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悪役令嬢は無心の従者に恋をする

作者: 上下サユウ

短編新作です。

「アイリスよ! お前のフィーナに対する度重なる非道な行いは、もはや見過ごすことはできない! よって僕との婚約を破棄する!!」


 王太子アーヴィス・エルヴァン・グレイアードの宣言が、社交ホールを一瞬にしてざわめきに包み込んだ。

 貴族たちは顔を見合わせ、貴婦人たちは扇を口元に当てて囁き合う。


「これだから悪役令嬢は」

「殿下のご判断は正しいわ」

「お可哀想に、フィーナ様」

「噂に違わぬ公爵令嬢ね」


 ――嘲笑、軽蔑、悲嘆の声。それらはただ、感情という名の騒音にすぎない。


 私、アイリス・フォン・レイベルはいつも事実だけを述べてきた。だが、人は真実よりも感情を信じる。正論を言えば冷たいと言われ、沈黙すれば傲慢だと決めつけられる。でも、誤解されることにはもう慣れた。


「そうですか、別に構いませんわ」


 私は淡々と答えた。

 世界がどう揺れようと、私の基準は揺れない。それは私の隣に立つ従者、ユーリ・クロフォードも同じ。彼は褒められても恨まれても表情一つ変えない無心の青年。そして私は、そんな彼に恋をしている。


「では退席させていただきますわ」


 そう言った時、ユーリが一歩前に出た。


「殿下、婚約破棄宣言の撤回を推奨いたします」

「……何だと?」

「婚約破棄には三ヶ月前予告義務、および双方の書面合意が必要でございます。王国婚姻法第42条2項。先程の宣言はそれらの要件を満たしていない『感情的発話』です」


 社交ホールの空気が凍りついていく中、ユーリは淡々と続ける。


「また、度重なる非道とされた一連の件につきましては、すでに王国第三審記録局による調査が完了しております。報告書では全てアイリス様の行動記録と証言内容の間に明確な食い違いが確認されております。いずれの件も関与の余地はないと断定します」


 ざわめきが広がる。


「つまり度重なるとされる行為そのものが根拠のない噂に過ぎません。虚偽の情報を公の場で断定し、個人の名誉を損なう行為は、王国治安保持令第23条1項『虚偽の風聞による名誉侵害の禁止』に抵触する可能性もあります」


 ホールが沈黙に包まれた。

 視線が一斉にアーヴィス殿下へと集まると、私は小さく微笑んだ。


(ああ……この人は殿下を前にしても揺れない。だからこそ愛おしいのよ、ユーリ)


