Chapter 7:錆びついた正義
執務室を飛び出したカイルは、当てもなくに砦の回廊を歩いていた。石造りの床を叩く自分の足音だけが、やけに大きく響く。脳裏に焼き付いているのは、窓ガラスに額を押し付け、音もなく嗚咽していたガイウスの背中だ。先祖の言葉に縛られ、最も多くの民を救うために、一部の民を切り捨てる決断を強いられ続ける青年。その苦悩を知ってしまった今、カイルの胸には鉛のような重苦しさが沈殿していた。
この世界は狂っている。誰もが救いを求めているのに、正しいことをしようとする人間ほど、深く傷つき、すり減っていく。
そんな答えが出ない問いに心が囚われたその時だった。湿った石壁の向こう、地下へと続く階段の底から、微かな「声」が聞こえた気がした。人の声ではない。もっと高く、硬質で、そして今にも張り裂けそうな切迫した共鳴音。
(……呼んでる?) カイルは足を止めた。耳鳴りではない。トクン、トクンと何かが脈打ち、カイルの鼓動とシンクロするように熱を帯び始めている。
(助けて……苦しい……)頭の中に直接響く、断末魔のような声。カイルは何かに導かれるように、地下への階段を降りていった。
辿り着いたのは、砦の最下層。分厚い鉄扉に閉ざされた「動力室」だった。扉のわずかな隙間からは、焦げたような異臭と、肌を刺すほどの熱気が漏れ出している。カイルが重い扉を押し開けると、そこには絶望的な光景が広がっていた。
部屋の中央、吹き抜けの空間を貫くように、巨大な水晶の柱が鎮座している。エーテルジェネレーター。この砦の心臓部であり、防衛結界を生み出す唯一の源。だが、その輝きは風前の灯火だった。かつては澄んだ青色だったであろう光は濁り、ブーン……ブーン……という不整脈のような振動を放ちながら、苦しげに震えている。
「ダメだ、光が弱まる一方だ!」 「循環が詰まっている! だが、どこが悪いのか分からん!」
柱の周囲では、油にまみれた数人の老技師たちが、半狂乱で叫び声を上げていた。彼らはスパナや工具を持つ代わりに、古めかしい経典を握りしめ、聖油を柱に塗りたくっている。
「おお、精霊よ! 機嫌を直したまえ!」 「鎮まれ、荒ぶる光よ! 我らの祈りを聞き入れたまえ!」
祈り。それが彼らに残された最後の技術だった。1600年の時を経て、魔道技術は失われ、形骸化した宗教儀式だけが残ったのだ。だが、そんな祈りが通じるはずもない。
ドクンッ!! カイルが感じていた何かが、これまでで一番強く脈打つ。視界が歪み動力室の風景に、半透明の光の線が重なる。
(……熱い……息ができない……) (……流して……誰か、この澱みを……)
カイルの目には、クリスタルの表面に浮かび上がる無数の「赤い光の結び目」が見えていた。それはまるで、巨人の全身を巡る血管が複雑に絡まり合い、血流が止まって壊死しかけているようなイメージだった。あちこちで光が逆流し、行き場を失った熱が悲鳴を上げている。カイルは、魔法なんて知らないし使えない。A.C.3517年の学校では、失われてしまった技術だと物語の中でしか聞いたことしかない。けれど、セリアの槍を直した時のように不思議と恐怖はなかった。目の前に提示されたその「結び目」は、幼い頃に夢中になった「あやとり」や「知恵の輪」に似ていたからだ。引くべき糸、緩めるべき輪が、直感的に分かる。
「……どいてください」カイルはふらりと歩み出た。熱気が顔を焼くが、気にならない。
「おい、子供! 何をする! そこは危険区域だぞ!」
技師長らしき男が怒鳴り、カイルの腕を掴もうとする。だが、カイルはその手をすり抜け、クリスタルの前に立った。
「……痛いよね。ごめんね、すぐに楽にしてあげる」
カイルはそっと右手をかざした。指先が、空中に浮かぶ「赤い結び目」の一つに触れる。実体はないはずなのに、確かな手応えがあった。張り詰めた糸のテンションを感じる。
カイルは指を動かした。優しく、絡まった糸を一本一本ときほぐすように。無理に引っ張るのではなく、流れが本来行きたがっている方向へ、そっと導いてやるように。
――ここを緩めて、こっちを通して。 ――大丈夫、もう通れるよ。
カイルが指を動かすたびに、結晶を覆っていたどす黒い霧が、嘘のように晴れていく。不快な振動がスッ……と収まり、代わりに「ヒュオォォ……」という、清らかな風のような吸気音が響き始めた。
ヴォォォン……!
