悪役令嬢は今日もお忙しい
クラリッサ・フォン・ローゼンベルクの朝は、だいたい不機嫌から始まる。
「お嬢様、朝でございます」
「却下よ」
「朝を却下なさいますか」
「ええ。今日は昼から始めなさい」
天蓋付きの寝台から伸びた白い手が、窓を開けようとする侍女を制した。
しかし、侍女のエマは慣れたものである。
「本日は朝食後に領地から届いた陳情書をご確認いただき、十時から仕立屋との打ち合わせ、午後は王立学院で授業、その後は孤児院への訪問となっております」
「最後の予定は、帳簿上では『慈善事業の視察』となっているはずよ」
「はい。子どもたちに焼き菓子を配り、絵本をお読みになる慈善事業の視察です」
「余計な説明は不要よ」
クラリッサは勢いよく上半身を起こした。
燃えるような赤い髪が、寝癖によって見事な鳥の巣になっている。王都の社交界で「深紅の薔薇」と恐れられる公爵令嬢も、朝だけはずいぶん親しみやすい姿だった。
「それから、料理長が新しい苺のタルトを試作したそうです」
「なぜそれを先に言わないの!」
こうして、ローゼンベルク公爵家の一日が始まった。
◇
クラリッサは、王立学院で悪役令嬢と呼ばれていた。
理由はいくつかある。
まず、目つきが鋭い。
次に、言葉がきつい。
そして、王太子の婚約者候補だったにもかかわらず、王太子本人に向かってこう言い放った。
「その程度の計算もできない方に、国庫を任せるのは不安です」
もっとも、その指摘が正しかったため、王太子は三日間かけて計算をやり直すことになった。
以来、学院ではさまざまな噂が広まっている。
クラリッサは、気に入らない生徒を退学させる。
クラリッサは、教師を泣かせたことがある。
クラリッサの屋敷には、政敵を閉じ込める地下牢がある。
最後の噂について、クラリッサは一度だけエマに尋ねたことがあった。
「地下牢なんて、うちにあったかしら」
「ございません」
「では、造ったほうがよいのではなくて?」
「何にお使いになるのですか」
「冬野菜の保存庫にするわ」
「それは地下室で十分かと存じます」
朝食の席には、領地から届いた陳情書が積まれていた。
クラリッサは苺のタルトを一口だけ味わうと、書類に目を通した。
「北区の橋が壊れた?」
「先日の大雨が原因だそうです」
家令のセバスが答える。
「修繕費用の見積もりが高すぎるわ。この業者、去年も倉庫の修理を担当したところでしょう。釘一本まで金でできているつもりかしら」
「別の業者にも見積もりを依頼いたしますか」
「いいえ。領内の職人を集めて直接相談しなさい。そのほうが仕事も領内に残るわ。橋が直るまで、子どもと老人が渡れる小舟を用意して」
「かしこまりました」
クラリッサは次の書類を手に取った。
「東の村から、薬草畑への補助金申請ね」
「却下なさいますか」
「認めます。ただし、収穫した薬草の一部を診療所へ安価で卸すことが条件よ。それから、栽培に成功した場合は、ほかの村にも技術を教えること」
「お優しいことでございます」
セバスが微笑む。
クラリッサは眉をつり上げた。
「勘違いしないで。領民が健康なら税収が安定するだけよ」
「左様でございますか」
「その生温かい目をやめなさい」
悪役令嬢は、苺のタルトをもう一口食べた。
「料理長に伝えて。私の好みではなかった、と」
「おかわりはいかがなさいますか」
「いただくわ」
◇
午前十時。
王都で最も予約の取れない仕立屋、マダム・ベルが屋敷を訪れた。
「お嬢様、今年の夜会では空色が流行いたします。ぜひ、こちらの生地を」
「流行を追いかけるなんて退屈だわ」
クラリッサは生地を一瞥した。
「深い緑にしなさい。裾には黒いレースを。装飾は最小限でいいわ」
「まあ。まるで森の女王ですわね」
「毒のある植物を刺繍してちょうだい」
「スズランはいかがでしょう。可憐に見えて毒があります」
「決まりね」
マダム・ベルが採寸の準備をしている横で、若い見習いの少女が緊張した様子で針箱を抱えていた。
