕まったら自我の死がやって来るんだから、とにかく道にある銃を撃って逃げまくれ。そんである程度、距離をとったら、建物内に逃げ込んで、もうなにも考えないで黙って目ぇ閉じてろ。嵐姫が道を過ぎ去れば――良かったな、そいつは災厄から生き残ったってことだ」
ラックバレーの空になった手が、もうひとつの銃を要求した。
先ほどの赤褐色の拳銃とは違い、黒色の拳銃を手渡した。
ラックバレーが中から黒布の銃弾を取り出した。
「で、こっちが照明弾」
「照明弾」
「空に向かって撃てば数分、昼間みてえな明るさになる。これも視覚的には嵐姫には関係がねえだろうけど、街の人間全員に、よーく見える」
「夕街部隊に入ると、この照明弾が使われたら、救難信号を出したやつのかわりに嵐姫の前に飛び込めって教え込まれる」
物騒でしかない教え。すげえ、夕街の隊員さんの街の英雄感が半端ない。
「実際のところ、嵐姫と遭遇したら照明弾なんて撃ってる暇なんかねえし、絶望的な話をするなら、陽動弾ですら成功した実績がねえ」
まさかの話に佐倉はぽかん、と口を開いた。
「え? つまり、この銃、意味ない?」
「さあな」
「さあな?」
「嵐姫に街で遭遇して、記憶が残ってる人間がいねえから、こいつに意味があるのか、ねえのか、いまいちわかんねえんだ」
「怖! その返答、めっちゃ怖!」
つまり、この玄関口の木箱に入った二挺の拳銃は、『人間の最期のあがき(ただし成功するとは誰も言ってない)』ということだ。ラックバレーは嵐姫に遭遇しても死なないって言っていたけど、嵐姫と遭遇すると人間は自我が喪失した状態になるらしい。つまり、嵐姫に遭遇後、『最期』のあがきが成功しないと、その後は、流れ作業のようにスムーズに自我のみ三途の川を渡っていくことになる――そして人間の抜け殻が完成するってことか。なにその絶望、嵐姫、超怖い。
震え上がりながら、銃を木箱に戻す。
「で、ササヅカ? 嵐姫が通りを抜ける時には、どうするって?」
「お布団被って、お外には絶対出ない」
「よし」と頷かれ、「ゥス」と返す。いや、ホント、ラックバレーに聞いておいて良かった。知らずに嵐姫が闊歩する通りに出るようなことがあったら、頭と胴体は友達のまま、頭と頭の中身がバイバイすることになっていたに違いない。
「ぉおーい! そこのおふたりさーん!」
こちらに向かって手を振る集団がいた。
「休憩休憩! そろそろ昼飯にしようぜー!」
今朝、共にあの恐怖の爆走イグランから生き残った新兵部隊の皆だ。近づいてくる集団の先頭は、佐倉の同班の隊員達だった。でも、佐倉が一番、注目したのはその後ろの小柄な少年だった。
「あ、チロ」
ラックバレーの横で腰を上げる。姿を見かけたのが、久々過ぎて、テンションが上がる。すっごく久々! たぶん、4、5日ぶり。佐倉は数日のことを思い返した。王城試験の時に、応援に行った時以来だから――うん、そう、5日ぶり。
あの王城試験から数日経ち、チロに外傷の無い様子を確認して、少しホッとした。王城試験の時は……ほら、試験官と、試験官でもないその他諸々に、すんげぇ派手に転ばされてたから、怪我してないかヒヤヒヤしていたのだ。
あの王城試験のあと、新兵部隊員は集団訓練より昇格試験に向かっての個人行動がメインになっていた。佐倉とチロの非番日や勤務時刻がずれたこともあって、過去、最長で顔を合わせていなかった。今日も今日で、チロは夕街の実家から集合したのだろう。参加していることにすら、全然気づいていなかった。知ってたら、同班にしてもらったのに。くそう、朝、ここに辿りついた時は、周囲を見回せるほど生き返ってなかったことが、これできちんと証明された。
チロもチロで、こちらを発見してぱっと手を上げた。きっと思わずの行動だったんだろう。目立つ動作を恥じたのか、手は振られることなく曖昧に降ろされてしまったけれど、八の字眉の中心に皺が寄ることなく、つぶらな瞳が糸目になって、しかもはにかんだ感じの口元がめちゃくちゃキュートな笑顔がきた。引っ込み思案なチロのこういう笑顔を見れるとこっちもすっごく嬉しくなる。
