その階段から眺める景色は 1
見据える先にあるものは、アーチ型の天井から垂れ下がる小さなフックだった。
ピーターパンのライバル、フック船長の手のような形をした小さな出っ張り。それを見つめて、佐倉の足が、また一段、梯子をのぼる。
でも、低い位置ではスムーズだった動きが、だんだんとわけがわからなくなってくる。梯子にのぼるってどうやってたっけ? 次は、ええと、手? そうだ、手を、片手だけ離して、もうちょっと上の位置を掴んで……ええと、それで……。
「ササヅカ、ちょっと待て、お前――それ、本気でやってんの」
衝撃、というような声が、ちょっと遠くから投げられた。
ラックバレーの声。だが、佐倉はそちらへ視線を投げることはなかった。下を見たら最後、足が竦む可能性が大だったからだ。だから適当に唸って、もう一歩、足を持ち上げる。
「待て待て待て! 止まれ、危ねえから!」
焦ったような声に足が止まる。でも片足立ちでは、こんな所にはいられない。すぐさま足が元の位置に戻された。
白天祭の頃、雲ひとつない晴天が続いていたこの場所は、少し重々しい曇り空の日が増えるようになっていた。雨は夕立でしか来ないけれど、どこかすっきりしない天気が続いている。
今も、曇り空。体感的には無風。風があるかないかなんて、佐倉はこの街で気にもしていなかったけれど、今日ばかりは敏感にならざるを得ない。そう、風はない。もし風がちょっとでもあったら、たぶん、こんな馬鹿みたいなことやってない。
「お前、アレだな、梯子、のぼったことねえんだな」
もはや問いかけの形にもなってない言葉で核心を付かれ、咄嗟に下を見た。目に飛び込んだのは、思った以上に遠い地面。そして、こちらを見ているラックバレーの顔が、足を置いている位置より下にあることを認識。即座、絶叫。
「見ちゃった、下、見ちゃった……!」
「むしろ、そんなんで良く登ろうと思ったな」
「ぎゃあぁぁ! ラックバレー! ラックバレー、今、梯子、揺らした!?」
「揺らしてねえ、掴んで支えてやってんだろうが――あのな、こういう立てかける用の梯子ってのはな、上から三段はのぼるもんじゃねえの、なんでのぼろうとしてんだ、頂上目指してどうするつもりなんだ、足でもかけて曲芸でもしてえのか」
「いやいやいや、やらない、そんなバカみたいなこと絶対しない……!」
「今まさにそんなバカと同じく三段目に足をかけようとした奴の言うことじゃねえな、なんなのお前、ド田舎育ちのはずなのに、梯子も満足にのぼれねえってホントどうなってんのお前さあ」
「うちのド田舎方面で、スルスル登れちゃう手練れな子供がいたら、それこそ、そこの教育課程がどうなってんのって話になるからね!?」
あれか、江戸時代の火消し的な梯子技能を体育の授業に取り入れている、とかそういうことなのか。体育祭で梯子の上で足ひっかけながら逆さ吊りで手を広げて「ハッ!」とかやっちゃうわけか――すげえ、なにその学校。かっこいい。
ラックバレーの発言は、正解だ。
佐倉にとって、大人の男の人より高い位置まで梯子で上がるという行為は、ほぼ初めてのことだった。しかも相手は年季の入った木製の梯子だ。安全面が考え抜かれた手摺りつきの高所作業台でも、自立するようにストッパーのついたAラインのアルミ製脚立でもない。ただただ単純なIライン、1本の梯子だ。単純すぎる形状で不安感しか与えない木製梯子が、石で作られたアーチ型の出入り口上部に向かって立てかけられている。
――こんな、大人の男性を軽く越えるほどの高い位置で、いったい何をしているのか。
それには、本日の新兵部隊のお仕事が大きく関わっていた。
本日の新兵部隊のお仕事は、有志による夕街部隊のお手伝い。その内容は、『例年のごとく嵐姫が来る前に、夕街中の建物の入り口に、手の平サイズの人形を吊り下げよう!』という、説明されたのに、意味がひとつも伝わってこない任務であった。