その手が震え、箱が床に落ちる。
無数の針と糸巻きが、絨毯の上に散らばった。
「申し訳ございません!」
見習いは青ざめ、その場にひざまずいた。
「も、申し訳ございません、ローゼンベルク公爵令嬢様。どうか、お許しを……」
クラリッサは無言で少女を見下ろした。
部屋の空気が凍りつく。
見習いは泣きそうな顔でうつむいた。
「あなた」
「は、はい!」
「針を素手で拾うつもり?」
クラリッサは、テーブルの上にあった小さな磁石を手渡した。
「これを使いなさい。絨毯の毛に隠れた針を見落としたら、誰かが怪我をするわ」
「ありがとう、ございます……」
「それから、震えた手で針を持たないこと。今日は採寸を見ていなさい」
「ですが、私は見習いとして……」
「倒れるまで働くことを修業とは呼ばないわ。顔色が悪い。昼食は食べたの?」
少女は小さく首を横に振った。
クラリッサは深々とため息をついた。
「エマ。この子に温かいスープを。それとパンを二つ」
「すぐにご用意いたします」
「三つですか?」
「二つよ!」
見習いがエマに連れられていくと、マダム・ベルは困ったように笑った。
「お嬢様は相変わらずでございますね」
「何が言いたいのかしら」
「いいえ。ただ、学院での評判は、ずいぶん当てにならないと思いまして」
「それなら訂正しておいて。私は無能と不摂生が嫌いなだけよ」
「承知いたしました。恐ろしく気難しく、たいそう面倒見のよいご令嬢だと広めておきます」
「前半だけにしなさい」
◇
午後、クラリッサが王立学院へ到着すると、廊下にいた生徒たちは一斉に道を空けた。
彼女が歩けば、人の波が割れる。
本人はそれを当然の礼儀だと思っていた。
「クラリッサ様、ごきげんよう」
声をかけてきたのは、子爵家の令嬢リリアだった。
淡い金色の髪に、大きな青い瞳。誰にでも親切で、よく笑い、小鳥と会話ができそうな雰囲気を持っている。
物語なら、間違いなく主人公になる少女だった。
そして、クラリッサにまつわる噂の半分は、「クラリッサがリリアをいじめている」というものである。
「ごきげんよう。今日の課題は終わったの?」
「はい。クラリッサ様に教えていただいたところを、もう一度やり直しました」
「見せなさい」
リリアが差し出した紙に目を通す。
「三問目が違うわ」
「えっ」
「ここの単位を間違えている。薬草の分量だったら、患者を死なせているところよ」
「ご、ごめんなさい」
「私に謝ってどうするの。間違いを直しなさい」
周囲の生徒たちが、ひそひそと囁き始めた。
「またクラリッサ様がリリア様を責めているわ」
「恐ろしい……」
「紙を奪って、睨みつけていらっしゃる」
クラリッサのこめかみに青筋が浮かんだ。
リリアは慌てて周囲を振り返る。
「違うんです! クラリッサ様は勉強を教えてくださっていて!」
「リリア。放っておきなさい」
「でも……」
「噂を訂正して回る時間があるなら、四問目も確認なさい。そこも違っているわ」
「ええっ!」
授業が終わるころには、リリアの解答はすべて正しくなっていた。
「ありがとうございます、クラリッサ様」
「次は一人で解けるようになりなさい」
「はい!」
リリアは満面の笑顔を浮かべた。
「クラリッサ様は、やっぱりお優しいです」
「それ以上くだらないことを言ったら、追加の課題を出すわよ」
「それなら、あと少しだけ言ってもいいですか?」
「なぜ喜ぶのよ」
クラリッサは頭痛をこらえるように額を押さえた。
彼女の悪評が消えない理由の残り半分は、本人の言い方にある。
しかし、それを指摘できる者は少なかった。
◇
学院を出た馬車は、王都の西にある小さな孤児院へ向かった。
クラリッサが到着すると、二十人ほどの子どもたちが庭に並んでいた。
「クラリッサお姉さま!」
「こら、走らないの。転ぶわよ」
言い終える前に、一番小さな男の子が石につまずいた。
クラリッサは素早く抱き留める。
「まったく。だから言ったでしょう」
「えへへ」
「笑ってごまかさない」
男の子は、彼女の胸元に顔を埋めた。