次の瞬間、部屋の照明が、いや、砦全体の明かりが、カッと力強く輝きを取り戻した。死にかけていた心臓が、再び力強く脈打ち始めたのだ。結晶は、まるで深呼吸をしたかのように、美しいサファイアブルーの光を湛えて安定した。
「な……何をしたんだ……?」
腰を抜かしていた技師長が、震える声で尋ねた。彼の目には、カイルが何もない空中で指を踊らせただけで、暴走するエネルギーを鎮めたように見えていた。「我々が何年もかけて御せなかった荒ぶる精霊を、指先一つで……。き、君は、古代の賢者なのか?それとも精霊使いなのか?」
「……ううん」カイルは汗を拭い、はにかんだ。
「詰まってたものを、流してあげただけです。……流れが滞って、苦しがってたから」
カイルは自分の掌を見つめた。まだ指先に、あやとりをした後のような心地よい痺れが残っている。 レオンは、その力で敵を破壊した。 自分は、この力で守るものを修復した。破壊と再生。もし、レオンがその強大な力で世界を壊そうとするなら――自分は、それを直すことができるのかもしれない。それは、カイルがこの世界に来て初めて、自分の「役割」を明確に自覚した瞬間だった。
「……見事だ」
背後から、静かな声がした。振り返ると、いつの間にかガイウスが入り口に立っていた。 彼は復活したクリスタルの輝きに照らされながら、驚愕と、そして深い哀しみが入り混じった瞳でカイルを見つめていた。
「我が軍の魔導師たちが束になっても直せなかった『心臓』を、こうもあっさりと……。やはり君たちは、この時代に選ばれた人間なのだな」 「ガイウスさん……」
ガイウスは歩み寄り、クリスタルの表面にそっと手を触れた。その横顔には、安堵よりも深い憂色が張り付いていた。「……私は、無力だ。この光を、この砦を守るために、どれだけの部下を死なせ、どれだけの土地を捨ててきたか」
彼はカイルに向き直り、静かに、しかし切実に語り始めた。
「カイル君。君の力があれば、明日の戦いで砦の結界は保つだろう。……だが、それは時間稼ぎにしかならん」
「え……?」
「結界はあくまで『盾』だ。敵将の重力を破る『矛』がなければ、我々はジリ貧だ。守り続けるだけでは、勝てない」
矛と盾。 カイルは盾を直した。だが、敵を貫く矛を持っているのは――。
「……分かっています」 カイルは俯いた。「レオンの力が必要なんですね」
「ああ。……悔しいがな、セリアの報告通りだとすれば」少しの間の後、ガイウスは自嘲した。
「私の正義は、もう錆びついているのかもしれん。……だが、民を守れるなら、私は悪魔の手でも借りよう。……民を犠牲にし続ける王よりも民を救う悪魔の方がまだマシだろう」
*
その夜。決戦を数時間後に控えた砦の中庭は、異様な空気に包まれていた。兵士たちが、いくつもの焚き火を囲んでいる。だが、そこに会話はない。誰もが明日の死を予感し、押し黙って炎を見つめている。 その沈黙は、恐怖というよりも、諦めに近かった。
そんな静寂を破るように、一人の少年が輪の中に現れた。レオンだ。彼は倉庫から勝手に持ち出した高級ワインの瓶を片手に、兵士たちの間に割り込んだ。
