白天祭 ―迷いし者の行方 7―
佐倉は、木柵によじ登る竜の背に飛びついた。
木柵の向こうに逃げられては適わない。自分の全体重を竜に乗せ、進行を止めようとした。これでも進行が止まらないのならば、その時は――その華奢な腕についた白鱗に噛み付いてでも止めてやる。意気込んだ佐倉は、次の瞬間、悲鳴を上げることとなった。
木柵を掴んでいたはずの竜の手が、至極あっさりと解けたのだ。飛びついた当人としては、こんなに簡単に竜を木柵から引き剥がせると思っていなかった。ここ一ヶ月、人に飛びついたとしても、相手は踏ん張ってくれるもんだと思い込んでいたのだ。屈強な先輩隊員達は、いい加減休憩をくれと訓練中に飛びついたとしても「なんだ重りになってくれんのか。いやー、鎧だけじゃあ軽すぎて訓練にもならねえって思ってたところなんだ」なんて、のたまうような猛者ばかりだったから……まさか、竜が――人を食べるんだそうな問題のある竜が、こんなに非力だなんて、考えてもいなかったのである。
やばい、竜を抱えているのに、今倒れたら下敷きになる――ばたついた佐倉の足が、いち早く地面へと戻った。良かった! 足ついた! これで踏ん張れる! 思った矢先、抱えていた竜の重さが、佐倉をよろめかせた。抱えたまま千鳥足で後退し……「あっ」と声をあげた時には足がもつれていた。嫌だ。倒れたくない! 妙に踏ん張ろうとしたのがいけなかったのだろう。まるでブリッジでもするかのように身体が反ってしまい――このままだと後頭部を強打する、と脳内で警鐘が鳴り響く。反射的に抱えているものを放り投げていた。間一髪、自分の後頭部を両手で守った。うおお、マジでブリッジ状態、腰が、腰が折れる……! 橋が崩れ落ちるように、反り返った腰を地面に降ろして――緑色の布が佐倉を覆った。竜が被っていたあのオバケシーツだ。厚い生地が顔にかかり、息苦しさにもがき、身体を反転し、あ、そうだ、
「竜は!?」
と佐倉が叫ぶのと、
「この痴れ者……!」
という声が同時だった。少女の声だ。しかも可愛い。間違いなく可愛い声。それなのに、昼街の女王様よりはるかに鋭利な怒気を含んでいた。思わず、腹這いから四つん這いの逃げの体勢になった佐倉の前で、重厚な緑色の布地がばさりと揺れた。視界が開ける。そこには美しい少女が、両手で布を押し上げ、膝立ちでこちらを睨んでいた。
異国の美少女だ。その容姿が纏う色彩に、佐倉は目を奪われる。白い肌は、やはり鱗で覆われ、そのひとつひとつが貝の内側のように鈍い虹色の輝きを放ち、かの少女の所作に艶かしさを与えていた。その白く華奢な鱗の上に、鮮やかな――海の色。
佐倉が目を奪われたのは、その海の色にも似た髪のグラデーションだった。南国の海の写真を見ているのかと錯覚する見事な色がそこにある。センター分けの髪は頭頂部は紫を含んだ深い深い青色だ。その色が空と海を区切る水平線を連想させた。清らかな水のように滑らかで癖のない髪は、鎖骨をすぎたあたりか緩やかで豊かな巻き毛へ、そして髪色は下へ下へと目で追うごとに、色が抜け、エメラルドグリーンへと変わっていく。
海を追想させる美しい少女は、滑らかな白絹のワンピースに身を包んでいた。それがより一層、彼女の色彩を髪にだけに集中させていた。
異国の美少女――いや、これは、異界の美少女だ。こんな完璧な海の色を持った人を佐倉は見たことがなかった。四つん這いで呆ける佐倉を、その海の色を持った美しい少女が睥睨している。彼女は膝立ちで、緑色の布地を押し上げ、そして薄桃色の唇を硬く引き結んでいた。頬も鱗で出来ているらしい。そのせいか頬に色味はない。もしほんの少しでもこの少女が頬を染めるようなことがあれば、たちまちに男の人は虜になってしまうに違いない。
彷徨う佐倉の目が、海の色を持った少女の目と重なった。
瞬間、佐倉は四つん這いで悟った。
怒っている。
少女の髪の根元の色より紫の色彩の強いその瞳は、怒りに染まっていた。
「そなた、何をしたのか分かっておろうな」
引き結ばれていた薄桃色の唇が、静かに言葉を紡ぐ。こちらを見下ろす少女の瞳を荒れ狂う嵐のようなのに、その声音はどこまでも可憐で、その喋り方はあまりにも特殊だった。
そなた、って。
分かっておろうな、って。
そういえばさっきも「シレモノ」って言われたような。
脳内を巡ったの時代劇か何かで城を抜け出すお姫様のお姿だった。
佐倉は呆然と呟いた。
「あらゆる夢のつまった美少女がここに……」
