心神喪失/汝の意志はどこにありや?
心神喪失。
たとえ人を殺しても心神喪失している場合、刑法39条1項により無罪になるとされている。
具体的には妄想により、神に命じられたと思い込んで殺した場合などがそうだ。
なぜ心神喪失状態であると無罪になるかと言うと、心神喪失状態にある人間には責任能力が無いからで。
責任能力が無い心神喪失状態において人間は意志を形成できない……とされているからだ。
何より厄介なのは計画性があったとしても、必ずしも意志を形成しているとは言えないところだろう。
計画的に犯行を行っていても、そこに意志はなく、責任もなく、故に罪もない……というワケだ。
物騒な話だね。
さてと、昔話をしようか。
あれはまだわたしが高校生だった頃の話だ。
小説家になることを諦めきれずに家を飛び出した父親はどこに行ったかわからなくて。
再婚相手だった義母とは血が繋がっていないのもあって、折り合いが悪かった。
まぁ、向こうからしたら愛した男に逃げられて、勝手についてきたコブだけ残ったわけだし仲良くできる理由なんて何もないよね。
肉親と呼べるのは妹くらいだけど、あいつは何を考えているかよくわからないからほとんど会話することもなかった。
ちなみにこいつらはこっから先の話に一切登場しない。
むかつくから恨み言は書いたけど、姿一つ出てこない。
出てこないのに話したのには理由がある。
わたしが行った一連の異常行動には理由があったと先に明示しておかないと、ただの頭のおかしい奴だと思われてしまうかもしれないからだ。
いや、事実頭のおかしい奴なのかもしれないけど。それはそれとして、相応の理由……しがらみがあったということだけは伝えておきたかった。
わたしだって何もなしにこんなことをしたわけじゃないんだ。
それに異常行動と言ってもちょっと人を殺しただけなので、大したことじゃあない。
しかも、法的には特に罰されない……クリーンな身の上だ。
だから、安心して読み進めてほしい。
当時のわたしは大学に推薦で通って暇だった。
周囲があくせく受験勉強をしている間、やることがなかったんだ。
それがよくなかったのかもしれないね。
偶然、掲示板で噂になっているフリーゲームを見つけてそれで遊んだ。
タイトルは今でも覚えている「あ」だ。
なんだよ「あ」って。
でも、そういうタイトルなんだから仕方が無い。
おそらく適当に名付けられたであろうそのゲームは……一言で言えば自殺モノだった。
古いピクセルで構成された画面の中で、主人公らしき少女の戯画化された姿を操作する。
静かに不安を駆り立てるBGMから雰囲気ゲーとも言われていた。
あのゲームにクリア条件はなかった。
ただひたすらにマップに落ちているアイテムを拾ったり、配置されているオブジェクトに話しかけたりする。
そして、唐突に死ぬ。
花に話しかけると花に食べられ。
ロープを使うと首を吊り。
かまどを調べれりゃ丸焼けさ。
どうあがいてもゲームオーバー。
そんなゲームだった。
そんなのどこが面白いの? と思われるかもしれないけど、あのゲームは本当に人気があった。
まず内容が過激過ぎて、あらゆるプラットフォームで公開してはBANされている。
この時点でかなり面白い。
もうどこに公開しても弾かれるらしくて、匿名掲示板にゲームデータを流すという古典的な方法をとっていた。
不定期に実装される新しい死に方を求めて、わたしたちは掲示板に張り付いた。
死に方を解説してくれるわけではないので、自分たちで自殺方法を探す必要があった。
そのフリーゲームらしい不親切さがわたしたちを熱狂させた。
ちなみに死ぬと言っても一度死ぬと病院にリスポーンするので、おそらく助かっているのだろう。
少女の死で遊びたいわたしたちは病院に飛ばされてから何度も死のうとするんだけど。なぜかあのゲームは三回死ぬと病院ではなく、一面中黒い部屋に飛ばされて上下にも左右にも移動できなくなってしまう。
最初はバグなのではないかと言われていたものの、バージョンアップを重ねても修正されることがない点から仕様なのかもしれないと囁かれた。
「かもしれない」が確信に変わったのは、バージョン4,43でついに黒い部屋に飛ばされるとセーブデータそのものが破壊されるようになった日だ。
とんでもないことをする。
わたしたちは「まだ死んでいない」データを個別で保管して少女を自殺させる度にコピーし、少女を蘇らせた。
蘇らせたというのはおかしな話か。
あくまであれはコピーなんだから。
そんなことをしていると、ふとこんな事を思う。
この少女に意志はあるのだろうか。
いや、ただのゲームデータだし。
あるわけないというか……あくまでわたしが操って殺しているだけなんだけど。
