白天祭 ― 幸福な時間 3 ―
夕立は、大通りに漂い続けていた熱気を洗い流した。
太陽が石畳にできた水溜りに、鮮明な夕焼け色を灼きつけた頃、王城の方角で大砲が鳴り響いた。
祭の終わりを告げる祝砲。
これにて、白天祭は終幕となる。
グレースフロンティア本部一階、案内カウンターの主は、祝砲に耳を傾けながら紫煙を燻らせていた。祭終了の大砲が鳴らされたからといって、この規模の祭がすぐさま収束するわけもない。この土地が自分の物だと声高に主張する高貴なる身分の方々が、我々のような下々の者共と戯れる式典が、今この祝砲を持って終わった、というだけの話だ。この後の時間は、城の方々は城の方々で、下々の者共は下々の者共で、祝祭の一夜を楽しむのだ。
とはいえ、この後の時間は、今までに比べれば格段に扱いが楽だ。
何か問題が起こったとしても、常日ごろの我々のやり方で解決すればいい。我々らしく、酔い潰れていない者は酔い潰し、酔い潰れている者は医務棟で歓待し、酔って悪さをする輩に悪さをする。通常運転、平和ないつもの夜だ。
煙草の煤を灰皿に落としながら、バラッドは机上の通信機に目を向けた。
「平常運転じゃねえのは、ベイデンだけってわけだ」
常日頃、本部にいる新兵部隊の部隊長は、今はここにいない。
ベイデン・ムドウは、グレースフロンティア本部にほぼ毎日いる男だ。バラッドに次いで二番目に、この建物内をうろついている。火鉢通りの自宅よりここに常駐しているし、昼街からは滅多に出ない。一ヶ月に1度だけ、夕街のバルフレア・ハインに行く。あの男の生活にあるものは、今はそれだけだ。
今回は踏み倒すはずだった夕街行きが、突然、今日という日にぶちこまれた。いつも数日かけて粛々と覚悟を決めてからその日を迎えるのに、突然降ってわいた今日という日に、あの男はどうやって対処しているのだろう。
竜の感情に引きずられて復帰が遅れるのはまずい。
バラッドは祭の後に控える予定を考えながら、そう結論づけた。新兵部隊の部隊長の復帰が遅れると、かなりまずいことになる。
見つめる通信機は、何の音も発しない。
連絡できない状況なのか、それとも、連絡する気がないのか。
机上の通信機は一見するだけなら、本部各地に置かれた小さな通信機と似て見える。しかし、案内カウンターにある物は特別製だ。その配線は机の下へと伸び、所狭しと配置された滑らかな黒の箱の数々に繋がっている。
グレースフロンティアで外部と唯一連絡が取れるのが、案内カウンターにあるこの特別製の通信機だ。本部や火鉢通りの住宅に設置された小型の通信機は、グレースフロンティア本部の案内カウンターとしか繋がらない。
不便か不便じゃないかで言えば、圧倒的不便な仕様。実際ならば本部に散らばる通信機で外部と連絡できる仕様に変更することも可能だった。だが、バラッドはするつもりがない。なぜか。愉しいことを見逃したくないからだ。よって、周囲が壮絶に不便だろうが自分の元に情報を集約することを優先している。
そんな便利なことができるとは誰にも告げてないから、不便であることにも誰も気づいてはいない。
そもそも通信機なんて、普通の生活をしていればそう触れるものでもない。グレースフロンティアでは当たり前のように設置され、当たり前のように破壊され、当たり前のように高額請求され、当たり前のように修繕されているが、この通信機器は世間一般には全く普及していない。あるとして王城関係、昼街のグレースフロンティア、夕街のバルフレア・ハイン、そして、運搬系の大手ギルド、夜街の一部、朝街の教会ギルドくらいだろう。しかもそれぞれが独自開発している道具だから、同一の仕組みというわけではない。互いに結んだ技術協定のおかげでどうにか相手の手の内をほんの少し覗き見て、その構造を理解ができたのはバルフレア・ハインと朝街の教会ギルドのみ。その為この二つのギルドとは互いの通信機で連絡ができるようになっていた。これもまた不便か不便じゃないかで言えば、圧倒的不便な仕様。おそらく、どのギルドも、もっと容易にお互いのギルド同士で連絡を取れるようにできるはずだ。だが、バラッドも他ギルドもするつもりがない。なぜか。利が少ないからだ。他ギルドと必要以上に協力する意味がない。手は取り合うな。足を引っ張れ。よって多少不便だろうが、バラッドも他ギルドも「同一の通信機にしましょう」なんて夢物語な内容は口にしないのだった。
