浮気癖のDV夫をゾンビ化する食事を与えて廃人にしてやったのに、何かおかしい事が起きている件について
ねえ、あなた。
聞こえてる? ……ううん、どうせ聞いてないよね。いいの。今日だけは、最後まで、そこにいて。
お味噌汁、冷めるよ。早く飲んで。向かいのお椀から、まだ湯気が立ってる。壁の時計、やけに響くね。今日はだしをちゃんととったの。かつおと昆布で、朝から。あなたは気づかないだろうけどね。あなたはいつもそう。何を出しても、うまいともまずいとも言わない。ただ黙って、平らげて、出ていく。
責めてるんじゃないの。ほんと。ただ、喋りたいだけ。
声に出したら、また手が飛ぶもの。だからずっと、こうやって、話だけでも聞いて。どうせ、スマホから顔も上げないあなたには、聞こえないんだから。
覚えてる? 結婚したばっかりのころ。あなた、わたしの卵焼き、おいしいって言ってくれたよね。甘いのが好きだって。うれしくてさ、次の朝も、その次の朝も焼いたんだ。あなたが「また卵焼きか」って顔をするまで。
いつからだったかな。あなたが笑わなくなったの。
最初に手が出たのは、二年目の秋。味噌汁が薄いって、お椀が飛んできた。次は茶碗。そのうち、手のほうが早くなった。頬を張られて、天井がぐらっと回ったのを覚えてる。そのときわたし、なんて言ったと思う。「ごめんなさい」だよ。殴られたのに、こっちが謝ったの。
おかしいよね。自分でもそう思う。
でもあのころは、まだあなたのこと好きだったから。優しかったあなたが、どこかにまだいると思ってたの。疲れてるだけ、仕事がつらいだけ、わたしがしっかりすれば元に戻るって。ばかみたい。戻るわけなかったのにね。
女の匂いをさせて帰るようになったのは、去年の夏。甘ったるい香水。隠しもしなかった。隠す気もなかったんでしょ。わたしなんか、どうでもよかったから。
一回だけ聞いたの。ほかに好きな人がいるの、って。そしたらあなた、鼻で笑ってさ。「気づいてないとでも思ってたのか」って。
あのとき初めて思ったよ。この人、死なないかな、って。
*
でもね、逃げられなかった。
実家? 父も母も、もういない。お金? わたしの口座、結婚してからずっとあなたが管理してるじゃない。仕事なんて、十年も専業主婦してた女に、いまさら何ができるの。
なにより、あの子がいるから。今日は塾の日で、帰りは八時すぎ。寝る前に必ず豆電球をつけたがる、あの子が。
離婚したいって言ったとき、あなた、言ったよね。「出てくなら子供は置いていけ。無職の女に親権なんか取れると思うな」って。ほんとだと思った。あなたには金も、体裁も、弁護士の知り合いもいる。わたしには何もない。
だから連れて逃げた。一回だけ。あの子の手を引いて、始発の駅まで。そしたら追いかけてきたよね。ホームで腕つかまれて、耳元で言われた。「次やったら、どこに隠れても見つけて殺す」って。冗談じゃなかった。目でわかった。あなたのあの目、わたし知ってるもん。
それで、考えたの。ずっと。頭がおかしくなるくらい。
殺したら? だめ。捕まったら、あの子が独りになる。母親が人殺しだなんて、一生あの子について回る。逃げるのは、もうやった。追ってくる。あなたは絶対追ってくる。別れるって言ったって、あの子は。……あの子を取られる。
どこにも行けなかった。ぜんぶ、扉が閉まってた。
そんなとき、聞いちゃったの。ママ友のランチ会でね。奥さんたちが、声をひそめて話してるのを。
*
あの粉の話、知ってる?