日が昇る前、昼街のグレースフロンティア本部を出発した佐倉を含む新兵部隊員達は、夕街行きの超快速の暴走イグランで今日の激運を使い果たした後、洗濯物が通りの上空を横断する住宅街――夕街へと辿りついた。多くの隊員にとって、幼少をここで過ごし、今も暮らしている街。昼街のグレースフロンティア単身者用のアパートで寝起きする佐倉にとっては、ガクジュツトケンキュウノギルド、バルフレア・ハインにお邪魔した時ぶりの街だ。
昼街と夕街の違いは、建物の高さだと思う。昼街の建造物はたいてい高くても二階建てくらいまでの高さしかない。権力を見せ付けるように高さを出して威圧してくるような粗暴な建物は、まあ、ほぼほぼ存在しない。昼街は個々の敷地にゆとりがあって、大通りの広さは露店が両端に並んでもまだ余る。それに比べて、夕街は、建造物が縦長だ。窓の数は縦に4つ、5つほど連なり、荷車一台分程度の道幅の石畳の上を高さや方向をかえて洗濯物の長い紐が横断している。
昼街の街並みを見慣れた佐倉からすると、夕街の建物の縦長感が際立って見える。イグランの超快速の中でも死人が出るレベルだという暴走イグに遭遇した今回、佐倉は、もはや奇跡としか思えない目的地への到着で、それぞれの街並みについての考察に夢中になった。今この身に起きた死と隣り合わせのイグラン体験を忘れるために、だ。
街の人々の居住区域、夕街の赤煉瓦色の巨大円柱のイグラン駅舎前で、夕街在住の新兵部隊員達や夕街部隊の方々と合流した後、班分けによって佐倉は『梯子の4』に任命された。
『梯子の4』が何をするのかと言えば、梯子運搬のお手伝いと交通整理の係らしい。その他、『梯子の1』と『梯子の2』と『梯子の3』、そして『銃屋』と『酒樽』で構成された6人班での行動が指示されたわけだが、正直、『銃屋』と『酒樽』が何をする仕事なのか、その名称からではさっぱり分からなかった。もちろん、任務開始からすでに数時間経過している今なら、佐倉も『銃屋』と『酒樽』も一応何かしらのことをしていることは分かっている。うん、特に『酒樽』の隊員は、樽を開けて、群がる夕街の老若男女に振舞ってばかりだけど、一応、何かしらのことはしている。……その何かしらのことを職務と認めていいのか、佐倉には判断できなかったが。
夕街の建物はほぼほぼ4、5階建ての集合住宅だ。建物の入り口、目指す人形を吊るすフックは、たいてい大男が手をのばしても届かないくらいの高さにあって、出入り口の扉は両開きの木製だった。そうなると同班に『梯子』係が4人いることが活きてくる。『梯子の1』が指揮し、『梯子の2』が高すぎるフックを目指して軽快にのぼり、『梯子の3』が梯子を抑え、『梯子の4』が下で人の出入りがないように通行を止める。そして、見たことないくらい長い年季の入った木製梯子を班員全員で協力しあって運搬し、次の建物へと移動するのだ。
本来交通整理をしているはずの『梯子の4』隊員――佐倉は、梯子の両脇をしっかり掴んだまま、自分が所持する手の平サイズの人形に目を向けた。『例年のごとく嵐姫が来る前に、夕街中の建物の入り口に、手の平サイズの人形を吊り下げよう!』という仕事内容に関わる手の平サイズの人形が、今、佐倉の手首に吊り下げられて揺れていた。
佐倉は、このさっぱり意味の分からないお仕事は、日本の伝統、年始に玄関口に飾ってある正月飾りみたいなものか、と独自解釈していた。ほら、建物の入り口に吊り下げるって言ってたし。正月飾りじゃないなら、クリスマスのリースみたいなものかも、と作業内容を自分なりにかみ砕きつつ納得していたのだ。――この人形を、手に取るまでは。
今、自分の手首で揺れるこの人形。
『銃屋』によって運搬されるこの人形がまた、なんかすっごく……
「殺伐としすぎてない……?」