机下の箱のひとつで、小さなランプがチカリ、チカリと明滅している。
おそらく、この通信機の異様さは飛び抜けている。隠すつもりが一切ないから足元に置いてあるが、見る者が見れば、嫌悪の表情で異端と罵ることだろう。
連絡を待っている新兵部隊の部隊長も、こういう機器を壊して回らないと気がすまない男だ。この手の物にド素人と分かっているから、バラッドはいつもこう伝えている。
『壊すな。指定したパスワードを入力しろ。そして壊すな』
詳しく説明しても理解する気がない相手にはそれだけでいい。とにかく壊すな。大人しくパスワードを打ち込め。そうするだけでそのパスワードを知らない者が入ってこれない安全に会話ができる環境が整う。頼むから壊すな。
「……もしかして、すでに壊してるんじゃねえだろうな」
あまりにも連絡が遅いことに、一抹の不安を覚えた。当人の意識がなくて連絡できない状況でも、当人が連絡する気がないというわけでもなく、通信機を見て嫌悪感でぶっ壊した可能性に思い至り、頭が痛くなってきた。思い至れば、むしろ何故そのことに思いつかなかったのかと自分でも首を傾げるばかりだ。連絡が来ると踏んで、こちらはパスワードを入力して待機している状態で放置していたのだが、そう考えれば待っていても意味はないのではないか。
パスワードでの通信は諦めて、バルフレア・ハインに直接連絡を取るか――決断するその前に、明滅を繰り返していたランプが点灯した。
バラッドは片眉を上げ、にやりと笑って通信機の受話器に手を伸ばした。
「遅ぇ」
笑いながら煙草に口をつけた。
「――、」
応答。太いがなり声ではないその第一声。ざらつくような、それでいて神経に刺さる音が脳を揺さぶった。なんとか吐きだした息と煙。驚かされたことに笑い声が出て、ひとしきり笑った後、短くなった煙草を灰皿に押し付けて、すり潰す。
「よお、人魚の首飾り」
「久方ぶりじゃの、グレースフロンティアの」
幼い声。この声は、新兵部隊の部隊長の面倒にして最悪の持ち物、人魚の首飾りだ。
グレースフロンティアの新兵部隊の部隊長のための暗号で、グレースフロンティアの新兵部隊の部隊長ではない輩と挨拶を交わしている。
「妙だな、この回線、誰にも聞かれてはいけない話を、安全にする為のもの、なんだけどな?」
「なんと、それは妙じゃの。ベイデンがこれでそなたと連絡を取れと妾に言いおいたのじゃ」
「成程なぁ。俺、指定したパスワードを入れろ、とは再三教えてきたが、誰にも言うなとは言ってなかったもんなあ」
機械関係とベイデン・ムドウを掛け合わせると、望んだ良い結果は得られない。昔からそうだった。今回もまたそれが証明された。
「いつもなら日程調整も、アンタの従者と話をしてるから、ご本人様のご登場となると調子が狂うな」
「猫の舌かえ? ベイデンにお願いされたのは妾であって猫の舌ではない。妾がお願いされたのだから、そなたと連絡を取る必要があるのは妾であろ?」
「たいした忠義だなあ」
「何を言うか。これは忠義なんぞではない」
「へえ」
「愛じゃ」
「へーぇ」
鼻で嗤う。幸い通信先には聞こえなかったようだ。
「あ、そなた、祭の前に倒れたと聞いたが?」
「そう、一応味方だと思っていた奴に毒を盛られた感じでな、何だ、心配してくれんのか?」
「この愛を疑う愚か者の心配なんぞしておらんわ。むしろ妾の逢瀬が遠のきかけたことを非難しておる」
聞こえてた。
