Chapter 3:殺戮者の顕現
ここは自分の過ごした田舎町の広場ではない
カイルが泥だらけの顔を上げて最初に認識したのは、その絶対的な事実だった。
空の色が違う。夕焼けの琥珀色はどこにもなく、代わりに鉛色の雲が低く垂れ込め、そこから絶え間なく青白い光の筋が地上へと降り注いでいる。
音も違う。祭りの陽気な音楽は消え失せ、鼓膜を圧迫するような轟音と、何かが砕ける乾いた音、そして人間の悲鳴が不協和音となって響き渡っていた。
「げほっ……! なんだよ、ここ……」
カイルは激しく咳き込みながら立ち上がろうとしたが、足元のぬかるみに滑って再び膝をついた。手のひらに触れたのは、冷たい泥だけではなかった。温かく、粘り気のある液体。恐る恐る視線を落とす。泥水の中に、赤黒い筋が混ざっている。それはすぐ近くに転がっている物体――半分だけ瓦礫に埋もれた、鎧を着た人間の腕から流れ出していた。
「うっ……!」
胃液がせり上がる。これが現実なのか?さっきまで、自分たちはさっきまで本を見ていたはずだ。それが瞬きする間に、死体と泥の海に放り出されたというのか?
カイルは震える手で口元を覆い、隣で呆然と立ち尽くす二人を見た。
「テオさん! レオン! 無事か!?」
「……ああ。怪我はないが」テオが眼鏡の汚れを指で拭いながら答えた。その声は努めて冷静だったが、顔は地面を見つめており表情は読み取れない。
「すげぇ……」対照的に、レオンは破顔したままと瓦礫の山を登り、周囲を見渡していた。視線の先には、信じがたい光景が広がっていた。
数百メートル先、荒野の真ん中で、二つの軍勢が激突していた。
一方は、重厚な黒いプレートアーマーに身を包んだ集団。
もう一方は、銀色の軽装鎧をまとった騎士団。彼らが手にしているのは剣や槍だったが、そこから放たれる現象は、物理法則を完全に無視していた。
「《イグニ》!」黒騎士の一人が叫ぶと、持っていた大剣の刀身が灼熱し、爆発的な炎を噴き出した。炎は扇状に広がり、対峙していた銀騎士たちを飲み込む。
「《プロテクション》!」 銀騎士たちが盾を掲げて叫ぶ。すると、盾の表面にハニカム構造の光の膜が展開され、炎を受け止める。
「魔法だ……。本物の魔法戦争だ」
カイルは乾いた唇で呟いた。目の前で人が燃え、吹き飛び、光となって消滅していく。現代の常識では考えられない、神々の戦いのような光景。
「ああ、僕にも見えているよ」 テオが眼鏡の奥の瞳を細めた。
会話を遮るように、すぐ近くで爆発が起きた。
飛び散る石礫。カイルたちは悲鳴を上げて物陰に身を隠す。
「見つけたぞ! アルカディアのネズミどもめ!」
黒煙の中から、三人の兵士が現れた。全身を黒い鎧で覆い、顔さえも見えない。彼らが持つ斧の刃先は、不気味な紫色の光を放っていた。
「こ、子供……? いや、その服、見かけない意匠だな」
先頭の兵士が、カイルたちを見て足を止めた。
「貴様ら、どこの密偵だ?」
「ち、違います! 俺たちはただ……!」
カイルが必死に弁解しようと手を上げた瞬間、兵士は冷酷に斧を振り上げた。
「問答無用。怪しい奴は殺せ。それが帝国の掟だ」
「ひっ……!」
殺意。純度100パーセントの、人を肉塊に変えることへの躊躇いのなさ。平和な時代に生きてきたカイルにとって、それは向けられただけで心臓が止まりそうになる恐怖だった。
逃げなければ。でも足が動かない。紫色の光刃が、カイルの脳天を目掛けて振り下ろされる――。
死ぬ。カイルが目を瞑った、その時だった。
「そこまでだ、蛮族ども!」
凛とした声が戦場を切り裂いた。
風切り音と共に、銀色の影がカイルと兵士の間に割って入る。金属音が響き、黒兵士の斧が弾き飛ばされた。
「なっ……貴様、近衛騎士団か!」
カイルが目を開けると、そこには一人の少女の背中があった。
長い銀髪をポニーテールに束ね、白銀の軽装鎧をまとっている。年齢はカイルたちより少し上、十八歳くらいだろうか。彼女は身の丈ほどもある長大な「槍」を構えていた。
「子供相手に武器を向けるとは、帝国の誇りも地に落ちたな!」
騎士は、カイルたちを背に庇いながら叫んだ。
「逃げろ! ここは遊び場じゃない!」
「で、でも……!」
「早くしろ! 私が食い止める!」
セリアは敵の返答を待たず、槍を突き出した。彼女の指が、槍の柄にある複雑な装飾――に見える操作盤――を素早くなぞる。
「轟け、雷神の怒り! 《シス・ライトニング・ブレイズ》!」
