Chapter 6:砕けた理想
「詳しくは、セリアから話を聞いてからだ。客人に部屋を宛がう。そこで少し待っててくれ」
そう言われ案内されたのは、砦の上層階にある士官用の客室だった。石造りの壁はひび割れ、隙間風が吹き込むそこは、お世辞にも快適とは言えなかったが、下の広場に広がる惨状に比べれば天国のような場所だった。
運ばれてきた夕食は、水で薄めたような具のないスープと、石のように硬い黒パン、そして少しばかりの乾燥肉だった。これが、この砦における最高級の待遇なのだ。
「……ひでぇメシだな」レオンは黒パンをスープに浸してふやかしながら、不敵に笑った。
「ま、これがあの『英雄様』の実力ってわけだ。国を守る軍隊が、満足に腹も満たせない。……見たかよ、カイル。あの兵士たちの目を」
カイルはスプーンを動かす手を止めた。 脳裏に焼き付いているのは、広場で見た兵士たちの虚ろな瞳だ。
「……元気がないように見えたね。みんな、疲れてるんだ」
「違うな」レオンは即座に否定した。
「あれは『疲れ』じゃない。『失望』だ。あいつらは指揮官を信じちゃいない。……ただ、他に逃げ場がないからここにいるだけだ。飼い殺しの家畜と同じさ」
テオが眼鏡を拭きながら、静かに口を挟んだ。
「レオンの言う通りかもしれない。……先ほど様子からもこの砦の兵士の士気は危険水域まで低下している。反乱が起きてもおかしくないレベルだ」
「だろ? 火種はあるんだよ」レオンは乾燥肉を齧り取ると、ギラギラとした瞳でカイルを見た。
「あいつらは飢えてるんだ。メシにじゃない。『勝利』にな。……綺麗事ばかり並べて負け続ける指揮官より、多少強引でも勝たせてくれる悪党の方が、今のあいつらにとっては魅力的に映るはずだ」
カイルは胸のざわつきを覚えた。レオンの言葉は、恐ろしいほど的確にこの場の空気を言い当てている。彼はこの状況を嘆いているのではない。剣を手に入れた時と同じようにどう利用して遊ぶのかを計算しているのだ。
「……僕は、少し砦の中を見てくるよ」いたたまれなくなり、カイルは席を立った。
「おいおい、迷子になるなよ。さっきのおっさんに絡まれたらどうすんだ」背後でレオンが笑う声を無視して、カイルは部屋を飛び出した。
*
夜の砦は、死んだように静かだった。廊下には等間隔に配置されたランプが埋め込まれているが、資源不足なのか明滅を繰り返し、頼りない光を投げかけている。カイルは宛もなく歩いた。冷たい石壁に触れると、指先にじっとりとした湿気と、錆びた鉄の粉がついた。
角を曲がった先、兵士たちの居住区画の手前で、人影を見つけた。壁にもたれかかり、酒瓶をあおっている男がいる。広場で「撤退」を嘆いていた、隻腕の古参兵――バルトだった。
「……ん? なんだ、昼間のガキか」バルトは濁った目でカイルを見上げた。酒の臭いがする。だが、それは質の悪い密造酒のようで、薬品のようなツンとした刺激臭が混じっていた。
「あ、あの……。こんな所で飲んでていいんですか?」カイルがおそるおそる尋ねると、バルトは鼻で笑った。
「構わねぇよ。どうせ明日には死ぬんだ。……最後の晩餐くらい、好きにさせろ」
バルトは義手代わりの布が巻かれた右肩を壁に押し付け、ズルズルと座り込んだ。 「お前ら、セリア様が連れてきた『適合者』なんだろ?……ハッ、運が悪いな。こんな沈みかけの泥船に乗せられちまって」
「泥船……ですか」 「ああ、そうだとも。……見てみろ、このザマを」バルトは左手で、自分の右肩を叩いた。
「俺のこの腕はな、去年の『渓谷防衛戦』で失くした。帝国の重装兵相手に、弾切れの魔導銃一本で殿を務めた勲章だ」