「で、逢瀬のお相手、どうなってるよ?」
「昏倒しておる」
さらりと言われて、すげえな、と思った。真の愛による逢瀬によって、お相手が昏倒しているって、真の愛というものは命の危険を伴いすぎているようだ。ただ、バラッドとしても慌てることではなかった。一ヶ月に一度、同じことになってるからだ。
「ベイデンが起きたら、伝えてくれ。今回は休みは与えねえ。昇格試験の前に王城試験があるからな。今年はお前の部隊も受ける奴がいるんだから、目を覚ましたら仕事をしろ、立てないなら這って来い、死んでも働け、働いてから死ね」
「伝えよう」
幼い声はそう約束した。
真の愛がどうのと抜かす輩が、相手の過酷な労働に対して一切抗議をしないというのは、本当にそれ、真の愛としてどうなんだろうか。
まあ、人魚の首飾りは竜だ。感覚が違うのだろう。竜自身が昏倒させた奴に、愛とか抜かしてるし。
新兵部隊の部隊長と連絡が取れないならば、これ以上話をしても意味はない。話を終えようと口を開きかけたこちらに、人魚の首飾りがこれまでにないくらいに弾んだ声音で続けた。
「そうじゃ、白天祭の復路のパレード、素晴らしいものであったようじゃの。ナイル・ハーヴェスト・グリムのパレード! 見ることは叶わなんだが、猫の舌に目撃者の話を集めてもらってな。ふふ、妾も楽しませてもらった」
「それな」
相手のご機嫌な様子に、バラッドも応じた。そこらへんの話は、バラッドにも言いたいこと、探りたいことがある。話を拡げるつもりで、灰皿を眺めた。とりあえず煙草吸うか。
「そもそも先頭をナイルがやるなんて話じゃあ、なかったはずなんだがな?」
「ほう、しかしあの時――火鉢通りで会うた時は、パレードジャックをすると言っておった」
「パレードジャック!」
呆気に取られた。竜は朗らかに、物騒な言葉をぶち込んできた。このお喋りが誰にも傍受されない安全な通信機での会話で良かったと心底思った。
「自分んとこのギルドのパレードをジャックするって、あいつ、鬼畜過ぎるだろ!」
爆笑。
パレードジャック、血だらけの昼街部隊長、成程、成程ねえ?
「俺、あのパレードは俺への言い訳かと思ってた。というか、今もわりとそう思ってる」
「言い訳?」
「それがよ、」
煙草を咥えて火をつけた所で、机の下で機械音が鳴る。今、点灯しているランプの隣が点滅している。煙草片手に受話機器を肩と首で挟み、空いた手で机下の機器の呼出し音のスイッチを切った。
ランプの明滅は続いている。バラッドは無視した。
「そのパレードジャックをした男は、俺に向かって、アンタとベイデン、その両方を二時間以内に連れてくるって宣言してから、探しに行ったはずなんだ」
常に無表情の猫の舌が、常のような無表情で「あの方が命を落としたら、私もあとを追います」と「あの方がこの街を糧として望んでおられるならば、私がこの街に生きる全ての者を贄として差し出す準備を始めます」という言葉を、ひと会話ごとに挟むという脅迫なのか救助要請なのかよく分からない器用な直談判をしてきたため、発覚した騒動を思い出す。
「迷子のアンタも、飛び出していったベイデンも見つかったんだろうけど、あいつ、結局、アンタもベイデンも連れてきてねえんだよな」
バラッドが何も知らされていなかった復路のパレードを見た時、これは村や町で強奪を繰り返す荒くれ者ども――ヒューヴァの襲撃か、それともこれから隣国へ戦争でもしに行くところなのかと考えていた。つまり殺気立っていて、祝祭の雰囲気は一切なく、全くもってうちらしい文句の無いパレードだった。
文句無しのパレードで先頭を悠然と歩く男を眺めて思った。
パレードには文句はねえが、先頭の男には文句がある。
てめえ、宣言したことが不履行になってるぞ、と。
「パレードジャックした男は、確実に途中で気がついたはずだ。これは両方とも連れてこれねえってな」
