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シオンの悪役令嬢系短編集

悪役令嬢は今日もお忙しい

作者: シオン
掲載日:2026/08/25


 クラリッサ・フォン・ローゼンベルクの朝は、だいたい不機嫌から始まる。


「お嬢様、朝でございます」


「却下よ」


「朝を却下なさいますか」


「ええ。今日は昼から始めなさい」


 天蓋付きの寝台から伸びた白い手が、窓を開けようとする侍女を制した。


 しかし、侍女のエマは慣れたものである。


「本日は朝食後に領地から届いた陳情書をご確認いただき、十時から仕立屋との打ち合わせ、午後は王立学院で授業、その後は孤児院への訪問となっております」


「最後の予定は、帳簿上では『慈善事業の視察』となっているはずよ」


「はい。子どもたちに焼き菓子を配り、絵本をお読みになる慈善事業の視察です」


「余計な説明は不要よ」


 クラリッサは勢いよく上半身を起こした。


 燃えるような赤い髪が、寝癖によって見事な鳥の巣になっている。王都の社交界で「深紅の薔薇」と恐れられる公爵令嬢も、朝だけはずいぶん親しみやすい姿だった。


「それから、料理長が新しい苺のタルトを試作したそうです」


「なぜそれを先に言わないの!」


 こうして、ローゼンベルク公爵家の一日が始まった。


◇


 クラリッサは、王立学院で悪役令嬢と呼ばれていた。


 理由はいくつかある。


 まず、目つきが鋭い。


 次に、言葉がきつい。


 そして、王太子の婚約者候補だったにもかかわらず、王太子本人に向かってこう言い放った。


「その程度の計算もできない方に、国庫を任せるのは不安です」


 もっとも、その指摘が正しかったため、王太子は三日間かけて計算をやり直すことになった。


 以来、学院ではさまざまな噂が広まっている。


 クラリッサは、気に入らない生徒を退学させる。


 クラリッサは、教師を泣かせたことがある。


 クラリッサの屋敷には、政敵を閉じ込める地下牢がある。


 最後の噂について、クラリッサは一度だけエマに尋ねたことがあった。


「地下牢なんて、うちにあったかしら」


「ございません」


「では、造ったほうがよいのではなくて?」


「何にお使いになるのですか」


「冬野菜の保存庫にするわ」


「それは地下室で十分かと存じます」


 朝食の席には、領地から届いた陳情書が積まれていた。


 クラリッサは苺のタルトを一口だけ味わうと、書類に目を通した。


「北区の橋が壊れた?」


「先日の大雨が原因だそうです」


 家令のセバスが答える。


「修繕費用の見積もりが高すぎるわ。この業者、去年も倉庫の修理を担当したところでしょう。釘一本まで金でできているつもりかしら」


「別の業者にも見積もりを依頼いたしますか」


「いいえ。領内の職人を集めて直接相談しなさい。そのほうが仕事も領内に残るわ。橋が直るまで、子どもと老人が渡れる小舟を用意して」


「かしこまりました」


 クラリッサは次の書類を手に取った。


「東の村から、薬草畑への補助金申請ね」


「却下なさいますか」


「認めます。ただし、収穫した薬草の一部を診療所へ安価で卸すことが条件よ。それから、栽培に成功した場合は、ほかの村にも技術を教えること」


「お優しいことでございます」


 セバスが微笑む。


 クラリッサは眉をつり上げた。


「勘違いしないで。領民が健康なら税収が安定するだけよ」


「左様でございますか」


「その生温かい目をやめなさい」


 悪役令嬢は、苺のタルトをもう一口食べた。


「料理長に伝えて。私の好みではなかった、と」


「おかわりはいかがなさいますか」


「いただくわ」


◇


 午前十時。


 王都で最も予約の取れない仕立屋、マダム・ベルが屋敷を訪れた。


「お嬢様、今年の夜会では空色が流行いたします。ぜひ、こちらの生地を」


「流行を追いかけるなんて退屈だわ」


 クラリッサは生地を一瞥した。


「深い緑にしなさい。裾には黒いレースを。装飾は最小限でいいわ」


「まあ。まるで森の女王ですわね」


「毒のある植物を刺繍してちょうだい」


「スズランはいかがでしょう。可憐に見えて毒があります」


「決まりね」


 マダム・ベルが採寸の準備をしている横で、若い見習いの少女が緊張した様子で針箱を抱えていた。