「よぉ、辛気臭い顔してんな。葬式の予行演習か?」
「……あの少年の連れか」焚き火の向こうから、隻腕の古参兵バルトが睨みつけた。だいぶん飲んでいるのだろうその目は充血し、酒の酔いで据わっている。
「ふざけるな。俺たちは明日死ぬんだぞ。……お前らみたいな子供には分からんだろうがな。もう一人の少年にも言ったが逃げるのなら今の内だ。ここは地獄になる」
だが、レオンは悪びれもせず、バルトの隣にどかっと座り込んだ。そして、ラッパ飲みしたワインをバルトに差し出す。
「死ぬ? 誰が?」 レオンはニヤリと笑った。
「あんたらが死ぬのは、弱いからじゃない。指揮官が『勝つ気がない』からだ」
その言葉に、周囲の兵士たちが色めき立つ。
「貴様! ガイウス様を侮辱するか!」 「事実だろ?……カイルとの会話聞いてたぜ、おっさん。お前の村、見捨てられたんだってな」
レオンの視線がバルトを射抜く。
「ガイウスは立派だよ。『大局のため』に『小さな犠牲』を選ぶ。……だがよ、選ばれた方はたまったもんじゃねぇ。お前らの家族も、次は薪としてくべられる番かもしれないぜ?」
兵士たちの顔が曇る。否定できなかった。彼らの誰もが、「次は自分の番かもしれない」という恐怖を抱えていたからだ。レオンは巧みに、彼らの心の傷口に「毒」を垂らしていく。それは、彼らが心の奥底で感じていたガイウスへの不信感を肯定し、正当化する甘美な毒だった。
「俺なら、そんな真似はしねぇ」レオンは腰の剣――ヴォルグの部下を瞬殺したクリスタルの剣――を抜き放った。刀身が焚き火の炎を反射し、妖しく輝く。その輝きは、兵士たちの濁った瞳を照らし出した。
「力がありゃあ、選ぶ必要なんてねぇんだよ。村も、砦も、全部守って、敵を皆殺しにすればいい。……簡単な話だろ?」
「そ、そんなことが……できるのか?」バルトが、震える声で尋ねた。彼の瞳から、ガイウスへの忠誠心が消えかけていた。代わりに宿り始めていたのは、圧倒的な力への渇望だ。理屈や正義じゃない。ただ、この悔しさを晴らしてくれるなら、悪魔にだって従いたいという衝動。
「できるさ」 レオンは自信たっぷりに頷き、バルトの肩に手を置いた。
「俺には『力』がある。……分かるか? 時代が『交代しろ』って言ってんだよ」
レオンは立ち上がり、剣を掲げた。
「明日、見てな。俺が本当の『戦い』ってやつを見せてやる。我慢も、犠牲もいらない。ただ奪うだけの、最高の勝利をな」
ゴクリ。 バルトが、そして周囲の兵士たちが唾を飲み込む音が聞こえた。焚き火の炎が揺れる。 兵士たちの瞳に、熱が宿る。それは希望の光ではない。狂気じみた熱狂の火種だ。ガイウスの「正しさ」は苦しい。耐え忍ぶことを強いる。だが、レオンの「暴力」は痛快だ。すべての憂鬱を吹き飛ばしてくれると約束している。
遠くからその様子を見ていたテオドールは、身震いした。レオンの影が、焚き火の光で長く、黒く伸び、兵士たちを飲み込もうとしている。彼は兵士たちを救おうとしているのではない。自分の野望のための「手駒」として、彼らの心を掌握したのだ。
夜が明ければ、戦いが始まる。少年たちの選択と行動が歴史の転換点となっていく。