「たしかに、あの時のベイデンはパレードに参加する気は一切なかったようだったのう」
パレードジャックを宣言するところに居合わせた竜から証言が出てきた。
「ほらな。ベイデンが復路のパレードに出れなくても、まあ、自分が出れば周りから不満は出ねえだろって発想だろ? その通りだよクソがって気分だよな」
自分自身でハードルを上げに上げておいて、上げきったハードルに全然かすりもしなかったのに、パレードだけはきちんと成功させるという――本当にあの男らしいパレードだ。過程が滅茶苦茶、結果が予想の上を行く。
「そもそもアレと一緒にいた子供がいただろ。新兵部隊員の子供が。その新兵部隊員は、ナイルが二人とも連れてくるって宣言した時、確かにその場にいたはずなんだがな?」
「ああ……! ササヅカじゃな?」
えらく歓迎するような上機嫌な声だ。珍しい。この竜が興味を示すのは、ベイデンのことばかり。こんなふうに初めて会った輩の名前を挙げて、素直な反応を見せることが稀だ。
興味を引かれて、バラッドの口角も上がる。
そういえば復路のパレード前に本部に戻ってきた新兵部隊員の子供は、人魚の首飾りと話をした、と言っていたか。その時、ササヅカはその言動で、バラッドの興味と嗜虐心をおおいに刺激した。引っ捕まえて閉じ込めて問い質してやろうかと思った矢先に逃げられてしまった。パレードが終わった後、もう一度ここに戻ってきた時も、こちらの詮索より先になんとも言えないお願いをぶちかましてくれて、詳しく聞き出せないまま今に至っている。
さて、困った。バラッドは悩んだ。人魚の首飾りがここまで好意的な態度を示すことは珍しいし、もう少し詳しく聞きたい所だ。
しかし、と、バラッドは目線を少し落とした。
ランプの明滅は、まだ続いていた。
誰かがこちらと話したいと通信している。無視して人魚の首飾りとお喋りをしていても、止むことなくしつこく連絡を入れてきている。誰が、何を考えて、連絡を入れてきているのか。こちらも興味がそそられる。さてどうするか。一瞬の思案。即座の対応。
「失礼。客だ。待っててくれ」
人魚の首飾りの通信を保留に切り替えた。
机下、隣合ったランプの点灯の仕方が切り替わる。
「こちらグレースフロンティア昼街本部」
「――ああ、GFの案内カウンターは復帰したのだな」
一瞬の間の後、低めだがよく通る声がした。パスワードでの通信ではなく誰でも使える通信回線で連絡を入れた相手はまず始めにそう言った。相手が名乗らない以上、誰であるかはこちらが考えなければならないが、幸いにも答えはすぐに見つかった。
「教授」
非常に珍しい相手からの連絡だった。マカラム・クレスタ教授。通称、教授。バルフレア・ハインに迎え入れられ、名実ともに『教授』の地位を得た大狼だ。バラッドは教授の地位を得る前からこの黒い獣のことを知っているが、最初に会った時から彼は『教授』と呼ばれていた。なぜ、と訊ねれば、『教授という部分も含めて名前』というふざけた返答をされたことがある。いまだにバラッドは、彼がなぜ「教授」と呼ばれているのか、本当の答えを知らずにいる。
「すまない、あまりにも繋がらないから専門者がまだ復帰できてないのかと思っていた。単純に立て込んでいたようだな」
「つまり教授は、俺じゃないと思って、通信機を鳴りっぱなしにしてやろうと思っていたのか?」
にやにや笑いで問い詰めてやる。竜とお喋りをしているこちらが気になってくるほど長い間、かけ続けてくれていたのだから相当だ。
「数日前、手酷い対応で追い払われてしまってな。つい子供のような悪さをしてしまった」
「手酷い対応」
バラッドから倒れてこの席を譲っていた日数を考えると、相当まずいことになっている気がする。マカラム・クレスタ教授は寛大な狼だからこの程度で済ませてくれるが、このギルドに関わる輩はたいてい寛大じゃない。
謝罪を口にしようとして止めた。
「よくよく考えれば、俺が倒れたのは教授のせいだったよな」