手首で揺れる人形は、紐が『首』にくくりつけられている。つまり佐倉の手首で揺れている今、首吊り人形と化しているわけだが、このまま建物の出入り口でも同様な状態で揺れることになるのだろう。ざんばらな毛糸の髪は背中まで、そして、色も大きさも統一されていない釦の目、鼻はなくて口は『XXX』と縫われている。綿をこれでもかとつめられている四肢は、別布のワンピースをまとっていて、全体的に汚れていて、ちょっとほつれ気味だ。少し糸が弛んでいる釦目のせいで、なんか首を吊って眼球が飛び出した、みたいな感まである。
漂う、呪いのアイテム臭が、ハンパない。
うん、まあ、あれだ。日本のてるてる坊主だって首から吊るすわけだし、ある意味あれが何個も窓辺で仲良く吊るされている図だって、怖いといえば怖い。でもてるてる坊主が晴れを願うためのもの、と知っている佐倉にとっては怖いものでもない。きっと、この呪いのアイテムにしか見えない人形だって、この街の人から見たら、全然怖くないのだろう。
別世界風てるてる坊主だと思えば、少しくらい目が飛び出してるのが愛嬌のような気も――
「そりゃあ、殺伐だろ。この人形は魔女の死体を表してんだ。こうして魔女を軒先で吊り殺して、建物内の不浄なものは始末したって嵐姫に伝えてるってわけだ」
「思ってた以上に怖い話だった!?」
え、むしろ、このちょっと飛び出しぎみの釦目は、首吊りのリアルさを演出する職人の技術の結晶みたいなものなのか。なにそれホント激怖すぎる。
「そこまで行ったなら、手ぇ伸ばせば届くだろ。早く、そのフックで人形を吊り殺せ」
下からの指示は残酷だった。
でも人形を吊り殺す残酷さより、佐倉は別のことに意識が向いた。え、まって、ここで手を伸ばす? ここで手を伸ばすってことは、こんな高いところで片手を離すってこと?
「いやいやいやムリ、ちょっとまって足が震えてきた」
「じゃあなんで、そこ、のぼってんだよお前は」
そこを問い詰められると、佐倉としても困ってしまう。
佐倉の仕事は、『梯子の4』。そう、梯子の運搬と交通整理だったはずなのだ。それがどうしてこんな高いところで引くも進むも出来ないような状態に陥っているかといえば――
答えが、姿を現したのは、その時だった。
佐倉とラックバレーの眼前、締め切られた出入り口の木製扉が、コンコン、とノックされた。ゆっくりと扉が開けられて、隙間から、焦茶色の巻き毛の女の子が顔を出した。
わくわくとした純粋な瞳。
佐倉にとっては、先ほどぶりの女の子だった。向こうも、佐倉を見上げ、そして、佐倉の腕で揺れる首吊り人形を発見し、満面の笑顔を浮かべた。女の子は一瞬、顔を戸口から引っ込めた。「ロイ! 見て!」甲高い呼び声。戸口へと戻ってきた顔は、今度は二つ。焦茶色の巻き毛の女の子と、さらにあどけない金茶色の巻き毛の男の子が、佐倉の姿を追って、目を輝かせた。
「ロイ、ほら、うちの人形だよ!」
男の子のほうは、意味が分かっているのかいないのか、興奮するお姉ちゃんの様子が嬉しかったのか、きゃっきゃっと笑った。たぶん、年齢的に、意味を理解してないと思う。
だが、梯子を支える男は、年齢的に、状況を理解した。
「あー、なるほど……」
きらきらとした視線を浴びる後輩の様子に、そう呟く。
「ロイ、良かったねえ。グレースフロンティアの隊員さんが、あたしたちの人形を取り付けてくれるって!」
女の子の表情は、小さい子供がおまわりさんや消防士さんに向けるものと全く同じものだった。街の治安を守ってくれるおまわりさん的団体は、子供の憧れの職業らしい。なるほど、世界共通か。内部にいる佐倉は、治安を守るより治安を悪化させることが得意な頭のおかしい団体ということを薄々気づき始めているわけだが、うん、小さい子供の夢は決して壊してはいけないのだ。
純真という名の槍で真下から突き上げられ、佐倉は、先ほどまでの泣き言を咽喉の奥へと引っ込めた。女の子に握らされた人形を手に、梯子に足をかけざるを得なくなった時と同じだ。大人の男の人より遥かに高い梯子の上、見据える先に小さなフック。人形を吊るすための小さなフックだ。やるしかない。
グレースフロンティアの隊員さんが、やらねばならない時が、今、この時だ。