 その手が震え、箱が床に落ちる。


 無数の針と糸巻きが、絨毯の上に散らばった。


「申し訳ございません!」


 見習いは青ざめ、その場にひざまずいた。


「も、申し訳ございません、ローゼンベルク公爵令嬢様。どうか、お許しを……」


 クラリッサは無言で少女を見下ろした。


 部屋の空気が凍りつく。


 見習いは泣きそうな顔でうつむいた。


「あなた」


「は、はい!」


「針を素手で拾うつもり?」


 クラリッサは、テーブルの上にあった小さな磁石を手渡した。


「これを使いなさい。絨毯の毛に隠れた針を見落としたら、誰かが怪我をするわ」


「ありがとう、ございます……」


「それから、震えた手で針を持たないこと。今日は採寸を見ていなさい」


「ですが、私は見習いとして……」


「倒れるまで働くことを修業とは呼ばないわ。顔色が悪い。昼食は食べたの?」


 少女は小さく首を横に振った。


 クラリッサは深々とため息をついた。


「エマ。この子に温かいスープを。それとパンを二つ」


「すぐにご用意いたします」


「三つですか?」


「二つよ!」


 見習いがエマに連れられていくと、マダム・ベルは困ったように笑った。


「お嬢様は相変わらずでございますね」


「何が言いたいのかしら」


「いいえ。ただ、学院での評判は、ずいぶん当てにならないと思いまして」


「それなら訂正しておいて。私は無能と不摂生が嫌いなだけよ」


「承知いたしました。恐ろしく気難しく、たいそう面倒見のよいご令嬢だと広めておきます」


「前半だけにしなさい」


◇


 午後、クラリッサが王立学院へ到着すると、廊下にいた生徒たちは一斉に道を空けた。


 彼女が歩けば、人の波が割れる。


 本人はそれを当然の礼儀だと思っていた。


「クラリッサ様、ごきげんよう」


 声をかけてきたのは、子爵家の令嬢リリアだった。


 淡い金色の髪に、大きな青い瞳。誰にでも親切で、よく笑い、小鳥と会話ができそうな雰囲気を持っている。


 物語なら、間違いなく主人公になる少女だった。


 そして、クラリッサにまつわる噂の半分は、「クラリッサがリリアをいじめている」というものである。


「ごきげんよう。今日の課題は終わったの?」


「はい。クラリッサ様に教えていただいたところを、もう一度やり直しました」


「見せなさい」


 リリアが差し出した紙に目を通す。


「三問目が違うわ」


「えっ」


「ここの単位を間違えている。薬草の分量だったら、患者を死なせているところよ」


「ご、ごめんなさい」


「私に謝ってどうするの。間違いを直しなさい」


 周囲の生徒たちが、ひそひそと囁き始めた。


「またクラリッサ様がリリア様を責めているわ」


「恐ろしい……」


「紙を奪って、睨みつけていらっしゃる」


 クラリッサのこめかみに青筋が浮かんだ。


 リリアは慌てて周囲を振り返る。


「違うんです! クラリッサ様は勉強を教えてくださっていて!」


「リリア。放っておきなさい」


「でも……」


「噂を訂正して回る時間があるなら、四問目も確認なさい。そこも違っているわ」


「ええっ!」


 授業が終わるころには、リリアの解答はすべて正しくなっていた。


「ありがとうございます、クラリッサ様」


「次は一人で解けるようになりなさい」


「はい!」


 リリアは満面の笑顔を浮かべた。


「クラリッサ様は、やっぱりお優しいです」


「それ以上くだらないことを言ったら、追加の課題を出すわよ」


「それなら、あと少しだけ言ってもいいですか?」


「なぜ喜ぶのよ」


 クラリッサは頭痛をこらえるように額を押さえた。


 彼女の悪評が消えない理由の残り半分は、本人の言い方にある。


 しかし、それを指摘できる者は少なかった。


◇


 学院を出た馬車は、王都の西にある小さな孤児院へ向かった。


 クラリッサが到着すると、二十人ほどの子どもたちが庭に並んでいた。


「クラリッサお姉さま!」


「こら、走らないの。転ぶわよ」


 言い終える前に、一番小さな男の子が石につまずいた。


 クラリッサは素早く抱き留める。


「まったく。だから言ったでしょう」


「えへへ」


「笑ってごまかさない」


 男の子は、彼女の胸元に顔を埋めた。


 高価なドレスに、泥のついた手形がくっきりと残る。