「私の?」
少し、驚いたような声。思い当たる節がないような言い方。『教授がバルフレア・ハインを丸裸にして奪い取ってきたデータ保存チップで、脳がぶっ壊されたんだ』と、包み隠さず言うわけにはいかなかった。マカラム・クレスタ教授がかけてきた通信回線は、誰でも傍受可能な機密性に優れてない回線だったからだ。
「最後に教授と話したのは、倒れた当日だった。ほら、うちのグリム部隊長がそちらに顔を出していた時だ」
「……ああ、そうだったな。そうだ、白天祭の準備で忙しいのに、私がバルフレア・ハインの警備の相談をしてしまったせいだったな」
あの日、バルフレア・ハインで教授と話した最後の会話を思い出す。
――『兄弟と共に来た新兵部隊員に、チップを渡した』
教授の部屋に繋がった通信機で、バルフレア・ハインの研究員が魔女の幻を追って慌しく部屋を出て行った後、黒い狼はそう言った。つまり教授はバルフレア・ハインの警備の相談どころか崩壊の手伝いをしてくれていたわけだ。教授の言う通り、新兵部隊員はそのチップをちゃんと握り締めて帰ってきた。当人は寝りこけていて意識は無かったが。
「それで、今日は何用だ?」
「魔女の件でグリム部隊長と話したいことがあってな」
「あーっと悪ぃ、まだ戻ってきてない」
「戻ってきていない?」
裏門番にも、裏門を使うことがあればこっちに一報入れろと言ってある。まだ何の連絡も入ってないから、パレードが終わった今、その消息がどこにあるのか情報は入ってきていない。
なんで戻ってきてないかといえば、復路のパレードを率いていたからだが、その話をするとなるとウチのギルドが自分達のパレードをパレードジャックをした話や竜が迷子だった話をしなくてはいけなくなる。それをこの誰でも聞ける通信回線に乗せるのはどうか。バラッドは逃げの一手を打った。
「今日はバルフレア・ハインの夕街の君のところにうちの新兵部隊長が行っているから、詳しい話はそこから聞いてくれ」
「夕街の君。ああ、人魚の首飾りか」
そこでバラッドは、バルフレア・ハインで中枢に囲い込まれている二人――どちらもヒトと分類できないから『二人』と言うのは語弊があるかもしれないが――と、同時に連絡を取り合っていることに気がついた。
片方は、新兵部隊の部隊長ベイデン・ムドウの持ち物の竜で、もう片方は内部統括部隊の部隊長ナイル・ハーヴェスト・グリムの『兄弟』の狼だ。
バラッドは首を傾げた。
おっと、これは、面白い状況が出来上がっているのではないか?
この二人が揃うと、愉快な情報が聞けるかもしれない。
例えば……、バラッドは考えを巡らせた。例えば、なぜかこの二人のどちらとも接点を持っている『新兵部隊員の子供』の話、とか?
情報に飢えた男は自分でも気づかない内に面白い環境にいたことに気がついて、通信終了しかけている黒狼を慌てて引きとめた。
「教授! 悪い、そのままで!」
回線を切り替える。
「人魚の首飾り?」
「うむ。用事は終わったかえ?」
「いやそっちを保留中。待たせて悪ぃな」
「ヒトの一生でもあるまいし、待ったうちにも入らぬよ」
「何の話をしてたか……ああ、そう、うちの新兵部隊員の話をしてたよな?」
「ササヅカじゃな?」
相変わらずわくわくしたようにその名を呼ぶ。
「えらくお気に入りじゃないか」
「ふふ、また会いたいものじゃ。そうだ、来月はベイデンと一緒に妾のもとに遊びに来させるのはどうか?」
ご機嫌すぎる竜のとんでもない発言にバラッドは口角を上げた。
「さすがにベイデンが許さねえと思う」
「大事に育てておるようじゃったしのう。まるで雛と親のようで微笑ましい」
人魚の首飾りの言い分が正しいかはバラッドにはわからない。大事に育てられているかは甚だ疑問だが、命の危険からは遠ざけてはいるようではある。
ベイデン・ムドウが大事に育てているから、人魚の首飾りがササヅカを気に入っている?