槍の穂先から電撃が放たれ、先頭の兵士を直撃する。
「ぎゃあああああ!」
断末魔の悲鳴。兵士の鎧が一瞬で赤熱し、中身ごと炭化して吹き飛んだ。
圧倒的な威力。だが、カイルの目は別のものを見ていた。
「くっ……また調子が悪いのか!」
槍を振って煙を散らすが、女騎士の表情は焦燥に歪んでいた。槍の先端からは、バチバチと不安定な火花が漏れ続けている。
「ちっ、あの女の槍、もう限界だぞ! 囲め!」
生き残った二人の兵士が、左右に展開して襲いかかる。さらに後方から、増援の兵士たちが駆け寄ってくるのが見えた。
「クソッ、数が多い……! 少年たち、早く逃げろと言っているのが分からないのか!」
女騎士が叫ぶ。彼女一人の力では、カイルたちを守りきれないのは明白だった。
カイルはテオの袖を引いた。
「テオさん、逃げよう! あいつらに捕まったら殺される!」
「……そうだな。現状の戦力差は絶望的だ」
テオも同意し、退路を探そうと振り返る。
だが、一人だけ動かない者がいた。 レオンだ。
「レオン! 何してるんだ!」
カイルの叫びも、今のレオンの耳には届いていないようだった。彼は戦いの恐怖に震えているのではなかった。彼の視線は、地面に打ち捨てられ転がっている剣に釘付けになっていた。
それは、泥の中でも異様な輝きを放っていた。装飾による美しさはない。戦場で持ち主を失ったその武器の柄には、人を殺すためだけの武器としての武骨さだけが感じられた。
「すげぇ……」
レオンがうわ言のように呟き、ふらりと歩き出した。
爆風が頬を撫で、流れ弾が近くの地面をえぐる。それでも彼は止まらない。
「おい、少年! 何をする気だ!?」
女騎士が驚愕して叫ぶ。
「その『魔道器』に触れるな! 適合者以外が触れれば、防衛術式でお前の腕が消し飛ぶぞ!」
レオンは聞く耳を持たなかった。
彼に聞こえていたのは、新たな持ち主を探す剣の呼び声だけだった。学校の勉強も、退屈な日常も、何もかもがつまらなかったレオン。けれど、この「剣」だけは、何よりも雄弁に彼に語りかけていた。
「腕が消し飛ぶ? ハッ、脅し文句にしちゃ古臭いな」
レオンは跪き、その剣を掴んだ。ずしりと重い、力の感触。本能的に誰にもとられないように握り込む。
その時、剣の刀身がまばゆい真紅の光に包まれた。金属の刃の光ではない。
「なっ……!? 詠唱無しで!?」
女騎士が目を見開く。彼女の常識では、何年も修行した高位の騎士だけが、長い詠唱の果てにようやく発動できる奇跡のはずだった。
迫りくる増援部隊。五人の兵士が槍を構え、無防備なレオンに殺到する。
「死ねぇ! ガキが!」
レオンはゆっくりと立ち上がった。彼の瞳には、赤い線が見えていた。敵がどこへ動き、どう斬れば全員を巻き込めるか、まるで教えてくれているようだった。
「うるさいな」
レオンは吐き捨てるように言い、無造作に剣を横に振った。剣術の心得などない。ただの暴力的な素振り。
だが、それで十分だった。
空気が爆ぜる音。剣先から伸びた光は、瞬時に五メートル以上も伸長し、扇状に空間を薙ぎ払った。悲鳴を上げる暇もなかった。鉄の鎧も、肉体も、骨も、振り下ろされた槍も。すべてが赤い閃光に触れた瞬間、バターのように溶断された。
一瞬の静寂の後、炭化した肉塊が地面に落ちる音だけが響いた。
「はは……」
レオンの手から、乾いた笑いが漏れる。彼は自分の手を見つめ、そして目の前の惨状を見下ろした。人を殺した感触はなかった。ただスイッチを押しただけ。それだけで、多くの命がゴミになった。
「すげぇ……!カイル、見たか?一振りで、あいつらが消し飛んだぞ!」
「レオン……?」
カイルは震える声で友の名を呼んだ。振り返ったレオンの顔を見て、カイルは言葉を失った。そこにあったのは、人を殺した恐怖でも、罪悪感でもない。ずっと欲しかった玩具を買ってもらった子供のような、無邪気で、そして狂気じみた満面の笑みだった。
「おい、そこの騎士」
レオンは剣を構えたまま、呆然としている女騎士に声をかけた。その瞳は、戦場の炎よりもなお赤く、ギラギラと輝いている。
「まだ来るんだろ? 敵は。……俺がやってやるよ。全部な」
風が吹き抜け、硝煙の臭いを運んでいく。
カイルは直感した。世界が変わったのではない。レオンという怪物が、ついに解き放たれてしまったのだと。
ついさっきまで居た平和な田舎町の友達は、もうどこにもなかった。




