Chapter 5:鉄の墓標
鉛色の空が、どこまでも低く、重く垂れ込めていた。 戦場から続く荒涼とした大地を、四つの影が無言で進んでいく。 カイルの足は既に棒のようだった。軍靴の底が乾いた土を踏みしめるたびに、砂利が擦れる乾いた音が鼓膜を打つ。だが、それ以上に彼を疲弊させていたのは、背後に置いてきた光景――レオンが引き起こした虐殺の記憶だった。
「……見えてきたぞ」 先頭を歩くセリアが、掠れた声で指差した。
「あれが我々の最後の防衛線……『鉄壁の砦』だ」
カイルは顔を上げ、目を凝らした。灰色の岩山が、荒野の中に巨人の死骸のように横たわっている。その山腹を強引にくり抜いて作られた拠点が、夕闇の中に黒いシルエットとなって浮かび上がっていた。 だが、近づくにつれて明らかになったその姿に、カイルは息を呑んだ。
「……これが、砦?」
それは、カイルが想像していた「威厳ある城塞」とは程遠いものだった。かつては堅牢だったであろう石造りの城壁は、度重なる敵の魔導兵器による攻撃で無惨に崩落していた。その傷口を塞ぐように、赤錆びた鉄板や、破壊された兵器の装甲板、出所不明の金属塊が無秩序に継ぎ足されている。まるで、瀕死の重傷者が包帯を巻く代わりに、手当たり次第の鉄屑を基礎にねじ込んで延命しているかのような、痛々しく、そして異様な姿。
「ひどい有様だな」隣を歩くレオンが、呆れたように鼻を鳴らした。
彼はヴォルグから戦場で手に入れた剣を杖代わりにしながら、その継ぎ接ぎだらけの巨城を見上げている。 「『鉄壁』っていうより、巨大な『鉄の墓標』だ。……こんな今にも崩れそうな鉄屑の山に命を預けなきゃならない兵士たちが、不憫でならないね」
「口を慎め、レオン」 テオドールが低い声で窘めるが、その表情も硬い。砦の構造的欠陥を理解していると読み取れた。
一行が巨大な鉄の城門に近づくと、城壁の上から力のない誰何の声が飛んだ。
「止まれ……。何者だ」 銃眼から顔を覗かせた数名の兵士たち。彼らの姿を見た瞬間、カイルは胸が締め付けられる思いがした。 皆一様に目が窪み、頬がこけている。その肌は泥と煤汚れ、そして長期間の栄養不足で土気色に染まっていた。彼らの目は、敵である帝国軍を警戒しているというより、ただ漫然と「死」という名の解放が訪れるのを待っているかのような、深く澱んだ虚ろな光を宿していた。
「近衛の、セリア・ラインハルトだ! 前線より生存者を連れ帰還した! 開門を願う!」
セリアが気力を振り絞って声を張り上げる。だが、反応は鈍かった。しばらくの重苦しい沈黙の後、城門の奥から何かが壊れるような轟音が響いた。
ギギギギギ……キィィィン……。 錆びついた歯車が悲鳴を上げ、巨大な鉄扉が振動しながら、ゆっくりと開かれていく。
「……入ろう。歓迎するとは言えない状況だが、ここが我々の家だ」
セリアの背中は、誇りよりも悲哀に満ちていた。
砦の中へ一歩踏み入れた瞬間、カイルを包んだのは、強烈な「臭気」だった。湿ったカビの臭い。饐えた油の臭い。そして、排泄物と血が混ざり合った、生理的な嫌悪感を催す濃密な死臭。A.C.3517年の清潔な管理社会で生きてきたカイルにとって、それは暴力的なまでの「現実」の洗礼だった。
「うっ……」 カイルは思わず口元を覆った。
天井の高いドーム状の広場は、薄暗い野戦病院と化していた。本来なら兵器や物資が置かれるべき場所に、負傷した兵士たちが雑魚寝している。冷たい石畳の上に敷かれた毛布は薄汚れ、あちこちから苦悶のうめき声が聞こえてきた。治療薬が不足しているのだろう。多くの者が傷口を布で縛っただけの状態で放置され、中には傷口が化膿し、黒く変色している者もいる。
カイルの『脳』が、ここに居続ければ自分の精神が間違いなくもたないことを絶え間なく警告を発していた。
帰還したセリアたちに気づき、数人の兵士が顔を上げた。だが、その瞳に「希望」の色はなかった。あるのは、濁った諦めだけだ。
「……セリア様か。また、撤退ですか」壁際で座り込んでいた古参の兵士が、吐き捨てるように呟いた。片腕を失っている彼は、虚空を見つめたまま独り言のように続ける。
「『生きて帰った』じゃない。俺たちはまた、『領土を捨てて逃げた』んだ」
「よせ、バルト」隣の若い兵士が諌めるが、その声にも力がない。
「ガイウス様のご判断だ。戦力を温存するために、勝ち目のない戦いは避ける……。賢明な判断だよ」 「賢明? ああ、そうだな。賢明すぎて反吐が出る」 古参兵は嗤った。
「俺たちの命を守るために、国を切り売りしてるんだからな。……聞いたか? 西の渓谷にあった開拓村も、昨日落ちたらしいぞ」
その言葉に、周囲の兵士たちの間に動揺が走った。
「西の村が? まさか、あそこには俺の家族が……」
「援軍は送らなかったのか? ここからなら半日で着くはずだろ!?」
「送るわけがないだろう! 砦の結界を維持する人員が足りないんだ。……ガイウス様は、砦を守るために村を見捨てたんだよ」