いや、そんなはずはない。むしろ新兵部隊長のことになると狭量なこの竜のことだ。気に入るどころか嫉妬で相手を食い散らかしてもおかしくないだろうに。
ふ、と思う。パレード前、戻ってきたササヅカはなんと言っていたか。泣きはらした顔を今さらながらに誤魔化しながら、『ちょっと竜さんと話してみたら、その、自分の故郷のことを知っていて、それで思わず』と言っていた。
『自分の故郷のことを知っている』ってのは、人魚の首飾りの過去視の話ではないのか?
過去視をしているということは、少なからず――
「ササヅカの味見をしたな?」
思わず口にした言葉と声音は、自分が考えていたより、鋭く尖っていた。
鈴のような笑い声がする。
「ここにも、真似事をする輩がおったか」
「真似事ねえ」
雛と親と言いたいのか。
バラッドは相手に明確に聞こえるように鼻で嗤った。
「そこまでアンタが気に入るってことは、うちの新兵部隊員は、いい味してたみたいだなあ。食べ尽くして傀儡にするつもりだったか」
鈴の笑いとあどけない声が続く。
「味は見た。だが、それ以上はできぬ」
「どうだかなぁ。アンタ、だいぶ悪食だしなあ」
「悪食とは酷い言い様じゃが、妾でもアレを食べたら死ぬと分かっておる」
「は、」
「あの新兵部隊員を食べたら、死ぬ」
竜に一言、断りの言葉を述べて、回線を狼に切り替える。
「教授、以前、うちの新兵部隊員を一名、紹介したと思うんだが、アイツ、死ぬほどマズイの?」
「……は?」
「ああ、教授はヒトは食わねえんだっけ」
「何の話だ。食わん。菜食主義だ」
菜食主義。新事実。狼が、菜食主義。
不快感が入り混じるように断言されて、ヒトの形をしている輩よりヒトの形をしていない輩のほうが理性があると知った。
「紹介した新兵部隊員というのは、ああ、あの子供のことだな」
「そう。うちの自慢できない新兵部隊員の感想を聞いてまわっているところだ。教授はどう思った」
「どう、と言われても」
「第一印象、強く印象に残ったことは?」
「そうだな、匂いが、」
「……におい、」
「思わず言語を失う程の芳しい香りがしていた」
バラッドは笑いながら、回線を切り替えた。
「アイツ、理性吹っ飛ばす程、いい匂いがしてんの?」
「待て、そなた、妾のほかにいったい誰と話をしているのだ」
他人が聞くことができない通信回線のほうから、当然の質問が投げられた。
途中から不要になってしまい、ほとんど吸わずに終えた煙草を灰皿で潰す。
「表の回線で黒狼と繋がってる。何か言いたいことは?」
沈黙。
ずいぶんと長い間の後、「では、」と幼い声が告げた。
「隠したな、と」
バラッドが姿勢を正す。
やはり、何かある。竜の側と狼の側で、今までにはなかった、何かが起こっている。
「隠した?」
「ぬいぐるみの首元のリボンが大きすぎて、大切なぬいぐるみが見えなくなっていた」
「ぬいぐるみ、ね」
「だが、そうやって隠していたら、いつか後悔することになるのでは、と」
「了解」
切り替える。
「ぬいぐるみに心当たりは?」
「ぬいぐるみ」
低い朗々とした声には不釣合いな単語が繰り返された。
「首に巻いたリボンが大きすぎて、ぬいぐるみが見えなかったと」
「ほう、首の、」
「隠したことを、いつか後悔するのでは、と」
「後悔か」
黒狼の声音には感情が乗っていない。
口が堅くなっている。
期せずして得た機会だったが、別段、焦っているわけでもないし、竜と狼に何かあったかもしれないと分かっただけでも収穫があったのだから良しとするか。
伝書鳩としての役目も果たした。会話を切り上げようとしたバラッドの耳に、ぽつりと言葉が落とされた。
「気づかれないように隠した者の頭の中に、後悔、という言葉が存在しない可能性もある」