彼は酒瓶を傾け、喉を鳴らして飲み下す。
「あの時、俺たちは死ぬ気で戦った。砦を守るため、国を守るため、そして何より……故郷の村にいる家族を守るためにな」
バルトの声色が、急に低く、ドス黒いものへと変わった。
「だが……結果はどうだ? 昨日、俺の村は焼かれた」
「え……」 カイルは息を呑んだ。
「さっき話に出てた村のことですか? ……援軍は、間に合わなかったんですか?」
「間に合わなかったんじゃない!」
バルトが叫び、酒瓶を床に叩きつけた。ガラスの砕ける音が廊下に響き渡る。 酒の匂いがカイルの鼻の奥をツンと刺し込んだ。
「送らなかったんだ! ガイウス様は……あの『英雄』様は、援軍を出さなかった!」
バルトは激昂し、カイルの胸ぐらを掴み上げた。酒臭い息がかかる。その瞳には、涙が溢れていた。 「人が足りないだと? 砦のを維持するために、余計な犠牲は出せないだと? ふざけるな! ……俺たちが何のために手足を失ってまで戦ってきたと思ってる! 守るべき家族を見捨てて、何が『鉄壁の砦』だ!」
カイルは抵抗できなかった。バルトの怒りは、あまりにも正当で、そして悲痛だったからだ。ガイウスの判断は、軍事戦略としては正しい。砦が落ちれば、その背後にある王都まで一直線だ。多数を救うために、少数を切り捨てる。それは指揮官として必要な決断だ。だが、切り捨てられた「少数」にも、名前があり、家族があり、人生があった。
「……俺の娘はな、まだまだ未来があったんだ」バルトの手から力が抜ける。彼はその場に崩れ落ち、子供のように泣き崩れた。「手紙で……『パパが守ってくれるから怖くない』って……そう書いてあったんだぞ……。なのに俺は……ここで酒を飲んでる……」
カイルは何も言えなかった。かける言葉が見つからなかった。『建国神話』の本には、こんなことは一行も書かれていなかった。そこにあるのは、英雄アルトリウスの華々しい勝利と、民衆の歓喜だけ。 歴史の闇に葬られた、名もなき兵士たちの慟哭。それが、この世界の真実だった。
「……すまねぇな、関係ないあんた相手に管を巻いちまって」バルトは袖で涙を拭うと、這うようにして酒瓶の破片を拾い始めた。「行けよ。……ここは、もうすぐ地獄になる。逃げられるなら、今のうちに逃げとくんだな」
*
カイルは逃げるようにその場を離れたが、部屋に戻る気にはなれなかった。バルトの言葉が、呪いのように胸に残り続けている。『守るべき家族を見捨てて、何が鉄壁の砦だ』。 その問いかけの答えを、カイルは誰かに求めたかっただけだった。
足は自然と、砦の中枢――執務室へと向かっていた。部外者の自分を入れてくれるのかわからなかったが、ここに来るまで誰ともすれ違うこともなかったのは幸いだった。重厚な扉は少しだけ開いており、中から明かりが漏れている。
「……やはり、ダメですか」 中から聞こえてきたのは、セリアの沈痛な声だった。カイルは息を潜め、隙間から中を覗き込んだ。
執務室の中では、ガイウスが大きな戦略地図を広げ、苦渋の表情で頭を抱えていた。 地図の上には、無数の赤い駒と、ほんのわずかな青い駒が置かれている。その戦力差は、素人目にも絶望的だった。
「兵力と陣地の進行が止まらん。戦力差が限界を超えている」ガイウスの声は、砂を噛むように乾いていた。 「今の兵力では、砦前面に展開するのが精一杯だ。……側面にある避難民のキャンプまで範囲を広げれば、全体の強度が落ちる。そうなれば、一撃で全ての舞台・・・この国が終わる」