腑抜けた感想は、見事に竜の逆鱗に触れた。
「この――痴れ者めが!」
二度目の痴れ者称号を戴いてしまった佐倉は、少女の紫紺の瞳の中でも一際濃い色をしている瞳孔が縦に急激にすぼまるのを目撃した。まるで猫の瞳のよう――そう思った時には、佐倉は眼前の少女の瞳から目を離せなくなっていた。
「投げた! そなた、妾を投げた……!」
わらわ、ってまた大層な言葉だな、と激昂する少女を前にぼんやりと思う。しかし、投げた、とは一体何のことか。美少女の非難に思い当たる節がない。自分の行動を省みて、はた、と気付いた。そういえば先ほど、竜の美少女を木柵から引き離すために飛びついて、あまりにも簡単に剥がせてしまったものだから足がもつれて転びそうになって、自分の後頭部を守ろうとして、両手がいっぱいだったから思わず持っていたものを放り投げて、自分はブリッジみたいな形になっていて……
あれ、これ、ジャーマン・スープレックス(投げっ放し式)になってない……?
「――っ」
佐倉は慌てた。美少女の非難が思い当たった。ジャーマン・スープレックスはダメだ! そらダメだ! 白冑の美童にジャーマン・スープレックスをかましたって罪の意識に襲われることはないけれど、白鱗の美少女にジャーマン・スープレックスは罪の意識で地面にめりこんでしまう……!
あ、謝ろう!
悪いことしたんだし、ちゃんと謝ろう!
佐倉は声をあげようとして、自分の咽喉から歪な呼吸音しかしないことに気がついた。
「ヒトがこのような無礼を働くとは!」
少女の激昂に影響されたかのように佐倉に恐怖が襲い掛かった。血の気が引き、自分の意思とは無関係に指が、腕が、身体が震えだす。あれ、どうした。なんで、こんなに身体が震えるんだろう。なんで、こんなに――
竜から、目を離すことができないんだろう。
四つん這いのまま、身体を震わせる。辛い。苦しい。地面に腹這いになりたい。それなのに、身体は佐倉の意志通りには動かない。声を発することもできず、どんどん息が荒くなる。これ、まずい。なんか、きっと、窮地だ……!
心の中で悲鳴を上げた瞬間、佐倉の視界に小さな、小さな、手が現れた。小さな手は、佐倉の片目の睫毛を引っつかんだ。そのまま下にひっぱり、まるで車庫のガレージを閉めるかのように佐倉にまばたきをさせた。
ぱちん。
まぶたきと一緒に、鼓膜の奥でそんな音がした気がした。そして目を開く。ぱちり、ぱちり、とまばたきを繰り返す。目が覚めたようだった。――『何も、起こっていなかった』。先ほどの息苦しさも、先ほどの寒気も、先ほどの恐怖も嘘のよう。まばたきを繰り返す佐倉の眼前に、小さな小さな女の背中がある。黄金色の肌を惜しげなく見せ付けて、銀のベリーショートをかきあげる仕草。
佐倉は思わず叫んだ。
「うわぁぁ痺れる!! ちょ、フィフィ、かっこいいいいいいい!」
あ、声出た。普通に出た。しかも小さい姐さんに黄色い歓声を上げてしまった。対する眼前の小さな姐さんは、当然でしょ、そんな賛辞必要ないわ、とばかりにこちらに顔も向けずに片手をひらひら。佐倉の黄色い歓声を払うような仕草である。そんなところまでカッコイイ……!
「……風の目?」
竜の少女の声が、フィフィに遮られた視界の向こうから聞こえてくる。
佐倉はその状態のまま叫んだ。
「あの! ごめんなさい、さっきは投げちゃったけど、思わずってやつで!」
竜の少女の身体が少し傾いだ。まるで、フィフィの先にいるこちらを覗き見ようとするように。しかし、フィフィも一緒に少しだけ場所をずらして漂う。まるで背後の佐倉を守るかのように。
「信用できぬ。妾に向かってくる時、そなたはこう言ったぞ。ぶちのめす、と」
おおう、言ったね。このオクチ様は、確かにそう言っちゃったね! 佐倉は否定もできず、天を仰いだ。その間に、竜の少女の傾いだ身体がゆっくりと元に戻される。するとフィフィも元の位置へと移動した。
竜は笑い声を上げた。
「風の目が、ヒトを守ろうとするとはの」
鈴の音のような軽やかな声だった。
「これはなんとも珍しい。いったいどうしたのじゃ風の目よ」
佐倉に話す時よりもはるかに友好的な声で竜は、フィフィに話しかけた。
フィフィは、腕を組み、特に何の反応も示さない。
「そなたの役目は嵐姫の先導であって、ヒトの子守ではなかろうに」
フィフィはいつものような声をあげることもない。ただただ、佐倉の前にいる。……ん、ただ、前にいる……?
