Chapter 2:日常の崩落
広場は、光と音の坩堝だった。
半年ぶりに訪れた商隊を歓迎するように、赤や青の天幕がひしめき合い、大道芸人の笛の音と、肉を焼く香ばしい匂いが混ざり合っている。人々は浮かれ騒ぎ、この平和が永遠に続くと信じて疑わない笑顔を浮かべていた。
「すごい人だ……。ねえテオさん、その面白そうなものってどのお店で売ってるの?」 カイルは人波に揉まれながら、前を行くテオの背中に声をかけた。
普段ならカイルが立ち寄るような、大通りの健全な書店テントではないことは確かだ。テオは人目を避けるように、広場の喧騒から外れた、薄暗い裏通りの一角へと二人を誘導していく。
「表向きの店には並ばないよ。これから行くのは、正規のルートを通していない『発掘品』を扱う店だ」
テオが眼鏡の位置を直しながら、声を潜める。
「当局に見つかれば没収される代物だ。いいかい二人とも、余計なことは喋らないように」
辿り着いたのは、広場の隅にひっそりと張られた、黒ずんだ天幕だった。入り口には看板もなく、ただ奇妙な機械仕掛けの鳥の剥製がぶら下がっているだけだ。
中に入ると、鼻をつくような古紙と防腐剤の匂いがした。カウンターの奥から、老商人がぬらりと現れる。
「……子供か。冷やかしなら帰ってくれ」
商人はしわがれた声で追い払おうとしたが、テオは動じずに懐から革袋を取り出し、カウンターに置いた。重みのある金属音が響く。
「北から来た商品をいただきに来ました。代金はこれで」
商人は無言で革袋の中身を確認すると、片目を細めてニヤリと笑った。
「ほう、話が早い。……いいだろう、奥から出してくる」
商人が店の奥へ消え、少ししてから戻ってきた手には、油紙で厳重に梱包された四角い包みがあった。
「これだ。『遺谷』から出た代物だよ。鑑定士の連中は『他国の民謡』には値段が付かないと言われたがね」商人はニヤリと笑いテントの外を見る。
「商人を長くやっているとこういう物に価値を見出すお客さんをよく相手にするが、あんたもその口かい。テントを出て、右に出れば巡回には出くわしにくい。どうぞ御贔屓に。」
「忠告、感謝します」
テオは短く礼を言い、包みを受け取った。カイルはごくりと唾を飲み込む。その包みからは、黴臭さとは別の何か異様な気配――生き物が息を潜めているような静かな圧迫感――が漂っている気がした。
*
「ここなら誰にも邪魔されない」
店を出た三人は、メインストリートから一本外れたテオドールの家へと移動した。そこは祭りの熱気が嘘のように静まり返っていた。テオは周囲を入念に確認してから、抱えていた包みを開いた。何重にも巻かれた油紙が剥がされると、そこには一冊の「本」が鎮座していた。
大きさは百科事典ほど。表紙は深い藍色の革張りだが、表面には見たこともない素材の光沢がある。角度を変えると、革の奥底で宝石を光にかざした時のように色を変えているように見えた。そして何より、中央に刻まれた金色の紋章。複雑な幾何学模様が幾重にも重なり合ったそのデザインは、じっと見ていると視線が吸い込まれそうな錯覚を覚える。
「……」 レオンが夢遊病者のように手を伸ばし、その表紙に触れた。
「すげぇ……。なんだこれ、温かいぞ」
「温かい?」
カイルも恐る恐る手を伸ばす。指先が表紙に触れた瞬間、ビクリと肩が跳ねた。
熱ではない。カイルが感じたのは振動だった。池の水の中に飛び込んだ時のような感覚を覚えた。ごく微弱な、しかし規則正しい脈動が、掌を通じて伝わってくる。トクン、トクン、とまるで心臓のように。隣の家のおばさんの子供を抱いたときに感じた赤ん坊が――何かが起きようとしているそんな「鼓動」の気配。
「鑑定士の目は節穴だな。ただの本じゃない」
テオが眼鏡の奥の瞳を細めた。
「僕の見立てでは、これはもっと精巧な……」
「開けてみようぜ」
テオドールが喋り終える前にレオンが声を出す。その声が震えている。恐怖からではない。待ちきれない興奮からだ。
彼はカイルとテオの返事を待たずに、その分厚い表紙をめくった。
その瞬間、カイルたちの視界に異変が起きた。
キィィィン……。耳鳴りのような高い音が脳内を突き抜ける。ページが開かれると同時に、そこから世界が白く染まった――ように見えた。だが、それは物理的な光ではなかった。
不意に、視界の中に「文字」が浮かんだ。空中に浮かび上がった半透明の文字列。それはページの上に重なり、まるで注釈を入れるように次々と展開されていく。
「うわっ! なんだこれ!?」
カイルは思わず後ずさり、目をこすった。だが、文字は消えない。まぶたの裏に焼き付いた残像のように、視線を動かしても追従してくる。