同期でも会わない時は全然会えなくなるんだなあと、チロの笑顔を見ながらしみじみ思い、そして、集団の塊の逆側に白冑の美童の姿を発見して、一気に幸せ気分が下降した。向こうとも目が合った。美しい瞳は、こちらを見ても全く喜んでいなかった。そりゃそうだ。王城試験後、ミカエル・ハヅィとは何故か毎日会っていた。会いたくもないのに。解せぬ。
「……あ? あ、ササヅカ! お前、」
近づいてくる梯子の1の隊員が頭上に吊り下がるノーパン人形を指差し、続いてこちらを指し示す。
おっと、まずい、これは勝手なことをして怒られるパターンか。
佐倉は保身から瘦身の男を指差した。
「ラックバレーが梯子を支えてくれた」
「ササヅカが勝手に梯子にのぼってた」
共犯者にしてしまおうとしたら、隣もこっちを売っていた。ひぃ、酷い……! 結果、がっしりした腕が首にひっかけられ、チョークスリーパーの形で捕獲され、班員達に小突き回されることになった。
「てめー、何のための梯子の1から4なんだよ、あ?」
「ひとりでやれるなら4人もいらねえだろうが」
「俺達が酒樽の列整理をしてくるって話だったろー?」
「梯子見とけってのが、なんで梯子にのぼる話になってんだよ」
「誰もお願いしてねえだろうが、こら」
「いたっ、ちょ、くび、首……!」
太い腕に首を圧迫される恐ろしさを想像してみてほしい。ギブアップの意味を込めて腕を高速タップしているのに、全然、意に介さず、「おら、こうやって頚動脈ンとこ極められ続けると落ちるぞ、こういう時はどうするか習ってねえの?」ときた。いや、そんなの習ってないし、そもそも習う意味もわからない。
佐倉はもがいた。その姿は周囲からすれば、飼い主の抱き上げ方を嫌がって脱出を試みる子猫のような反り返りと暴れっぷりで、周囲の笑いを誘うことになった。
「お前、そんなんじゃ本番、絶対、外せねえからな」
「いやいやいや、本番!? 本番とかない、絶対ない、ありえない!」
奇妙な抵抗の仕方に力が抜けたらしい。笑い声とともに太い腕の拘束が緩められ、佐倉はすぐさま病的に白い男を壁にするように距離を取った。なんとか酸素を確保する。なんの意味も成さなかった佐倉の抵抗に爆笑する集団と困り果てるチロを流し見て、最後に、集団の中で極めて冷然と事態を眺める人間を見つけ、思わず、そちらを指し示した。
「ミカエル、そういう自分には関係ありませんって顔してたって、いざこういうことになったら、ミカエルだって抜け出せなくて困るんだからね!?」
なんせ、同期の三人組みは誰だって線が細くて筋肉がついてない。こんな先輩方の筋肉の塊と化した腕で首を圧迫されたら、白冑の美童だって失神するに違いない。
佐倉の言葉に、白冑の美童は、鼻で嗤った。
「この僕が、そういった体術の類を学んだことがないとでも?」
おー、きた! この、人を苛立たせるミカエル特有、金持ちのいいとこの出自の才能あふれる人間ですが何か、的発言!
指差したままの指の先を振り回し、佐倉は周囲に激昂した。
「後輩にこういう発言させといていいんですか……! 新兵部隊で学ぼうって意欲が感じられない可愛げゼロな後輩ですよこいつ……!」
「いや、お前もな」
先輩隊員たちは首を振る。
「そもそも、王城試験に受かった上で蹴ってくるような後輩に教えるようなこと、俺らには何にもねーよ」
そうなのだ。
王城試験のあの日。
受験したチロは試験官に蹴り倒され、応援に行った佐倉は他人の股間を蹴り上げ、ミカエルは試験をやすやすと通過して――合格を蹴ったのだった。
「匙投げないで……! 調子こきますよこいつ!」
「いや、うん、王城試験に受かるようなエリートは調子こいていいんだよササヅカ。しかも受かることを証明したかっただけって理由で断るなんて、過去誰もいねえし、マジでかっこよくね?」
「前代未聞。まあ、ムドウ部隊長、記念受験ふざけんなって鬼神のごとく怒ってたけど」
「ハヅィもついに怒りの拳骨くらってたしな、うん、全部ひっくるめて、俺、こいつが同じ部隊の後輩で自慢できるなって思ったわ」
ダメだ! 全然諌めてくれない空気……!
