第5話「無視」
音は、まだ鳴っている。
“カッ”
近い。
“カッ”
遠い。
同時に存在する。
だが——
誰も振り向かない。
ななは歯を食いしばる。
「……見るな、見るな……」
視線を落とす。
怖い。
本能的に、確認したくなる。
「どこにおるか知りたい」
その欲求を、押し殺す。
ゆたかが低く言う。
「それが一番あかん」
一拍。
「見た瞬間、距離が成立する」
神父が静かに補足する。
「観測=固定です」
人面犬が笑う。
「見なきゃ“そこにいる”って確定しねぇってことだ」
“カッ”
音が真横で鳴る。
ななの肩がビクッと揺れる。
だが、振り向かない。
「……無視や、無視……」
ゆたかが言う。
「正解や」
一拍。
「関わったら負けや」
その瞬間。
空気が少しだけ軽くなる。
“カッ”
音が遠くなる。
神父が言う。
「干渉が弱まっています」
ななが息を吐く。
「ほんまに……効いてる……?」
人面犬が鼻を鳴らす。
「完全じゃねぇけどな」
“カッ”
今度は前。
だが誰も見ない。
存在を認めない。
ただ、歩く。
ゆっくりと。
桃太郎はそのまま進む。
無心で。
その周囲だけ、空間が安定している。
ゆたかが呟く。
「無心と無視」
一拍。
「これが対処やな」
ななが小さく笑う。
「戦ってへんやん……」
神父が言う。
「戦闘ではありません」
一拍。
「回避です」
その時だった。
“カッ!!”
音が急に強くなる。
近い。
明確に、近い。
ななの呼吸が乱れる。
「……あかん、来てる……」
視界の端に、白いものが入る。
細い。
長い。
歪んだ“それ”。
ななが反射的に顔を向けそうになる。
だが——
止める。
目を閉じる。
「……見ぃひん……」
ゆたかが言う。
「そのままや」
神父が続ける。
「観測しないでください」
人面犬が低く笑う。
「いい根性してるじゃねぇか」
“カッ”
音が、すぐ後ろで鳴る。
だが——
何も起きない。
接触しない。
存在が“成立しない”。
なながゆっくり目を開ける。
振り向かないまま言う。
「……おるんやろ?」
誰も答えない。
だが、確実に“いる”。
それでも——
何も起きない。
ゆたかが静かに言う。
「それでええ」
一拍。
「関係持たんかったら、向こうも何もできん」
神父が補足する。
「接触条件が満たされていません」
人面犬が笑う。
「無視されると成立しねぇ怪異か」
空気が少しずつ軽くなる。
歪みが薄れていく。
“カッ”
音が遠ざかる。
今度は本当に遠い。
ななが息を吐く。
「……終わり?」
ゆたかが首を振る。
「まだや」
一拍。
「ただ、“来れんようになった”だけや」
夜は静かに戻り始める。
だが完全ではない。
どこかにまだ“ズレ”が残っている。
ななが小さく呟く。
「これ……おるんやんな、まだ」
ゆたかが答える。
「せや」
一拍。
「おるけど、関われへん」
神父が静かに言う。
「共存状態です」
人面犬が笑う。
「いいじゃねぇか」
一拍。
「それで生きてけるならな」
遠くで、最後に一度だけ音が鳴る。
“カッ”
それはもう、脅威ではなかった。
ただの“現象”だった。