 院長が慌てて駆け寄った。


「大変申し訳ございません!」


「構わないわ。この程度、洗えば落ちるでしょう」


 クラリッサは男の子を地面に下ろした。


「でも、次からは走らないこと。約束できる?」


「うん!」


「よろしい」


 彼女が指を鳴らすと、従者たちが大きな籠を運んできた。


 中には焼き菓子、絵本、毛布、薬、それから木製の玩具が詰まっている。


 子どもたちは歓声を上げた。


「なぜ木剣が十二本もあるのですか?」


 エマが尋ねる。


「この前、取り合いになっていたでしょう」


「お嬢様が、一人一本ずつ用意するとおっしゃったのですね」


「違うわ。戦力を均等に配分しただけよ」


「なるほど」


「納得したふりをしないで」


 その後、クラリッサは子どもたちと二時間を過ごした。


 絵本を読み、算術を教え、破れた服を見つけては院長に新しい布を渡した。


 最後には木剣を持たされ、子どもたち十二人を相手に戦うことになった。


「覚悟して、悪の女王!」


 一人が叫ぶ。


 クラリッサは木剣を構え、不敵に笑った。


「よくってよ。全員まとめてかかってきなさい!」


 悪の女王は強かった。


 五分後、十二人の小さな勇者たちは庭に転がっていた。


「大人げない戦い方でございました」


 エマが言う。


「勝負の厳しさを教えただけよ」


「お嬢様、もう一回!」


「今度は負けないから!」


 子どもたちが次々と立ち上がる。


 クラリッサは黒い扇を広げ、高らかに笑った。


「何度でも挑みなさい。返り討ちにしてあげるわ!」


 夕暮れの庭に、彼女の笑い声が響いた。


 それは悪役令嬢にふさわしい、実に見事な高笑いだった。


◇


 屋敷へ戻ると、クラリッサは自室の長椅子に倒れ込んだ。


「疲れたわ」


「本日もお忙しい一日でございましたね」


 エマが温かい紅茶を用意する。


「領地の陳情書を片づけ、ドレスを仕立て、リリア様の勉強を見て、孤児院では十二人のお子様を相手に大立ち回り。たいへん立派な悪役令嬢ぶりでございました」


「最後のせいで腕が痛いのよ」


「明日は筋肉痛ですね」


「明日の予定は?」


「朝九時より、ご領主様の代理として議会へご出席。その後、学院で王太子殿下との合同演習がございます」


 クラリッサの表情が曇る。


「王太子と?」


「はい」


「では、仮病を使うわ」


「健康そのものでございます」


「急に熱が出る予定よ」


「体温計を偽装なさいますか」


「あなた、時々私より悪いわね」


 エマは上品に微笑んだ。


 机の上には、学院の生徒から届いた匿名の手紙が置かれていた。


 クラリッサが封を切る。


 中には、たった一行だけ書かれていた。


『悪役令嬢クラリッサは、今日も孤児院で子どもたちを脅していた』


 その下には、別の筆跡で小さく言葉が付け足されている。


『でも、みんな笑っていた』


 クラリッサは、しばらく手紙を見つめた。


 やがて丁寧に折りたたみ、机の引き出しへしまう。


「捨てないのでございますか?」


「証拠品として保管するだけよ」


「何の証拠でしょう」


「私に根拠のない噂を流した者を、いつか必ず見つけ出すための証拠よ」


「見つけたら、どうなさいます?」


 クラリッサは紅茶を一口飲んだ。


 窓の外では、王都の明かりが星のように瞬いている。


「そうね」


 彼女は悪役らしく目を細めた。


「文章が下手だと、徹底的に添削してあげるわ」


 エマが吹き出す。


「何がおかしいの」


「いいえ。噂どおり、たいへん恐ろしいお方だと思いまして」


「当然でしょう」


 クラリッサは胸を張った。


 明日もきっと、面倒なことが山ほど待っている。


 壊れた橋。


 終わらない書類。


 計算の苦手な友人。


 世間知らずな王太子。


 遠慮を知らない孤児院の子どもたち。


 そして、彼女を悪役令嬢と呼ぶ無責任な噂。


 それでもクラリッサは、すべてを片づけるだろう。


 美しく装い、背筋を伸ばし、誰にも感謝されなくても。


 少々きつい言葉と、誰よりも細やかな心遣いを武器にして。


 なぜなら、悪役令嬢は今日もお忙しいのだから。

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