 彼の正確さこそ感情に溺れた世界で唯一の秩序。

 殿下は言葉を失い、私は小さく微笑む。


「ユーリ、帰りましょう」

「承知いたしました」


 私とユーリは感情に振り回される世界を置き去りにして、静かにその場を去った。


 ◇


 翌日。

 社交界では私の婚約破棄が『今年最大の事件』になっていた。


「アイリス嬢は悲嘆で倒れたらしいぞ」

「怒りで発作を起こしたと聞いたわ」

「違うわよ、笑って去ったって聞いたわよ」

「まさに悪役令嬢ね」


 ――嘲笑、憶測、作り話。

 人は真実よりも物語を好む。事実を語る者より、感情を煽る者の方がいつだって声が大きい。

 そんな噂話が飛び交う頃、私はいつものように書斎で紅茶を飲みながら報告を受けていた。


「昨日の件に関する新聞社三社への訂正文は、王国広報局のA-12様式に基づき提出済みでございます」

「ご苦労さま。訂正文の文面は通ったの?」

「はい、ですが提出書類の一部に誤字が三文字ありましたのでA-12様式付属文書Bに従い、修正しておきました」

「……本当に、あなたという人は」


 私は思わず微笑んだ。

 隙のない正確さと無駄のない言葉。完璧としか言いようがない彼を、私は心から愛おしいと思う。本人にとってはそれも業務の一環にすぎないなのだけれど。


 ◇


 昼下がりの書斎。

 静かな時を裂くように、扉が二度控えめに叩かれる。


「アイリス様、王立宰相府より書簡が届いております」

「宰相府から? 随分と早い反応ね」


 受け取った封筒には王家の紋章。封蝋を割り、文面とを開く。その書式は見覚えのあるものだった。

 ――『名誉審査会への召喚状』。


「まあ、殿下。今度は書面で攻めてこられたのね」


 皮肉でも嘆きでもなく、ただの感想として口にした。ユーリはいつも通り無表情のまま淡々と内容を読み上げる。


「『王太子アーヴィス・エルヴァン・グレイアードの名において、アイリス・フォン・レイベルの品位、および行動を審査す』。そう記されています」

「文体が雑ね。王立の正式文書とは思えないわ」

「はい、まず文頭の宣誓句が抜けています。さらに宰相府の押印ではなく王太子私印。これでは正式な召喚状としての効力はありません」


 ユーリは一呼吸の間に書式の欠陥を指摘していく。まるで裁判官と書記官が同居しているように。


「形式上、この召喚状は『感情的抗議文』に分類されます」

「つまり、また『感情的発話』の延長線ね」

「その通りです」


 感情の言葉で始まり感情の文書で続く。殿下のやり方はどこまでも整っていない。


「ユーリ、この文書はどう処理するのが正しいかしら?」

「まず形式的無効の意見書をB−2様式で作成し、宰相府宛に返送します。その上で王太子殿下に対し、法手続きの不備に関する助言を添付すれば将来的な再発防止にも繋がります」

「再発防止ね。あの方に通じるのかしら?」

「効果は薄いと思われます。しかし『処理済み』という事実は残ります」

「なるほどね」


 私は紅茶を口にしながら微かに笑った。

 感情で燃え上がる人々と正確に世界を整える自分。その境界線の静けさが、たまらなく心地よい。


「ユーリ、もう一つお願い」

「何でしょうか?」

「この件の記録を王国公報に提出しておいて。A−16様式、報告分類は『誤認処理案件』でお願いね」

「承知しました」


 ユーリは一礼し、音もなく部屋を出ていった。

 その背に、私はそっと視線を向ける。


(本当にあなたという人は、どこまでも正確でどこまでも冷静ね)


 けど、そんな無機質な彼の在り方に、私は人間らしい熱を感じてしまう。


 ◇


 王都中央庁舎、第二審査室。

 王立名誉審査会は本来ならば国政に関わる重大案件を扱う場所。だが本日の議題は『公爵令嬢アイリス・フォン・レイベルの品位調査』。

 形式上は調査だが、実質は王太子アーヴィスの感情による処罰会。

 傍聴席には昨日の社交ホールにいた貴族たちが揃っていた。


「それでは審査を開始する」


 議長役の宰相が淡々と開会を告げた。

 重苦しい沈黙の中、アーヴィス殿下が勢いよく立ち上がる。


「本件は明白だ! アイリスはフィーナに度重なる侮辱を行い、王家の威信を損なった! 公爵家の令嬢として婚約破棄のみならず正式な処罰が相応である!」


 言葉に力はあるが根拠はない。

 私は微動だにせず、隣のユーリを見る。彼は何の表情も浮かべず、ただ一冊の分厚い書類を取り出した。


「失礼ながら発言の前提に誤りがあります」

「……何だと?」

「第一に『度重なる』という表現ですが、提出されている被害報告は一件のみです。第二に侮辱の定義があいまいです。王国法における侮辱罪は直接的な暴言、または公的場での名指し非難を要件としていますが、どちらも該当しません」


