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Chapter 1:琥珀色の箱庭

世界は、琥珀の中に閉じ込められた昆虫のように静止していた。  少なくとも、十四歳の少年カイルにとって、この世界はそう見えていた。


 A.C.3517年。正午を告げる工場のサイレンが、重たく、そして気だるげにレンガ造りの街並みへと降り注ぐ。

教室の窓から見える空は、今日も変わらず灰色の雲に覆われていた。遠くに見える工場の煙突からは、昨日と同じように、そしておそらくは百年後も同じように、白い蒸気が吐き出されている。

歴史の教科書によれば、蒸気機関の発明から数百年、あるいはもっと長い時間が経過しているはずだった。だが、この街の景色は何一つ変わらない。


「――そして、偉大なる初代国王アルトリウス様は、神より授かりし聖剣の力をもって戦乱を平定し、この『永遠の平和』をもたらされたのです」

教壇に立つ老教師の声は、まるで壊れかけたレコードのように単調だった。

黒板には『建国一六〇〇年記念』の文字。カイルはあくびを噛み殺しながら、手元の教科書に視線を落とした。表紙の革は擦り切れ、ページの端は手垢で茶色く変色している。

この教科書は、カイルの父親が子供の頃に使っていたものと同じ版だ。改訂される必要がないのだ。歴史が動いていないのだから。


「……くだらねぇ」

 隣の席から、押し殺したような吐き捨て声が聞こえた。カイルは横目で隣を見る。  窓際の席に座る少年、レオン。彼は頬杖をつき、苛立ちを隠そうともせずに窓の外を睨みつけていた。整った顔立ちをしているが、その端正さはどこか冷ややかで、人を寄せ付けない鋭さがある。午後の光を吸い込んだその瞳の奥には、いつも満たされない飢餓感が宿っていた。

「レオン、先生に聞こえるぞ」  カイルが小声でたしなめると、レオンは鼻で笑った。 「聞こえりゃいいさ。どうせあの爺さんだって、自分が何を喋ってるのか分かっちゃいない。毎日毎日、同じお題目を唱えるだけの機械だ」

 レオンの言葉は辛辣だったが、カイルには反論できなかった。


この街には「変化」というものが存在しない。大人たちは「変わらないこと」を美徳とし、波風を立てないことを最上の知恵として生きていた。カイルのような穏やかな性格の少年には、それは心地よい揺り籠のようにも思える。だが、親を持たず、天涯孤独の身で育ったレオンにとって、この安穏とした空気は首を絞める真綿でしかなかったのだろう。


「ねえ、カイル。お前は思わないのか?」

レオンが不意に視線をカイルに向けた。その瞳が、獲物を狙う肉食獣のようにギラリと光る。

「この世界は、まるで『檻』だ。俺たちみたいな人間を、死ぬまで飼い殺しにするための巨大な飼育箱だと思わないか?」


「檻って……。平和なだけじゃないか。誰も飢えてないし、戦争もない」

「それが異常なんだよ。人間ってのは、もっとこう……奪い合ったり、何かを賭けて争ったりするもんじゃないのか? この本に出てくるみたいにな」

 レオンの指が、机の上に置かれた一冊の文庫本を叩く。

それは先週、街の古本屋で手に入れた冒険活劇の小説だった。

娯楽の少ないこの田舎町では、年に数回やってくる「巡回交易商人」が持ち込む本だけが、外の世界を知る唯一の手がかりだった。


「今日は商隊の到着日だぜ」

レオンが口角を歪めて笑う。

「今回は当たりらしい。遠い国から流れてきた、この町じゃ一生知ることがないことが載ってるって噂だ」

「また大げさな。どうせ子供だましだろ?」

「さあな。でも、テオさんが言ってたんだ。『面白いこと』が書いてある本だって」


 テオ――テオドールの名前が出ると、カイルは少しだけレオンの方に身を乗り出す。

二つ年上の先輩であるテオは、この退屈な田舎町において、唯一「外」の匂いを感じさせる知的な少年だった。常に分厚い眼鏡の奥で何かを思索している彼は、大人たちよりもずっと物知りで、どこか謎めいた雰囲気を漂わせていた。彼が言うなら、単なる噂話ではないかもしれない。