高価なドレスに、泥のついた手形がくっきりと残る。
院長が慌てて駆け寄った。
「大変申し訳ございません!」
「構わないわ。この程度、洗えば落ちるでしょう」
クラリッサは男の子を地面に下ろした。
「でも、次からは走らないこと。約束できる?」
「うん!」
「よろしい」
彼女が指を鳴らすと、従者たちが大きな籠を運んできた。
中には焼き菓子、絵本、毛布、薬、それから木製の玩具が詰まっている。
子どもたちは歓声を上げた。
「なぜ木剣が十二本もあるのですか?」
エマが尋ねる。
「この前、取り合いになっていたでしょう」
「お嬢様が、一人一本ずつ用意するとおっしゃったのですね」
「違うわ。戦力を均等に配分しただけよ」
「なるほど」
「納得したふりをしないで」
その後、クラリッサは子どもたちと二時間を過ごした。
絵本を読み、算術を教え、破れた服を見つけては院長に新しい布を渡した。
最後には木剣を持たされ、子どもたち十二人を相手に戦うことになった。
「覚悟して、悪の女王!」
一人が叫ぶ。
クラリッサは木剣を構え、不敵に笑った。
「よくってよ。全員まとめてかかってきなさい!」
悪の女王は強かった。
五分後、十二人の小さな勇者たちは庭に転がっていた。
「大人げない戦い方でございました」
エマが言う。
「勝負の厳しさを教えただけよ」
「お嬢様、もう一回!」
「今度は負けないから!」
子どもたちが次々と立ち上がる。
クラリッサは黒い扇を広げ、高らかに笑った。
「何度でも挑みなさい。返り討ちにしてあげるわ!」
夕暮れの庭に、彼女の笑い声が響いた。
それは悪役令嬢にふさわしい、実に見事な高笑いだった。
◇
屋敷へ戻ると、クラリッサは自室の長椅子に倒れ込んだ。
「疲れたわ」
「本日もお忙しい一日でございましたね」
エマが温かい紅茶を用意する。
「領地の陳情書を片づけ、ドレスを仕立て、リリア様の勉強を見て、孤児院では十二人のお子様を相手に大立ち回り。たいへん立派な悪役令嬢ぶりでございました」
「最後のせいで腕が痛いのよ」
「明日は筋肉痛ですね」
「明日の予定は?」
「朝九時より、ご領主様の代理として議会へご出席。その後、学院で王太子殿下との合同演習がございます」
クラリッサの表情が曇る。
「王太子と?」
「はい」
「では、仮病を使うわ」
「健康そのものでございます」
「急に熱が出る予定よ」
「体温計を偽装なさいますか」
「あなた、時々私より悪いわね」
エマは上品に微笑んだ。
机の上には、学院の生徒から届いた匿名の手紙が置かれていた。
クラリッサが封を切る。
中には、たった一行だけ書かれていた。
『悪役令嬢クラリッサは、今日も孤児院で子どもたちを脅していた』
その下には、別の筆跡で小さく言葉が付け足されている。
『でも、みんな笑っていた』
クラリッサは、しばらく手紙を見つめた。
やがて丁寧に折りたたみ、机の引き出しへしまう。
「捨てないのでございますか?」
「証拠品として保管するだけよ」
「何の証拠でしょう」
「私に根拠のない噂を流した者を、いつか必ず見つけ出すための証拠よ」
「見つけたら、どうなさいます?」
クラリッサは紅茶を一口飲んだ。
窓の外では、王都の明かりが星のように瞬いている。
「そうね」
彼女は悪役らしく目を細めた。
「文章が下手だと、徹底的に添削してあげるわ」
エマが吹き出す。
「何がおかしいの」
「いいえ。噂どおり、たいへん恐ろしいお方だと思いまして」
「当然でしょう」
クラリッサは胸を張った。
明日もきっと、面倒なことが山ほど待っている。
壊れた橋。
終わらない書類。
計算の苦手な友人。
世間知らずな王太子。
遠慮を知らない孤児院の子どもたち。
そして、彼女を悪役令嬢と呼ぶ無責任な噂。
それでもクラリッサは、すべてを片づけるだろう。
美しく装い、背筋を伸ばし、誰にも感謝されなくても。
少々きつい言葉と、誰よりも細やかな心遣いを武器にして。
なぜなら、悪役令嬢は今日もお忙しいのだから。