 ざわめきが広がる。

 アーヴィス殿下は明らかに苛立ちを隠せない様子。


「だが証人がいる! フィーナ本人だ!」

「では、その証言記録を確認いたします」


 ユーリは淡々と紙をめくって告げる。


「証言内容、三項目。

 一、彼女が冷たい目で見た気がした。

 二、何かを見下すように笑っていた。

 三、沈黙の中に、私を侮辱する意志を感じた。以上です」


 審査室が静まり返る。

 ユーリは間を置かずに補足を加える。


「いずれの内容も具体的な言動、物的証拠、第三者証言を欠きます。王国裁定法第十一条『感情的印象に基づく証言は証拠能力を持たない』に該当いたします」


 審査室が静まり返った時、議長が咳払いをして口を開く。


「クロフォード殿、つまり貴公は王太子の訴えを根拠なき感情論と断じるのか?」

「はい、文書上の整合性と記録照合の結果、そう判断いたします」


 彼の声はどこまでも静かだった。

 誰かを貶めることも正義を掲げることもない。

 ただ、正確なだけ。


 アーヴィス殿下の顔が赤く染まる。


「黙れ! 貴様は従者にすぎない!」

「その通りです。ですが従者の職務には『主の名誉を守る』ことも含まれます。よって私はアイリス様の名誉を正確に守ります」


 誰も言葉を返せなかった。

 理屈の隙間も情が入り込む余地もなかった。

 私はそんな彼の横顔を見つめながら、そっと息をついた。


(ユーリの言葉は正義でも情でもなく、ただ正確な真実の形をしているのよ)


 審査会はそのまま終結し、議長が静かに結論を述べる。


「本件、立証不十分につき無罪とする」

「ありがとうございました」


 審査室を出ると、淡い春風が廊下を抜けた。

 私はユーリに視線を向ける。


「あなた、また書類だけで黙らせたわね」

「職務の一環です」

「ええ、知っているわ。でも……本当にあなたという人は」


 微笑みがこぼれる。

 彼は世界を救わない。ただ歪みを直すだけ。

 それが私が彼に恋をした理由。


 審査会の翌週。

 王都は春爛漫、桜の季節を迎えていた。噂好きの貴婦人たちは、花よりも審査会の顛末を肴にしているらしい。


「結局、無罪だったそうよ」

「王太子殿下の面目は丸潰れだとか」

「まあ、殿下を言い負かすなんて……さすが悪役令嬢ね」


 ――嘲笑、賞賛、好奇。

 どれも感情の温度差ばかりが目立つ言葉。

 私はただ春風の吹く中で、それらを遠くの雑音のように聞き流す。


 ここは王都近郊のクローヴァー伯爵家が主催する花見の席。例年ならば私の席は中央の貴賓区画だったが、今年は末席。桜よりも冷たい日陰の下、敷かれた席布だけが形式上の礼儀を保っていた。