「ですがガイウス様! キャンプには近隣の村から逃げてきた数百人の民がいます!彼らを砦の外に置くなど、見殺しにするのと同じです!」セリアが食い下がる。彼女の騎士としての矜持が、非情な決断を拒絶しているのだ。
「……分かっている!」ガイウスが机を拳で叩いた。その音に、セリアが肩を震わせる。
ガイウスは立ち上がり、窓際へと歩み寄った。ガラスに映る彼の顔は、昼間見た時よりもさらにやつれ、まるで幽鬼のようだった。
「分かっているのだ、セリア。……私が彼らを見捨てれば、兵士たちの心が離れることも。私が『冷血漢』と罵られることも」
彼は窓の外、闇に沈む荒野を見つめた。そこには、バルトの家族が住んでいた村があったはずだ。今はもう、帝国の軍靴に踏み荒らされ、焦土と化しているだろう場所。
「だが、私は英雄ではない。ただの、無力な男だ」 ガイウスの声が震える。
「すべてを救う力など、神の所業だ。そんな力は私にはない。……何かを守るためには、何かを捨てねばならん。その『捨てる』役割を、誰かが背負わねばならんのだ。たとえそれが、人の道に外れるとしても」
カイルは見てしまった。窓ガラスに額を押し付け、嗚咽を漏らすガイウスの姿を。神話の英雄。輝ける建国王。だがその実体は、常に命の選択を握らされ続け、魂をすり減らした一人の青年に過ぎなかった。
彼の正義は間違っていない。砦が落ちれば、背後にある都も、国も滅びる。だからこそ、彼は涙を飲んで村を見捨て、兵士たちの恨みを一身に受けている。あまりにも真面目で、あまりにも誠実で――だからこそ、彼はこの乱世には「弱すぎた」。
「……誰だ?」気配に気づいたのか、ガイウスが涙を拭い、鋭く振り返った。
「あ、盗み聞きしてすみません。僕は……」カイルは慌てて姿を現した。
ガイウスはカイルの顔を見ると、ふっと力を抜き、疲れた笑みを浮かべた。
「……君、だったか。見苦しいところを見せたな」
「いえ……。あの、ガイウスさん」カイルは一歩踏み込んだ。
「本当に、勝算はないんですか? 村の人たちも、砦も、両方守る方法は……」
「あれば、とっくにやっている」ガイウスは首を横に振った。
「敵将ヴォルグの『重力制御』は、我が軍の決壊の天敵だ。重力波の干渉を受ければ、結界は紙のように引き裂かれる。……対抗するには、奴の重力を押し返すほどの力が必要だが、今のこの砦にはそんな力を扱える者はいない」
ガイウスは机の上の地図――赤い駒に埋め尽くされた盤面――を見つめ、呟いた。
「我が先祖は言った。『民を導き、正しき姿を示せと。』と。……今の私は、その言葉だけを実行しようとする哀れな道化だ。理想を語る資格すらない」
その言葉は重く、カイルの心に突き刺さった。彼に必要なのは、共に悩み、慰めてくれる理解者ではない。この理不尽な「詰み」の盤面を、ルールごとひっくり返してくれる圧倒的な「暴力」なのだ。そして、その力を持っているのは――自分ではない。
カイルの脳裏に、レオンの不敵な笑みが浮かんだ。『力がありゃあ、選ぶ必要なんてねぇんだよ』
レオンなら、この状況をどうするだろうか。おそらく、村も砦も関係なく、敵を全滅させることで全てを解決するだろう。それはガイウスには選べない、修羅の道だ。
「……夜も更けた。部屋に戻りなさい」ガイウスは背を向け、会話を打ち切った。
その背中は、砦のどの兵士よりも小さく、孤独に見えた。
カイルは執務室を後にした。廊下を歩きながら、彼は悟っていた。この砦は、帝国の攻撃を待たずして、すでに崩壊している。物語の英雄の時代は終わり、新しい、そして恐ろしい何かが生まれようとしているのだ。ーーーその胎動を、カイルは肌で感じていた。




