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ふぅ、と小さく溜息を吐いて、神藤綺羅は窓の向こうを見た。
立ち止まったことに意味はない。空に感動を覚えることもない。
窮屈だと思うだけだ。どこまでも広がっていながら人が届く領域は限られている。背中に翼が生えることはない。
学校はどこも変わらない。何度も胸に抱いた感想だ。
放課後、人気のない廊下、窓の向こうの声……何もかも虚しく思うだけだ。
まるで病院のようで、監獄のようでもある。もしくは、墓場なのかもしれない。ここにいることで自分が死んでいくような錯覚に陥る。
綺羅は新しいクラスメイトの申し出を断って一人で校内を歩き回っていた。
これで最後だと伯父に通告されている。転々とした末の行き先、終着点に相応しいのか、やたらと広い校舎内で迷っていた。
けれども、案内役をひどい言葉で追い払ったことを後悔してもいない。後悔するぐらいならば最初からしない。
また少し歩くか、そう思ったところで綺羅は突然の衝撃によろめいた。
「うおっ……」
そんな声を発したのは綺羅ではない。
衝撃の正体は目の前で尻餅をついている男子生徒以外にないだろう。
ツンツンと立つ白みを帯びた金髪は頻繁に脱色を繰り返しているのだろうか。制服は着崩され、耳や胸元、指や手首にシルバーのアクセサリーを付けている。綺麗な顔をしているが、不良の一言で片付けることもできる。
つまり、ガラが悪いのだ。一目見てお関わりになりたくないと思うほどに。
「……どこ見て歩いてんだよ!?」
ハッとした様子で彼は叫ぶ。いかにも不良らしい言いようである。ただし、その視線は綺羅の方を向いてはいない。
「その言葉、そのまま返すけど」
綺羅は淡々と返す。不良だろうと何だろうと怖くはない。
見回しても他にいないのだから、綺羅に言っているつもりなのだろう。それとも、彼にしか見えない人物でもいるのだろうか。
「あぁっ?」
反応は返ってくるが、やはりその視界に入っているとは思えなかった。全く逆の方向だ。
「あたし、ここから動いてないし、って言うか、どこ見てんの?」
それはタブーのようにも思えたが、綺羅は聞いてみる。
「うるせぇ! 動くな! 動くなよ!?」
ビシッと指さすのも、明後日の方向だ。
それから彼はぺたぺたと床を触って何かを探しているようであった。
「ねぇ」
「動くな」
ぴしゃりと言われて綺羅は肩を竦めるしかなかった。
どうせ、相手はこちらを見ない。どんな表情をしても伝わることはないだろう。
「何探してんの? 目、見えないの? 目玉落とした?」
不躾だと綺羅は自分でも思うが、礼儀を欠いているのは相手も同じだ。
そもそも、綺羅には『人に優しく』という意識がない。自分にも他人にも厳しくする。
「コンタクト落としたんだよ! 目玉がそう簡単に落ちるか! 俺、両目あるだろ!? こえーこと言うなよっ!!」
「何てベタな……」
「うるせぇ!」
「って言うか、あれって本気で落とす物だったんだ」
相手は見えていないらしいのだから無視して立ち去っても良かったのかもしれない。綺羅には関係のないことだが、見過ごせないのは胸が痛むわけでもなく、ただの気まぐれだった。
「とにかく動くんじゃねぇぞ!」
相変わらず、彼はぺたぺたと床を触り続けているが、本当に手探りといった感じだ。
「だから、あんたさ、見えないんでしょ?」
「見えるわけねぇだろ! 両方落としたんだからな」
この男は本物の馬鹿ではないか、綺羅でなくともそう思っただろう。
ただでさえ見付けにくい物を見えない状態でどうやって見付けると言うのか。
「じゃあ、あんた動かない方がいいよ」
「るせぇ、俺様にかかればコンタクトの二枚くらい……」
綺羅の親切を跳ねのけて、彼が一歩前に踏み出した瞬間、微かな音がした。
そっと彼が足をどけ、綺羅はしゃがみ込む。
目を凝らせば確かに割れたレンズがそこにあった。
「動かない方がいいって言ったのに。もう片方は探してあげる。あんた、面倒臭いから」
「面倒臭いって何だよ!」
「動かないで」
ぴしゃりと今度は綺羅が言うが、彼の耳には入らないようだった。
「お前が動くな! 動くなよ? 絶対に動くんじゃねぇぞ! ネタじゃねぇからな!? マジで動かないでくれよ! 俺はガチだからな!!」
もう手遅れだった。
彼の足下でまた微かな音がした気がした。彼自身も気付いたのだろう。
「あーあ、こっちも粉々」
「お、俺様のコンタクトが……」
がっくりとうなだれる彼、大事なコンタクトが二枚とも使い物にならなくなってしまったのだから無理もないだろう。
そして、全ての原因は彼にあるわけだ。
「責任取れよ!」
まさか自分に責任を擦り付けてはこないだろうと綺羅が思った矢先、彼が吠える。
睨んでいるつもりなのだろうが、やはり彼の視線の先に綺羅はいない。
溜め息を吐いて、綺羅は手を伸ばす。ぐいっと彼の頭に手を当てて、自分の方を向かせる。
「あたしにぶつかってきたのはあんた、コンタクト落としたのもあんた、そのコンタクトを二枚とも割ったのもあんた、わかる?」
綺羅はその目をじっと見詰める。この距離でも自分は見えているのかはわからない。
睨んでいるつもりなのだろうが、全く怖くない。他人から睨まれていることには慣れているが、その中でも彼の目は綺麗すぎた。濁った目をしていない。それどころか根本的に色が綺麗なのだ。