ムドウ部隊長がついに、あのミカエル・ハヅィに拳骨をくらわせたことで、ちょっと距離があった先輩隊員達の中でミカエルをちゃんと後輩隊員として見るような動きが増えた気がする。ずるい。こっちだって王城試験の騒ぎで、ムドウ部隊長に拳骨を二発いただいているのに。なんで一発のミカエルのほうが、先輩隊員から「調子こいてOK」とか言われているのか。納得できない。全然納得できない。こっちだって調子こいたムーブかましたい。
全てに口に出していれば、「お前はいつだって何の理由もなく調子こいてる」というド正論が降ってきたはずだが、幸か不幸か佐倉はこの持論を口には出さず、地べたに座る男の服の襟を引っ張った。
「ラックバレー、ほら、なんか、……なんか、言っておやりよ!」
「なんだその雑なフリは」
呆れる男は、少し考えた後、『なんか』を思いついたようだった。
「ミカエル、そういや、お前、長梯子ってのぼったことあるか?」
「長梯子?」
意外すぎる質問に、白冑の美童が珍しく聞き返した。
ん、聞き返した?
「そう。長梯子。ここにあるこの梯子」
「…………」
「…………んん?」
佐倉は沈黙する同期の様子に気づいた。ぴょん、と身体が跳ねる。瞳がイキイキと輝いた。その瞳は悪意なく、同志を見つけたという輝きに満ちていた。
「ん、あれ、ミカエル、え?」
喜びでぴょこぴょこ跳ねるようにミカエルに駆け寄った。
「もしかしてミカエルも、この梯子、上から三段のぼっちゃダメって知らない人!?」
「…………」
「いや、むしろ知らなくて当然だと思わない? そんなの、習ってないよね?」
「…………」
「チロ、知ってた?」
同意を求めるように、集団の端っこにいるチロに声をかける。チロは周囲の注目に戸惑う表情を浮かべたが、佐倉の問いかけにおずおずと頷いた。
「あー、チロが知ってるってことは、常識ってことか」
佐倉は納得して頷いた。この世界出身ではない佐倉にすれば、一般常識ではないわけだが、チロが知っているならばこの街の一般常識として間違ってないことになる。この街の子供は小さいころから梯子の上から3段はのぼらないと教えこまれてくるのだろう。そしてあることに気づき、はっとしてチロを見つめる。
「え、チロ、もしかして長梯子、のぼったことあるの?」
再び、注目を浴びることになった少年は、何に怖気づいたのか半歩下がりかけた。周囲を見たあと、諦めたように、こくん、と頷く。佐倉は驚きと尊敬の声をあげた。
「え、すごい! 怖くなかった? 今日のぼってみて、めちゃくちゃ足がガクガクしたんだけど、え、チロ、いくつの時にのぼったの? え、やば、すご! かっこいい! ――痛っ!」
右足首に衝撃を感じて、佐倉はよろけた。何事かと見る。いや、何もない。地面にはぶつかるようなものは何も。偶然ぶつかる物体は一切無かったが、故意に蹴るとするなら、ミカエルの足が範囲内に存在した。
「……は?」
佐倉は白冑の美童を見た。この中で誰よりも整った顔立ちの少年が、なんか文句あるかとばかりの堂々とした表情でこちらを見ていた。いや、文句しかないけれども。
今、こいつ、蹴らんかった?
瞬時に蹴り返す。白冑ががしゃんと音を立てて、よろけた。ミカエルが信じられないものを見るような目でこちらを見た。いやいやその目はおかしい。最初に蹴ったのはそっちなのに!
