Chapter 8:重力の暴君
カイルは城壁の最上段にある監視塔に立ち、手すりをきつく握りしめていた。朝霧が立ち込める荒野の向こうを見つめる。喉が渇き、心臓が早鐘を打つ。隣に立つテオドールが、無言で眼鏡の位置を直した。その額には脂汗が滲み、指が白くなるほど力んでいる。
「……来たな」
風が吹き、霧が晴れていくにつれ、その「震源」が姿を現した。カイルの口から、乾いた絶望が漏れる。
「嘘だろ……。あんな数、どうやって……」
地平線を黒く塗りつぶすもの。それは雲ではなく、軍隊だった。整然と並んだ数千の重装歩兵。彼らの足音が重なり合い、巨大な地鳴りとなって砦を揺らしているのだ。歩兵だけではない。それらを守るように左右に展開する魔導騎兵団。馬の脚部は鉄のようなもので覆われ、蒸気を吹き出しながら嘶いている。
帝国の主力部隊、総勢およそ三千。対するアルカディア軍は、傷ついた兵士や動員された農民を含めても三百に満たない。十倍の戦力差。だが、カイルを戦慄させたのは数ではなかった。敵軍の中央、一際巨大な空間を占有して歩く、ある「存在」だった。
視界の端で、赤い光が点滅し続けている。
その男は、騎乗せず、徒歩で進軍していた。全身を漆黒のフルプレートアーマーで覆った巨漢。身長は優に二メートルを超えているだろう。兜からは捻じれた二本の角が突き出し、背中には巨大な突起が見える。彼が歩くたびに、足元の地面がメリメリと悲鳴を上げて陥没していた。ただ体重が重いのではない。彼の周囲だけ、空間がまるで水に映った自分の姿のように歪み、背景の景色がねじれて見える。
「あれが敵将……『黒騎士ヴォルグ』」
テオドールが呻くように言った。
「空間が歪んで見える。……カイル、君の目でも同じように見えているか?」
赤い点滅光が邪魔をしている視界でカイルは目を凝らす。ヴォルグの姿が網膜いっぱいに拡大される。彼が肩に担いでいるのは、身の丈を超える巨大なウォーハンマーだった。無骨な鉄塊に見えるが、そのハンマーヘッド部分には、まるで心臓のように赤黒く脈動する宝石が埋め込まれている。
「あんなので叩かれたら、城壁ごと潰されちゃう」
まるでカイルの恐怖が伝わったかのように、進軍していたヴォルグが足を止めた。距離はまだ五百メートル以上ある。弓矢さえ届かない距離だ。だが、ヴォルグはゆっくりとハンマーを振り上げた。号令はない。その動作そのものが、開戦の合図だった。
ドォン!!
ハンマーが地面に叩きつけられた瞬間、世界が震えた。それは比喩や詩的な表現ではなかった。砦の分厚い石壁が、嵌め込まれた窓ガラスが、そして大地そのものが、腹の底に響くような低周波の振動によって、物理的に震え始めたのだ。ズズズ……ズズズ……。その不快な律動は、恐怖という冷たい水を浴びせた。目に見えない衝撃波が大地を走る。最前線に展開していたアルカディアの歩兵たちが、悲鳴を上げる間もなく吹き飛ばされる。地面が波のように隆起し、人は木の葉のように舞い上がった。それは「攻撃」というより「災害」だった。鎧も、盾も、何の意味もなさない。ただの衝撃波だけで、数十人の兵士が宙を舞い、地面に叩きつけられて動かなくなった。
「撃てェェェッ!」
砦側からも、悲鳴に近い怒号が飛ぶ。城壁の銃眼から、風を切る音と共に、青白い光弾と鉄の矢が雨のようにヴォルグへと降り注ぐ。当たればただでは済まない量だ。どんな堅牢な鎧でも、あの集中砲火を浴びれば蜂の巣になるはずだ。
しかし。 それらはヴォルグに届くことさえなかった。
「無駄だ、羽虫ども」