「あの、フィフィ?」
「まあ、風の目がヒトの子守をしたい、というのなら、妾はそれでも構わぬよ」
再び鈴の音のような可憐な笑い声。
その声と同時に、眼前のフィフィがびくり、と肩を揺らした。そしてハッとしたように、周囲を見渡す仕草。振り返り、こちらに気付いた時、フィフィの翠の瞳が驚いたように見開かれた。フィフィがもう一度、竜の少女のほうへと振り返る。今度は佐倉。今度は竜の少女。数度続けた小さな小さな生物は、その顔に困惑を浮かべていた。
佐倉は気付いた。
この竜、何か変な力を使ってくる。
火が飛び出すとか突然、氷が襲ってくるとか、そういった力じゃない。もっと歪で嫌な感じがするものだ。精神を捻じ曲げてくるような――そう、幻覚を見せるのだ。
佐倉が動けなくなったように。
フィフィが二人の間で混乱したように見比べているように。
フィフィは必死で佐倉と竜の顔を見比べている。その姿で丸分かりだった。フィフィには今、佐倉が『二人』見えているに違いない。
竜の少女へと視線を投げる。なるべく、ぼんやりと。思っていることが正しいならば、この美少女を見ることは、危険だ。竜の少女は微笑んでいた。そして小首を傾げ、可憐な声で、可憐な笑顔で、こう言った。
「フィフィ、『私』を守って」
「うっは! 反則だ……!」
佐倉は叫んだ。ずるい。そんな言葉をこんな可愛い竜の少女に言われたら、誰だって守りたくなるというものだ。フィフィの目の前には、佐倉が二人いるはずだ。そのうち一人がそんなこと言ってきたら、どうなるか! 自分はこの竜の少女みたいに可愛いわけではないけど、そんなふうに「守って」なんて言われたら、もしかしたらフィフィだってその気になるかもしれないではないか。フィフィがゆっくりとこちらを見た。その翠色の瞳は、佐倉が佐倉なのかどうか判断できない、という迷いが見えた。
佐倉は反射的に手を上げた。
「はい、こっち! こっちが本物!」
「騙されないで。分かってるでしょ。竜はその人が好ましいと思っている人に化けるのよ」
「ええ!? そうなの!? でもほらー! はい、あいつ偽者ー! こっちはそんなこと知らないし! 偽者見分けたりー!」
「フィフィには、『私』が二人に見えてるんだよね!? さっきからあっち見たりこっち見たり、そういう反応してるじゃない! 偽者って声高に言う奴、怪しいと思うでしょ!」
「うぉぉぉ、否定のできないところを的確に射抜いてくる、なんてイヤな子なんだろう! ちょっと! フィフィ! 忘れてないよね! 裸兜の前で一緒に騒いだ仲なのは、こっち! 見たよね一緒にあの神々しい美裸体を!」
「竜は、姿と一緒に記憶も読むらしいから、信用できないと思うけど!?」
「クソ厄介だな竜!」
そこで佐倉は思い出した。アルルカ部隊長の部屋で竜の話になった時、案内カウンターは通信機の先で言っていた。『竜は、精神衛生上、絶対誰にも良い影響を与えない』と。なるほど! 確かに、勝手に成り代わってくれたり、記憶を盗んだり。精神衛生上、全く、全然、いい影響を与えてくれる気がしない!