美少年の美しい指が伸びてきて佐倉の鼻を掴んだ。高くもない鼻を捻られる。佐倉の日に焼けた手も伸びた。切り揃えられた美しい金の髪をむんずと掴み――
「うわー、怖ぇええ! ドウドウドウ!」
「待て待て待て、喧嘩すんな!」
「やめれ、無言でやりあうな!」
周囲が慌てて、佐倉を引き剥がした。
「なんなの、ササヅカ、めっちゃ怖ぇえ」
「流れるようにハヅィに常識がねえって言ったな……」
「いやいや、長梯子なんてミカエル・ハヅィがのぼったことあるわけねえじゃん、朝街出身なら、長梯子なんて庭師とかしかのぼらねえから」
「すっげえ自然に自分と一緒の、出来てない奴ってくくりにハヅィを分類してったよな……」
ぼやきながら羽交い絞めにして引きずって距離を離す先輩隊員たちに対して、佐倉は不満しかなかった。何故、先に手を、いや厳密に言えば足を出してきたミカエル・ハヅィを、羽交い絞めにしている輩は誰もいないのか。何故、こっちばかり皆で止めようと手を伸ばしているのか。これではまるでこちらだけ危険人物のようではないか。先に足を出してきたのはあっちなのに。
「おにいさんたち、ケンカしてるの……?」
心配したような女の子の声に、隊員全員が固まった。
小さな男の子と手をつないだ女の子が、こちらを見ていた。
――佐倉に、この建物の入り口に人形をつけて欲しいと言った、あの女の子だった。
視線が彷徨い、佐倉を見つけると女の子は見知った顔を発見して安心したのか顔を綻ばせた。そして、佐倉が羽交い絞めにされていることに気づくと顔を曇らせた。すると、あらゆるところから佐倉を止めようと伸ばされていた腕が、波のように引いていった。
「酒樽に振舞ってもらってきたか?」
ラックバレーの場違いな程、のん気な質問に、女の子はうん、と頷いた。ラックバレーの質問でゆるゆると笑顔が戻ったが、先ほどのことが気になるのか、ちらり、と佐倉のほうへ視線を向けてきた。
街のヒーローが喧嘩してたら、子供は失望するかもしれない。
佐倉も心配になり、緊張した面持ちで女の子と視線を合わせた。
「あの、」
女の子が佐倉を見て、意を決したように口に出す。
「は、はい、……?」
「あのね、ともだちと、ケンカしちゃったら、仲直りはね、こうするの」
女の子はそう言うと、手をつないでいる男の子を引っ張った。ふたりは顔を近づけて、おでこをこつん、とぶつけた。よたよたする小さな子は、お姉ちゃんのしていることを全く理解していなかったけれど、楽しかったのか、きゃっきゃと笑った。
額で熱を測る時みたいだな、とぼんやりと思いながら、小さな子供たちのすることを眺めた佐倉は、再び女の子の瞳がこちらを見たことに気がついて、若干、背筋を伸ばした。
「ね、これで、仲直り」
「あ、うん……」
「おにいさんたちも、仲直りして?」
「あ、うん、……うん!?」
なるほど、ああ! お兄さんはこっちのことか!
おにいさんと呼ばれる衝撃の後、第二波にとんでもない事実がきた。
そして、おでこ、こつん、しろと……!
え、誰と――ミカエルと?
ミ カ エ ル と !?
「ああああぁ……、うーーーん……?」
困り果てて、先輩隊員達を見た。
先輩隊員達は神妙な顔で頷き、そっと、佐倉の背中を押してきた。
「子供のときにやっただろ。子供が互いにごめんなさいをする為の儀式がこれだ」
「大人になってからやるの、めっちゃハズイが――」
「言ってやるな、やれ。とにかく、やれ! 子供の夢には、ちゃんと応えろ!」
こそこそと背後から助言というか命令が飛んでくる。どうやら、この仲直り方法もこの街では常識らしい……。常識らしいけど、でも、ミカエルとこの方法で仲直りする……? ぴんとこなくて、白冑の美童を見れば、すんごい形相でこちらを睨んでた。え、怖っ!
「え、これ、第二ラウンド始まるんじゃない? やるならやるでこっちも辞さないけど、いや、仲直りするんじゃないの、え、これ、やんのかコラ、すんの、え?」
背中をどんどん押される。鬼気迫る顔のミカエルが大きめな一歩を踏み出し、しかも一度、頭を後ろに引き反動をつけた。あ、こら、反動つけるとか……! 叫ぶ間もなく、額がぶつかる。こつん、なんて可愛らしいレベルじゃない音が出た。ごつん、というか、がつん、というか、ごきん、というか、とにかく凄まじい音だった。
――そして、佐倉と白冑の美童は、ふたりで崩れ落ち、頭を抱えて悶絶することとなった。