「アイリス様、桜の開花率は昨年比で約五%増でございます」

「まあ、感情抜きの報告は花の美しささえ理屈に変えるのね」

「自然現象の経年変化として記録したまでです」


 彼の声は淡々としている。それが可笑しくて、私は小さく笑った。感情を持たない彼と感情に疲れ果てた私。ある意味で最も釣り合いの取れた関係だろう。

 その時、背後から甲高い声がした。


「まあまあ、アイリス様。王太子殿下の件、大変でしたわね」


 わざとらしく心配する声の主は、マリー・ナレド・エステル侯爵夫人。世間話の仮面を被った侮辱が得意な社交界の報告屋。


「皆さま、まだ信じておりますのよ。『冷たい目で見た気がした』という証言。あれは本当だったのではないかと」

「そう。では、その『冷たい目』の定義を伺ってもよろしいかしら?」

「え?」

「気温かしら? それとも視線温度差の測定でしょうか?」


 夫人の笑みが一瞬引きつる。

 その横でユーリが穏やかに頭を下げた。


「補足いたします。王国礼儀法第十二条、根拠のない風聞の流布は印象的侮辱として記録対象になります。もし本件を議事録に残す必要があれば、私が代筆いたします」

「……け、けっこうですわ。冗談ですのよ」

「冗談も記録の対象になります」


 夫人は桜色の扇で顔を隠し、逃げるように席を離れた。


「あなた、本当に桜より冷たいのね」

「植物と比較するのは不適切かと」

「そうね。でもどちらも無駄に散らないところは似ているわ」


 視線の先で花びらが、ひとひら彼の肩に落ちた。

 それに気づいたユーリは指先で払い落とす。その仕草が人間らしく見えて、私は少しだけ微笑んだ。


 花は咲き、やがて散る。

 けど彼は決して揺れない。

 それが私にとって最も美しい春の風景だった。


 ◇


 春は王都で最も騒がしい季節。街は花に酔い、人は噂に酔う。

 クローヴァー伯爵家の花見から十日。

 あの桜の午後に起きた出来事が、形を変えて広がっていた。


「悪役令嬢が貴婦人を泣かせた」

「冷笑一つで社交界を凍らせた」


 茶会でも書店の立ち話でも、私の名前が飾り文句のように消費されていた。もちろん紅茶の香りが、そんな騒音をかき消してくれるはずもない。


「噂というのは便利ね」

「考えることは社会では非効率ですから」


 変わらず淡々とした声なのに、皮肉にすら聞こえない。


「ええ、そうね」

「アイリス様、王国広報局からレイベル公爵家宛の書状が届いております」

「まあ、今度は何かしら」


 開くと、文面にはこう書かれていた。


 『報道における名誉毀損案件について、調査協力のため公的見解を求む』。

 要するに弁明をしろということだ。

 私は小さく笑った。


「彼らは自分で裁いた件に再び意見を求めてくるのね」

「自己矛盾の典型です。文書上は協力要請ですが、実質的には『再審の口実』でしょう」

「放っておけるかしら?」

「放置すれば『沈黙は肯定』と解釈される恐れがあります」

「つまり、どちらにしても話題になる、と」

「はい。ですので正確に話題を作りましょう」


 彼はそう言って、机に分厚い報告書を置いた。


「内容はすでにまとめております。全ての証言と照合済みです」

「仕事が早いのね」

「効率は美徳ですから」


 ◇


 翌日、王都中央区王国広報局の会見室。

 私は半ば公式な場に呼ばれ、名誉回復という名の再審に出席することになった。


 並ぶ記者たち、視線の海。

 壇上の中央で司会官が淡々と述べる。


「では、被疑者……失礼、公爵令嬢アイリス・フォン・レイベル様、ご自身の弁明をお願いします」


 『被疑者』という言葉が混ざるあたり、この会は最初から公平ではない。だが、私が口を開く前にユーリが一歩進み出た。


「発言の訂正を求めます」

「……なんです?」

「アイリス様はすでに王立審査会にて無罪。『被疑者』という表現は法的根拠を欠きます。王国報道法第九条の三項、及び公的場での虚偽表現に関する規定に反します」


 司会官が言葉を失い、記者席がざわめく。

 だが、ユーリは止まらない。


「また『冷笑した』、『侮辱した』、という証言については主観的印象を事実と断定しており、王国裁定法第十一条の定義において証拠能力なしと認められております。以上、法的に本会は不成立です」


 完全な沈黙が訪れた。

 紙をめくる音さえ聞こえない。

 ――やがて、誰かがぽつりと漏らす。


「つまり我々が間違っていたと……?」

「その通りです」


 彼は即答した。短く、冷たく、しかし完璧に。

 司会官は顔を真っ赤にして言葉を濁す。


「し、しかし、それでは我々の立場がないではないか!」

「訂正記事を出せば済みます。正確に」


 広間の空気が変わり、記者たちが筆を止める。

 悪役令嬢の噂が正確な記録によって塗り替えられていく瞬間だった。


 会見後、屋敷への帰り道。

 馬車の中で私は窓の外の夕焼けを眺めていた。


「あなた、本当に怖いわ」

「どの点でしょうか?」

「正確さのためならどんな言葉でも切り落とすところよ」

「誤差を残せば世界が歪みます」

「でも、その歪みが人を救うこともあるわ」

「救済は職務ではありません」


 そう言って、ユーリは言葉を閉ざした。

 車輪が石畳を叩く音だけが馬車の中に響く。

 彼の横顔はいつも通り静かで、どこにも感情の影がない。

 屋敷に戻る頃、私は小さく呟く。


「ありがとう、ユーリ」

「報告の一部として受け取ります」

「違うわ。これは報告ではなく感謝の言葉よ」


 そう告げると、彼のまつ毛がわずかに揺れた。それだけのことなのに胸の奥が少し熱くなる。


「あなたがいなければ、私はとっくに悪役令嬢として本当に終わっていたでしょうね」

「私は職務を遂行したまでです」

「ええ、そう言うと思ったわ。でも、それでもありがとう」


 春の風が過ぎていく。

 花も噂もやがて消える。

 それでも、彼への想いは消えない。

お読みいただきありがとうございました!

何気に連載版も爆速執筆中でございますので、少しでも面白いと思っていただきましたら、ブックマークをお願いします!

また、↓【★★★★★】の評価や、いいね!で応援していただけるととても嬉しいです。

それではまた( ´∀`)ノ

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