フィフィは言葉の応酬の真ん中で、なんだか苛立たしそうに両方を眺めている。
そんな小さな彼女の真横を、小石が通過した。佐倉が竜を狙って投げたものだ。先ほど、佐倉が妙な力に囚われそうになった時、フィフィは視界を遮断して元に戻してくれた。しかし今は、先ほどとは違う。フィフィはもう竜のほうを見ていない。こちらの顔と竜の顔を交互に見ているのだから。それでもフィフィは竜の術にかかってしまっていて、どちらも佐倉に見えているらしい。つまり今、フィフィの視界を遮断してもなんの意味もないのだろう。でも、だ。でも、竜の気が逸れたら、この幻覚も立ち消えるんじゃないだろうか。それを狙って投げた小石は、竜のほうへと飛んでいく。竜は動じなかった。手で掴んでいる緑布で小石から身を守った。
その隙をつく。
佐倉はその小さな身体に、再び飛びついた。
竜の少女の悲鳴と佐倉の「っそぉいやさ!」という奇抜な声が混ざる。佐倉は懸命に緑の布地を手繰り寄せた。この厚地の緑布、邪魔すぎる。これでは外から見たら、緑シーツの中で何か物体が蠢いているようにしか見えないに違いない。
もどかしく手を動かし、竜の顔に布を押し付けた。
「イヤァあっ! 何を……っ助けて! フィフィ!」
悲鳴を上げた可憐なヒロインは竜の少女だった。その腹に乗り、美少女の顔に布を押し付けているほうは、誰が見ても悪い奴だった。だからなのか。フィフィは竜の美少女の腹に乗った佐倉の頭を蹴った。
「イッタ! ちょ、痛ッ!」
佐倉が叫んだ。頭を蹴られ悶絶した。なんだろう、この尖ったもので突かれた感触。痛すぎる……! 悶絶する佐倉を放置し、小さな姐さんは、すぐさま次の行動を開始した。布で押さえられている美少女のオデコあたりにタックルしたのだ。
「痛い……! な、何を!?」
と、竜。続く佐倉のデコに神速タックル。
「ちょ、フィフィ、暴れっ、暴れないで!」
佐倉が叫んでいるのと、竜の次なるうめき声が同時だった。
いったいどういうことなのか。
フィフィは鼻息荒く、再びこちらを睨みつけた。
あれ、これはもしかして、と思った時にはこちらのオデコに再びの神速タックル。クソ痛い!
「姐さん、どっちの味方なの!?」
佐倉の悲鳴。するとまたしてもフィフィは空中で身体を反転させた。そして再び、竜に向かって――「イッたい!!」竜の悲鳴。再び身体が反転する。フィフィはこちらを睨みつけていた。うおおおおお、これは、やはりそういうことかー!
佐倉の悲鳴。続く竜の悲鳴。
佐倉は竜の少女の上に跨り、その美しいお顔に布を押し当てながら、やけっぱちに叫んだ。
「ほらほら、竜さんや! いいんですか、このままでいいんですか、この妙な術を解かないとフィフィは――ぐぉ痛! ふ、フィフィはどっちも攻撃し続けますよ! 喧嘩両成敗ってやつですよ! もうフィフィ的には生き残った奴が『私』っていうめちゃくちゃ大雑把な決め方でいいみたいですよ!」
「ぐうううううっ」
「やりますか、どっちが石頭か決めますか! 最近、ゲンコツくらいすぎて、自分の――ぐはっ! 自分の、石頭具合には自信あるんですよ。え、やりますか、この不毛な石頭対決!」
「何なのじゃそなたら、頭おかし……痛っ!」
「ふふふふふ、頭おかしいですか頭おかしいですかね頭おかしいですよね私もそう思いますこの状況、頭おかしすぎるだろ! アタッ! 姐さん、なんで喧嘩両成敗方式を採用してるの!」
「は、放…イッ」
「うぉお、説教ゲンコツと同じくらい、同位置にタックル決めてくるねフィフィ! よしどんとこーい! ぃ痛い!」
「放せと言っておる! もう術は解けている! 風の目に妾の顔を見せるがいい!」
佐倉はすかさず布を外した。
フィフィは最後の一撃とばかりに、布を取り払った美少女の額に、神速タックルをぶちかました。
佐倉と違って、顔に布を押し付けられていた美少女は今まで布越しタックルだった。だからなのか、布無しタックルの痛みに耐えられなかったようだ。悶絶している。なんか言い方が卑猥になるけれど、美少女が自分の下で悶絶している。それにしても、フィフィのあの攻撃、私もあと数発喰らったらノックアウトしていたと思う。おそるべし。フィフィ神速タックル。
フィフィは、竜の顔を見つめ、タックルを中止した。竜の美少女を見つめ、それから佐倉のほうを振り返る。さすがにフィフィ姐さんの暴挙に、恨みがましい視線を投げたが、フィフィはこちらの視線をふん、と鼻息で払いのけて、ふわりと泳いでいく。頭の上に乗っかった彼女は、腹這いで佐倉の赤くなったオデコに触れた。あまりの熱さに驚いたらしい。ちょっと心配そうにぺしぺし撫でる。いや、うん、そこを赤くさせたのは貴女なんですけどね姐さんよ。
それにしても、暑い。
なにせ、竜が被っていた大きな大きな布地をずっと被っている状態だったのだ。いい加減、厚手の布地を取り払おうと、佐倉は手を動かした。視界が開ける。風が額の熱を少しだけ、ほんの気持ち程度、取り払ってくれる。
さて、散々な目にあったけれど、竜を捕まえた。この後はどうしたらいいんだろう――そう考えて、竜の美少女を見下ろした佐倉は、あっと、息を呑んだ。目が合った。しまった。目が合ってしまった。
そして、再び、目が離せなかった。
竜の少女は、にんまりと微笑んだ。
「すまぬの。妾は諦めが悪くて、その上、負けることが大嫌いなのじゃ」
美少女はそう言った。
この竜は、と、佐倉は動かない口で罵った。この竜はまだ、この後に及んでまだ、諦めていなかったのか!