冷灰の如き瞳は天然のものなのだろう。カラーコンタクトには見えない。
彼は自分とは違う。打ちのめされた気がして、綺羅は手を離した。
「何も見えねぇ……」
再び彼はガックリと項垂れる。お先真っ暗という感じなのだろうか。
置き去りにするべきだったか。だが、彼に自分が見えないというのは綺羅にとって悪いことではない。迷子という状況が改善するわけでもないのだが、たまには他人とお喋りをしたいという気持ちがないわけではない。
「予備とかないの?」
「んなもんあるわけねぇだろ」
「眼鏡は?」
「あんなだせぇもんかけられるか!」
レンズ二枚で明るい未来が見えるとはお手軽なことだ。そして、そんな理由で眼鏡を拒否するのは贅沢なことだ。綺羅は思う。
「くそっ、作りに行かねぇと……また出費が……!」
「誰か保護してくれるような友達は?」
このまま放っておくわけにもいかない。
誰かのために何かをすることも、滅多にあることではない。
ここにきて一度くらいは人助けのようなことをしてみてもいいだろう。それは暇潰しでもある。
「寮まで連れてってくれ」
「寮……?」
「星宿寮に決まってんだろ? ここに星があるんだから」
彼が示したブレザーの襟元には確かに星形のピンズが付いている。
ファッションというには彼の路線から少し外れているようにも思えた。
彼にとって、それは《印籠》なのかもしれないが、綺羅には何の効力も発揮しない。
「あのさ、あたし、今日転校してきて、全然わかんないんだけど」
「はぁっ?」
「はっきり言って迷子。それで、あんたがぶつかってきた。わかる?」
彼を目的地に運べるくらいなら、綺羅も行くべき場所に辿り着いている。
「じゃ、じゃあ、俺様が誰か知らねぇのかよ?」
「知るわけないでしょ」
有名人なのだろうか。確かに彼の容姿はとても目立つ。イケメンと持て囃されてきたのかもしれないが、綺羅にはどうでもいいことだ。
「仕方ねぇ。アドレス帳の一番初めに出てくる奴にかけろ」
彼は自分の携帯電話を差し出してくる。
「あめ、きり、りゅう……?」
アドレス帳を開いて一番上には『雨霧流』と表示されている。
「あまぎりながれ、そいつだ」
随分と水っぽい名前だ。そう思いながら、綺羅は発信してそれから彼の耳に当ててやった。彼が何をするかわからないからだ。
「流、助けてくれ。緊急事態発生だ」
彼は早口に言う。
「俺は確か四階の……おい、回りに何が見える?」
問われて、綺羅は周りを見てみる。綺羅自身も迷子でどこにいるかはわからないのだが、『会議室』という表示が見え、それを伝えてやった。
「会議室付近にいる。至急助けにきやがれ、以上だ」
助けを求めるくせに、尊大な態度だ。
「よし、もう切っていいぞ」
綺羅は通話を切って、彼の胸ポケットに押し込んでやった。
この男と関わるのは今回限りであってほしい。綺羅は思う。
あまりに面倒臭い男である。
「じゃあ、あたし行くから」
もう置き去りにしても迎えが来るのだろう。彼が動かない限りは問題ないだろう。動くなと言って聞かなかった彼ももう大人しくしているだろう。迎えが来るまで見張っている理由が綺羅にはない。
「待てよ、迷子なんだろ? 流に案内させりゃあいい」
てっきり、自分のことに必死で忘れたと綺羅は思っていた。だからと言って感心するわけでもない。
「名前は?」
不意に問われて、綺羅は沈黙する。
このまま立ち去れば、きっと関わることはなくなる。その方がいいと思うのに動けなかった。
「お前の名前だよ!」
焦れたように彼が声を荒らげる。
少し怒りのセンサーが敏感すぎるのではないだろうか、やはり面倒臭すぎる。そう思って、綺羅は溜息を吐く。
どうやら、今更逃げようと足掻いたところで無駄なようだ。
「神藤綺羅」
「しんどうきら……どういう字、書く?」
「神様の神に藤、綺羅星の綺羅」
「きらぼし……?」
「綺麗の綺に羅針盤の羅」
「なんか、画数多そうな名前だな」
「確かに、親を恨んだよ」
それだけじゃないけどね、と付け加えるのは心の中でだけだ。
「でも、いい名前じゃねぇか」
そんな風に思ったことはないよ、綺羅はまた心の中で思って留めた。
きっと、彼は自分が見えないからそんな風に言えるのだ。眼鏡をかけるなり、コンタクトレンズを入れて目が見えるようになれば、同じことを言うことはないだろうと。
誰もが同じ目をする。好奇とそれに勝る畏怖、軽蔑、濁った目に突き刺されるのだ。
忌避を何度も味わった。醜悪なものを見るように、同じ空気を吸いたくないというように、恐れて、そして突き放す。
きっと、目の前の彼は違うのだろう。目の色が他と違っても彼は綺麗だ。彼はあの目を知らないだろう。
「俺は不動光翔、不動妙王の不動に、光に飛翔の翔って字」
頭の中に彼の名を思い浮かべてみる。それが妙にぴったりとはまる。
「それで、あきとって読めるの? うわっ、今時ー」
最近の名前は難しい。綺羅はそう思う。自分の名前など画数が多いだけだ。
「るせぇよ、そういう奴、いっぱいいんだろ」
今までに何度も読み方を聞かれたことがあるのだろうか。うんざりした様子で光翔が言う。
「でも、いい名前なんじゃないの?」
自分だけが彼を見ていて、彼は正確に自分を捉えていない。それはこの不運の中で唯一幸運だった。
「何で疑問系なんだよ?」
さあね、綺羅ははぐらかす。追及の目はまた別の方を見ている。けれど、それ以上聞いてくることはなかった。
迎えが来たのだ。