旦那が急に、人が変わったみたいにおとなしくなる粉。手を上げてた亭主が、借りてきた猫みたいにさ。飲ませると、ぼうっとして、口ごたえもしなくなって、言われたことだけ黙ってやるようになるんだって。
みんな笑ってた。「うちのにも飲ませたい」って。冗談で。でもわたし、笑えなかった。
だってあれ、ほんとにあるんだもの。エジプトから流れてきたっていう、占い師みたいな老婆が売ってるの。この街のどこかに、ひっそりと。何が入ってるかなんて、その婆さんも教えてくれない。得体の知れない草の汁だとか、墓場の土だとか、聞くたびに話が変わる。ただ、殺すものじゃない、黙らせるものだって、それだけは、はっきり言った。一度にたくさんはだめ、少しずつなら平気だ、って。苦みは先に消えるから、って。量さえ間違えなきゃ、人は死なない。死なないの。ただ、生きたまま、静かになる。
抜けにくいらしいよ。一度にどっさり盛らなくても、毎日ほんの少しずつ混ぜれば、いつのまにか効くって。相手に気づかれないように、じわじわ。
わかる? 殺すんじゃないんだよ。
その人は生きてる。だから罪にならない。お医者さんだって、「歳のせいか、気の病でしょう」って言うだけ。家も、給料も、あの子の父親も、そのまま残る。ただ、殴る手がなくなるだけ。女のところへ行く足が止まるだけ。
これしかないって思った。ほかに道がないんだもの。
……聞いてる? 聞いてないね。スマホばっかり。いいよ、別に。どうせわたしの声なんか、あなたには届かない。このごろは、自分の声まで、どこか遠くから聞こえる気がするの。
*
でも、こわかった。量を間違えるのが。
多すぎたら、あなたは死ぬ。死なせたらだめ。捕まったら、あの子が。少なすぎたら効かない。効かなきゃばれる。ばれたら、今度こそ本当に殺される。
おとなしくなって、でも死なない。そのぎりぎりのさじ加減を、探すしかなかった。
だから、毎晩、味見した。
飲んだんじゃないよ。箸の先にちょんとつけて、舌にのせて、すぐ吐き出すだけ。味噌に紛れてるか、あなたが気づかない味か、それだけ確かめて。婆さんも言ったでしょ、少しずつなら平気だって。だから、大丈夫だと思ってた。ほかに試す相手なんて、いないもの。手帳に線を引いたよ。今日はここまで、明日はもう少し。わたしの舌でこれなら、体の大きいあなたには、もう少しだけ。あなたの椀に入れる分量を、間違えないように。あなたを殺してしまわないように。
毎晩だよ。あなたが女のとこから帰ってこない夜に、台所でひとりで。
……ごめん、お箸落としちゃった。このごろ、手が言うことをきかないの。疲れてるのかな。
どこまで話したっけ。あ、そう、量の話。ちょうどの量を探してた、って。
わたし、けっこう賢いでしょ。あなたがいつも「頭の悪い女だ」って言ってた、そのわたしがさ。……ごめん、自慢みたいだね。でも誰かに言いたかったの。ずっとひとりで抱えてたから。
正直に言うとね。こわかったのは、量のことだけじゃないの。うまくいったとき、わたし、せいせいするんじゃないかって。あなたがぼうっと座ってるのを見て、ざまあみろって笑う自分がいるんじゃないかって。そういう自分が、いちばんこわかった。
それでもやめられなかった。あの子の頬の、あざを見てからは。
あなた、この間、あの子にも手を上げたでしょう。宿題ができてないって。あのとき、息が止まって、鍋の柄を握ったまま動けなかった。あんな小さい頬に、あなたの手が。
あのとき決めたの。もう待たない。今夜、仕上げる。今夜の味噌汁に——
*
……あれ。
手がしびれてる。舌も。箸を持とうとしても、指が曲がらない。
毎晩、舐めてた。ちょっとずつなら、平気だと思ってた。
……ああ。そういうこと。
ちょっとずつが、たまってたんだ。わたしのなかに。味見のときかな。
おとなしくなったの、あなただけじゃなかった。わたしのほうもだったんだ。
誰も気づかないよ。だって、おとなしい奥さんなんて、みんないいことだと思うもの。文句を言わない。口ごたえしない。黙ってご飯を作る。
ねえ、あなた。わたし今、ちゃんと喋れてる? 声、出てるかな。
……あなたが、スマホを置いた。
こっちを見てる。ひさしぶり。何年ぶりだろう、あなたがわたしを見るの。
口を動かしても、もう、音にならない。あなたは、それを見て、ちょっと笑った。
「……やっと静かになったな」
うれしそうに。ほんとに、うれしそうに。
……よかったね。ほしいものに、なれて。
あなたはお箸を取った。冷めないうちにって、わたしが言ったから。朝からだしをとった、今夜の味噌汁。仕上げに、ちょうどの量を入れておいた、あれを。
やめて、とはもう言えない。指が動かない。声も出ない。
あなたがお椀を口に運ぶ。
ずず、って音がした。
ねえ。
これから、ふたりして、ずいぶん静かになるね。
あの子が帰ってくるまで、あと二時間。
それまでに、どうか、誰か。