「もう一時的な、まじないでは済まさぬぞ。そなたは妾の糧とさせてもらおう」
膝で押さえていたはずの竜の美少女の腕が、簡単に解放される。何故か、またしても身体は佐倉の思い通りに動かなくなった。竜の無言の指示に従うように頭を垂れ――あ、フィフィ! そうだフィフィがなんとかしてくれるに違いない! 頑張れフィフィ! ぶちかませフィフィ!
淡い期待は、頭を垂れた瞬間に、竜の美少女の胸の辺り落ちたフィフィの姿によって、呆気なく砕けちった。フィフィは眠っていた。それはもうスヤスヤと。今までの震撼するほどの勇猛な姿は全く見受けられなかった。
「最初から、眠らせておけば良かった」
鈴の笑い声が響き、佐倉は悟る。佐倉もフィフィも、先ほど竜を見下ろした時に、二人とも『見てしまった』に違いない。……咽喉元すぎる前に熱さを忘れてしまうアホな二人だなあ、と、この窮状をどこか他人事のように感じてしまった。
「そなたを糧とするかわりに、そなたはこの先、ずっと妾を望んだ姿で見ることができるぞ。どのような姿形が好みかのう。大人の女性が良い? それとも同じくらいの年齢の娘かのう」
佐倉の額に、華奢な指が触れた。
そんな姿、全然、好みじゃない。
「ふむ、好みじゃない、と。さては恋はまだか。ふふ、なんとも初々しい」
そうじゃなくって。恋はまだっていうか……いや、恋なんて……でも恋をするなら……
「……今そなたとんでもないものを思い浮かべておるが、それでいいのか。これはヒトでいうところの、そなたと同じ性別のような気がするのだが。そなたヒトの中でもまだ成熟していない幼生と分かるが、ううむ、雄のような雌のような……」
何を言ってるのかちょっと意味がわからない。ぼんやりとしている佐倉の耳にため息が届いた。
「おのれの性別も答えられぬのか。まあ、妾が雄の姿形でもいっこうに構わぬが。……そなた、道を踏み外しかけておらぬか。このまま踏み外すのに手を貸してよいのかどうか、判断に迷うところではあるが……望む姿は大事な家族の姿でも良いのだぞ。両親は? 兄弟は?」
家族。
佐倉は思い浮かべた。なんてことなない家族の姿を。父が新聞を読みながらコーヒーを飲み、母がご飯をよそいながら鼻歌を歌っているような、なんてことはない朝の風景を。つきっ放しのテレビが今日の天気を告げ、佐倉が席に着くと二人の顔がこちらを向く。おはようさん、と声がして。
大事な家族。
そうこれは、大事な家族だ。
――うなじから、灼けるような痛みを感じ、ぶわり、と総毛立つ。
茫洋としていた瞳が、意志の光を放ち始めた。
この竜、今、何に成り代わろうとしているって……?
首が……!!
ばちり、と静電気が奔ったかのように、佐倉の額から竜の華奢な指が弾かれた。
「ぁぁぁあ熱っ! 首、熱っ! え、何、火傷!?」
佐倉は自分のうなじを両手で覆って叫んだ。さわさわとさすってみる。痛くない。ぺたぺた叩く。全然、痛くない。あれ、何ともなってない……? そして今度は、竜が触れていた額を覆った。先ほど、静電気が奔った気がしたのだが……こちらも何ともなっていないようだ。
不可解な痛みと不可解な痛みの喪失に困惑する。
自分の首やら額やらをさする佐倉の耳に、奇妙な単語が飛び込んできた。
「たままゆの、」
それは驚愕する竜の少女の声であった。
「そなた―――玉繭の主ではないか!」