「……授業終わったら、すぐ広場に行く?」

「当たり前だろ。こんな死んだ教室にいたら、俺まで腐っちまう」

 チャイムが鳴った。その音は、腐りかけた少年にとっての福音だった。


          *


 放課後の街は、夕暮れ特有の黄金色に染まり始めていた。

石畳の道を行き交う人々は、皆一様に穏やかな表情をしている。パン屋の主人が店先を掃除し、花屋の娘が水やりをしている。そこには何の不安も、恐怖もない。  

だが、レオンはそんな光景を見るたびに、露骨に不機嫌そうな顔をするのだった。

「見ろよ、カイル。あそこの銅像」

レオンが顎でしゃくった先には、街の小さな公園に建つ初代国王の石像があった。剣を杖のように突き、慈愛に満ちた顔で民を見下ろしている。


「『力無き正義は無力だが、正義無き力は暴力である』……だっけか。台座に彫ってある言葉」


「うん、建国の理念だね。立派な言葉だと思うけど」

「俺は逆だと思うね」 レオンは歩きながら、小石を蹴飛ばした。


「力がなけりゃ、正義なんて語る資格すらない。ただの負け犬の遠吠えだ。……この街の連中は、自分たちが『守られている』と思ってる。でも本当は違う。ただ『飼われている』だけだ。牙を抜かれて、爪を切られて、おとなしく餌を待つだけの家畜にな」

 カイルは何も言えなかった。レオンの中に渦巻くこのどす黒い感情は、一体どこから来るのだろう。同じ町で育ち、同じ釜の飯を食ってきたはずなのに、レオンだけが決定的に「何か」を欠落させている――あるいは、過剰に持て余しているように見えた。

彼は時々、英雄であるはずの建国王を、まるで目の上のたんこぶであるかのように憎々しげに語る。まるで、「自分ならもっと上手くやる」とでも言いたげに。


「おーい! こっちだ!」

 人混みの向こうから、よく通る声がした。街の中央広場へ続く大通りの入り口で、長身の少年が手を振っていた。知的な銀縁眼鏡をかけ、仕立ての良いシャツを着た少年――テオだ。

「テオさん、早かったですね」

カイルたちが駆け寄ると、テオは眼鏡の位置を直しながら微かに微笑んだ。

「待ちきれなくてね。今回のキャラバンは、いつもとは品揃えが違うという情報が入っていたから」 「品揃えが違う?」 「ああ。北方の遺跡から発掘された『遺物』がいくつか紛れ込んでいるらしい。もちろん、公式にはガラクタとして扱われているが」

 テオの声が少しだけ低くなった。  彼は周囲を警戒するように視線を巡らせてから、二人に顔を近づけた。 「例の『本』も、その一つだ」


「やっぱり、本当にあるんですね」

レオンの目が輝いた。退屈な日常に向けられていた軽蔑の色が消え、純粋な好奇心と、ある種の野心が浮かび上がる。


「『北法史』……北国の民話をまとめた本。商人はそう説明していた。でも、僕の解釈では少し違う」

 テオは意味深に言葉を切った。


「あれは、おそらく『鍵』だ」

「鍵?」

「この国の成り立ちを示す鍵さ。他人から見た過去と自分が見た過去どちらがより真実を述べていると思う?」


 広場からは、賑やかな音楽と人々のざわめきが聞こえてくる。半年に一度の祭り。

誰もが楽しみにしているイベントだ。

だが、今のカイルには、その賑わいが遠い世界の出来事のように感じられた。胸の奥がざわざわとする予感があった。あの広場に行けば、もう二度と、この穏やかな日常には戻れないという予感が。

「行こうぜ」  レオンがカイルの背中を叩いた。

「ビビってんのか? カイル」

「……ビビってないよ。ただ、なんか嫌な予感がして」

「嫌な予感こそ、何かが起きる前触れだろ。最高の気分じゃねぇか」

 レオンは笑っていた。その笑顔は、カイルが見たこともないほど晴れやかで、そして残酷なほど無邪気だった。彼はまだ知らない。自分が開こうとしている扉の向こうに今まで経験したことがない日々が待っていることを。


 三人の少年は、夕日の中に伸びる影を踏みながら、広場の人混みへと足を踏み入れた。  色とりどりの天幕。異国の香辛料の香り。そして、運命の歯車が軋む音。カイルの手が微かに震える。それを隠すように、彼は拳を握りしめた。

 ――冒険の始まりは、いつだって唐突に、そして静かに訪れる。

学生時代授業中に思い描いていたキャラクターのことをふと思い出したので、執筆してみました。

仕事の合間でちょっとずつ更新したいと思うので、よければお付き合いください。

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