ヴォルグの低い声が、拡声機能によって戦場全体に響き渡る。腹の底に響くような、不快な重低音。 ヴォルグの周囲、半径十メートルの空間に入った瞬間、矢も光弾も、吸い込まれるように地面へと墜落したのだ。無力化された矢が虚しく積み重なっていく。絶対的な防御。いや、防御ですらない。彼の周囲には、通常の何十倍もの重力が常に展開されているのだ。矢は空気を切り裂く前に、自らの重さに耐えきれず落ちる。質量のないはずの光弾さえも、空間の歪みに捕らわれて拡散してしまう。
「貴様らの錆びついた武器では、我が『重圧』の結界は破れぬ。……消え失せろ」
ヴォルグが再びハンマーを構える。今度は地面ではない。砦の城門に向けて、砲口を向けるように水平に構えた。ハンマーに埋め込まれた宝石が激しく発光し、周囲の空間が赤黒く歪み始める。大気が悲鳴を上げ、光が吸い込まれていく。
「次のは、さっきのよりやばい!」
カイルが叫ぶと同時に、空間がねじ切れる音がした。目に見えない重力の塊が、砲弾となって砦に直撃する。音よりも速く、視認できない破壊の奔流。
「結界を展開せよ!」ガイウスの指示のもと、彼が昨日整備した、動力室の結晶が唸りを上げる。砦全体を包むように、サファイアブルーの光のドームが展開された。
天地がひっくり返るような衝撃。砦全体が悲鳴を上げ、カイルは手すりにしがみついた。隣にいたテオドールとレオンもバランスを崩して倒れ込む。耳がつんざけるような破砕音。城壁の一部にヒビが入り、粉塵が舞う。 だが――光の膜は割れなかった。
カイルが「詰まり」を取り除き、流れを最適化した結界は、災害級の重力波をギリギリで受け流し、霧散させたのだ。光のドームの表面には、着弾の衝撃で波紋が広がっていたが、その輝きは失われていない。
「なっ……!?」驚愕したのは、攻撃したヴォルグの方だった。
「我が一撃を防いだだと……? アルカディアのポンコツに、これほどの出力があるはずが……」
一瞬の静寂。そして爆発的な歓声。
「耐えた……! 耐えたぞ!」 「結界が生きている! まだ戦えるぞ!」 「ガイウス様の加護だ! 我々の砦は落ちない!」
砦の兵士たちから、どっと歓声が上がる。それは絶望の淵で見出した、一筋の希望だった。兵士たちは知らない。それがカイルという少年の手によるものだとは。彼らは口々に指揮官の名を叫び、消えかけた勇気を奮い立たせようとしていた。
だが、カイルの表情は晴れなかった。彼の耳に届く声は悲惨な現実を伝えていた。
『助けて…もう1回しか……』
「……喜んでる場合じゃない」
カイルは脂汗を拭った。一発は防げた。だが、ヴォルグは無傷だ。そして彼には、まだ底知れない力が隠されている。
「……へぇ」服の汚れを叩きながら喧騒の中、レオンだけが冷めた目でその光景を見ていた。
彼は城壁の縁に腰掛け、退屈そうに足をぶらつかせている。
「やるじゃん、カイル。いい仕事だ。……おかげで、整った」
「整ったって……何が?」
「見ろよ。盾が割れなかったせいで、中身が出ていかざるを得なくなった」
レオンの言葉通りだった。重力砲撃を防がれたヴォルグは、苛立ちを露わに再びハンマーを振り上げていた。次の一撃が防げるとは限らない。いや、カイルの根拠のない予測では、確実に次は瓦解する。砦に立て籠もれば、間違いなく押し潰されるだけだ。座して死を待つか、打って出るか。指揮官の選択は一つしかなかった。
ギギギギ……。 城門が開く重苦しい音が響いた。 そこから飛び出したのは、銀色の軽装鎧に身を包んだ、決死の突撃部隊だった。先頭に立つのは、輝く剣を手にしたガイウス。
彼は感じていたのだ。結界に次ぎがもうないことを。そして、兵士たちの恐怖を払拭するためには、指揮官自らが捨て石となって先陣を切るしかないことを。先祖が伝えた騎士道精神の塊のような、あまりにも勇敢で――そして無謀な賭け。
ガイウスは愛剣を高く掲げ、全軍に向けて叫んだ。その声は、震えてはいなかった。悲壮な覚悟だけが、凛と響いていた。
「全軍、私に続け! 正義は我にあり!」