兵士たちの囁きが、カイルの耳に粘りつくように届く。そこにあるのは指揮官への感謝ではない。 勝利なき生存に対する鬱屈した不満。見捨てられた家族への想い。そして、行き場のない怒りだった。 ガイウスの判断は、軍事的には正しいのかもしれない。だが、人の心は理屈では動かない。この砦には、自分の生まれ育った田舎町の安心感、共同体は存在しない――カイルは直感的にそう感じた。
「……見ろよ、カイル」不意に、レオンが耳元で囁いた。
カイルが振り返ると、レオンは楽しげに口元を歪めていた。
「これが『正義の軍隊』の成れの果てだ。……みんな、飢えてるな」
「飢えてるって……食料のこと?」
「違う。復讐にだよ」レオンの視線が、兵士たちの暗い瞳を舐めるように移動する。
「あいつらは、ただ生き残りたいんじゃない。奪われた分だけ奪い返したいんだ。家族を殺した帝国に、そして自分たちを見捨てた指揮官に、一泡吹かせてやりたいと願ってる」
レオンの瞳が、暗がりの中でギラリと光った。
「ここには、もう火種がくすぶってる。湿気った正義感じゃ燃えないような、ドス黒い火種がな。……あとは、誰かが油を注いでやるだけだ」
カイルは身震いした。レオンが見ているのは、この惨状への同情ではない。この状況をどう利用し、どうやって自分自身の「舞台」に変えるかという、冷徹な計算だった。
「……騒がしいぞ」
その時、広場の奥にある階段から、よく通る声が響いた。ざわめきが波が引くように収まり、重苦しい沈黙が降りる。 兵士たちがのろのろと道を空ける中、一人の青年が階段を降りてきた。
カッツ、カッツ、と響く軍靴の音だけが、この空間で唯一、硬質で清潔だった。輝く金髪。泥汚れ一つない純白の軍服。この薄汚れた砦の中で、彼だけが別世界の住人のように美しく、そして浮いていた。
彼こそが、この砦の指揮官であり、カイルたちが読んだ『建国神話』の本来の主人公――ガイウスだった。だが、近くで見る彼は、神話の挿絵とは違っていた。その整った顔立ちには、隠しきれない疲労の色が濃く滲んでいる。目の下には隈があり、頬はこけていた。彼もまた、この地獄のような状況ですり減っていたのだ。
「セリア、無事だったか」ガイウスの声は穏やかだったが、どこか機械的だった。感情を表に出すことを自分に禁じているかのような響き。
「はい、ガイウス様。……偵察任務より戻りました。ですが、部隊の半数を失いました」
「……そうか。兵たちの家族には、私から伝えよう」
ガイウスは短く答え、セリアの後ろにいるカイルたちに視線を向けた。
「その少年たちは?変わった衣装だが避難民か?」
「いいえ。彼らは……新たな『適合者』です。戦場で我々の窮地を救ってくれました。彼らの力があれば、あるいはこの戦況を……」
「適合者? この子供がか?」
ガイウスが口を開くより先に、背後に控えていた大柄な男――副官が、あからさまに鼻を鳴らした。 「馬鹿を言うな、セリア。戦場で拾った孤児に何ができる。ただでさえ食料備蓄が底をつきかけているのだ。役立たずの口減らしなら、他所でやれ」
副官の言葉に、周囲の兵士たちが同調するように暗い視線を向ける
「余計な口が増えた」「どうせまた死ぬだけだ」という囁きが聞こえる。 その空気を裂くように。
ヒュンッ。
鋭い風切り音と共に、副官の鼻先に刃が突きつけられた。 レオンだ。彼はいつの間にか間合いを詰め、剣を抜いていた。剣は発光していないが、その切っ先からは肌を刺すような殺気が放たれている。
「なっ……!」 副官が息を呑み、硬直する。
「役立たず?」 レオンは冷ややかに笑った。その瞳は笑っていない。
「やめろ!レオン!」テオドールが制止しようと声を張り上げる。
「言葉には気をつけなよ、おっさん。俺の機嫌を損ねたら、このボロ城ごと瓦礫の山に変えることだってできるんだぜ」
「き、貴様……!」副官が腰の剣に手をかけようとするが、レオンの殺気に圧されて指が動かない。周囲の兵士たちもざわめき立ち、一斉に武器を構える。一触即発の空気。
「……やめろ」
静かな、しかし絶対的な命令を含んだ声が響いた。ガイウスが、二人の間に割って入ったのだ。彼は丸腰のままレオンの剣先を素手で制し、ゆっくりと押し下げた。
「この城で戦うのは許されない。その怒りは外敵へと向けてくれ」
カイルはその時、見てしまった。レオンの剣を抑えるガイウスの手が、小刻みに震えているのを。 それは、武装した相手への恐怖ではない。抑えきれない疲労と、それでも虚勢を張り続けなければならない指揮官としての重圧。そして何より、自分の無力さを誰よりも自覚している男の、悲痛な叫びのような震えだった。
「歓迎しよう、少年たち。……ここは地獄の一歩手前だが、少なくとも雨露をしのぐことはできる」
ガイウスは自嘲気味に笑った。その笑顔は、あまりにも脆く、そして痛々しかった。