「カイル、お前にも見えているのか?」
レオンが空中の何もない一点を凝視しながら言った。
「文字が……ページから浮き出してくる。これ、なんて書いてあるんだ? 学校で習う文字じゃない」
ページに記されているのは、無機質で直線的な記号の羅列だった。本来なら解読不能な暗号の塊だ。しかし、カイルたちの脳が、それを勝手に「意味」へと変換していく。 それは「読む」という行為ではなかった。知識を直接、脳髄に叩き込まれるような感覚だった。
「『戦術記録』……?」
カイルは、脳内に浮かんだ言葉を口にした。
「これ、物語じゃない。記録だ。一六〇〇年前の戦争の、もっと生々しい……」
「読んでくれ、カイル」
レオンがページをめくる手を止めた。挿絵――いや、精巧な図面が描かれたページだ。 そこには、荒廃した大地に立つ一人の男が描かれていた。手には光り輝く剣。足元には無数の死体。英雄アルトリウス。
だが、教科書に載っている慈愛に満ちた王とは似ても似つかない。その表情は冷徹で、眼光は鋭く、まるで人形のように無感情だった。
「文字が読めるのは、お前の方が得意みたいだ。俺の目には、霞んでてよく見えねぇ」 レオンは悔しそうに顔をしかめながらも、カイルに先を促した。
「そこに何て書いてある? その英雄は、本当は何をしたんだ?」
カイルは唾を飲み込み、光る文字の列を目で追った。そこに記されていたのは、美しい建国神話ではなかった。
『――作戦目標の完全鎮圧を確認。敵対勢力、および非戦闘員を含む全区画を浄化』
『王は言った。恒久的な平和維持のためには、不確定要素の排除が必要である、と』
「……『浄化』?」
カイルの声が震える。
「敵だけじゃない。降伏した人も、逃げ惑う人も、全員……消し去ったって書いてある。平和のために、邪魔なものは全部」
「ははっ……!」
乾いた笑い声が響いた。レオンだ。
彼は恍惚とした表情で、図面の中の冷徹な王を見つめていた。
「やっぱりな。綺麗事じゃなかったんだ。平和ってのは、誰かの死体の上に成り立ってる。この街の連中が忘れてる『真実』だ」
レオンの指が、図面の中の剣――『力の剣』と注釈がついた武器――をなぞる。
「力がなきゃ、何も守れない。奪う側になるか、奪われる側になるか。……英雄様は、奪う側になることを選んだんだ」
その時、本がひときわ大きく脈動した。ドクンッ!! 心臓の鼓動のような音が、今度は周囲の空気さえも震わせた。
「おい、様子がおかしいぞ」
テオが鋭く警告する。
「カイル、本を閉じろ!」
だが、遅かった。誰かに押さえつけられているようにカイルの手は、吸い付いて離れなかった。ページがひとりでにめくれ上がり、凄まじい勢いでパラパラと音を立てる。 視界いっぱいに、先ほどまで半透明だった文字が赤く変わりが埋め尽くされていく。
「くそっ、手が離れない! レオン、助けてくれ!」
カイルが叫ぶが、レオンは動かなかった。彼は魅入られたように、めくれ続けるページを見つめていた。
「待てよ、カイル。最後のページだ。そこに何かが書いてある」
めくれ続けていたページが、唐突に止まる。最後のページ。そこには、真っ白な背景に、たった一行の文字列だけが、血のように赤く輝いていた。
カイルの口が、本能的に動く。それは意志ではなかった。脳に直接流し込まれたプログラムを、スピーカーとして出力させられるような強制力。
「……『力無き正義は無力であり、正義無き力は暴力である』」
カイルの声が路地裏に響く。だが、文章には続きがあった。教科書では削除され、歴史の闇に葬られた、本当の結びの言葉が。
「――『故に我は、暴力を統べる“統治者”となる』」
カイルが最後の言葉を紡いだ、その瞬間。
「うわあああぁっ!?」
「・・・バッカ!本を!」
「二人とも、何かに掴まれ!!」
三人の叫び声が重なる。地面が消失した。重力が狂ったように暴れだし、カイルの体は宙に放り出された。内臓がひっくり返るような浮遊感と、全身が千切れていくような感覚。視界の端で、見慣れたレンガ造りの壁が、砂のようにサラサラと崩れ去っていくのが見えた。平和な日常が、退屈な教室が、町の外れに沈んでいく夕暮れが、すべて彼方へと遠ざかっていく。
最後にカイルが見たのは、光の渦の中で本を抱え狂喜の笑みを浮かべるレオンの顔だった。彼は恐れてなどいなかった。むしろ、この崩壊を誰よりも待ち望んでいたのだ。
「行こうぜ、カイル! 俺たちの時代の始まりだ!」
レオンの叫び声もまた、光の奔流にかき消されていく。意識が途切れる寸前、カイルの目の前に、あの文字が見えたような気がした。
『座標固定、A.C.1856。――ようこそ。よい旅を』