もし自分がこの少女の立場だったらと自分を重ねる日も……ないではなかった。
今思えば、わたしがあのゲームにのめり込んだのは合法的に死ねるからだったのだろう。
なんというか、楽になりたかった。
死んでしまえば、面倒なことを考える必要はないから。
家がめちゃくちゃだからこそ、学校ではそれを悟られるわけにはいかなかった。
みんなが家族の話をする度に適当な嘘をついてごまかした。
嘘をついて嘘をついて嘘をついて。
嘘を重ねに重ねて。
せめてあの家族の中で自分だけはまともであろうと努力した。
うっとうしいしがらみはシャワーを浴びても、身体をカッターナイフで切り刻んでも除かれることはなかった。
ただただ関わりたくなかった。
わたしをこんな目にあわせた父親も、あんな奴を愛した愚かな義母も、何考えてるかわからない妹も。
ただ幸運に恵まれたというだけでわたしよりもしあわせそうにしている奴らとも。
なぜわたしだけがこんな目にあわなきゃならないんだ。
そう思っていた。
ゲームの中の少女に自分を重ねるうちに、わたしの自傷行為は増えていった。
少女が死ぬタイミングにあわせて自傷するようになった。
奨学金の案内が来た時、借りても返す時まで生きていないかもしれないなと思って、辞退した。
わたしは花に話しかけるようになった。
しばらく話しかけていたような気がするけど、こっちの世界の花はわたしを食べてはくれない。ゲームにのめり込む時間が増えた。
学校に行かなくなった。
誰もわたしを心配することはなかった。
当時、推薦が通った子は元々あまり学校に行かなかった。
新しい死、新しい死、新しい死。
よくもこんなに思いつくものだというくらいの多彩な自殺。
それを真似しているうちに。
だんだん取り返しがつかないところまでやってきて。
行き着くところまで行き着いてしまった。
「今更だけどこのゲーム……何人か殺してるんじゃないの?」
ふと、そう呟いた頃にはもう遅い。
わたしはやりすぎた。
自分という名のキャンパスはもう線を引くところがなくなってしまった。
ここまできてようやく、わたしは怖くなった。
「これもうバイトすらできなくない?」
わたしはなんて愚かだったのだろう。
そうなのだ。
自傷の跡は残る。
ずっとこれを抱えて生きていかなければならない。
わたしはわたしを台無しにしてしまった。
その取り返しのつかなさに、ここでようやく気がつくことになる。
面倒くさいことになった。
途端、わたしは半ば自動的にカッターナイフを手に取った。
死ねば楽になる。
そう思った。
「あっぶな」
なんとか心を強く持って自殺衝動をはねのける。
半ば自動的と書いたけど、体感的には全自動だった。
わたしはひどく混乱した。
今、確かにわたしは自傷しようとした。
でも、それを止めるためにわたしは拒んだ。
「嘘でしょ。これ、わたしの意志はどこにあるのよ……」
あまりにも日常的に自傷し続けた結果、身体が勝手に死のうとするのだ。
心を強くもたないと、すぐに心が闇に飲まれてしまう。
慢性的な自殺衝動。
耐えなければならないしがらみが、また一つ増えた。
こうしている間にも身体は死を求める。
わたしが何かに汚染されていることは、もはや間違いなさそうだった。
「待って待って待って……。これ、いつから?」
わたしはシーツを細く結んで自殺用ロープを作りながら思考を巡らす。
こんな状況だというのに頭は妙に冴えていた。
まぁ、普通に劣悪な家庭環境がストレスになっていたのだろう。
毎日朝から晩まで自殺するゲームで遊び続けたのも問題だったのだろう。
実際に自傷を繰り返したことも無関係とは思えない。
でも、これらすべてをわたしが自分の意志で選択したとは言いがたかった。
いや、選んではいるのだ。
一つ一つ検証していこう。
わたしは完成しつつあった首つり縄を放り投げ、紙に書いていく。
【父に着いていくという選択肢もあった】
――その場合、大学には行けなかっただろう
【自殺ゲームで遊ばないという選択肢もあった】
――わたしの好奇心は必ずあのゲームを選ぶだろう
【自傷しないという選択肢もあった】
――ストレスがなくなるわけではないので、別の異常行動をしていただろう。たとえば家族を殺すとか
こうして並べると瞭然だった。
人間は常によりマシな選択を選ぼうとする。
選んだ結果が今なのだ。
仮に時を巻き戻すことができたとしても、わたしは同じ選択をするだろう。
だとしたら、わたしに意志があったとして果たしてどれだけの意味があるだろうか。
正直、意志とやらがあるかも疑問だ。
わたしはすべてが終わってから後出しで、過去のわたしに責任を取らせようとしているだけだ。
お前が選んだんだからお前のせいだと。
お前が自分の意志で選んだんだろうと。
そう糾弾したがっているだけだ。
わたしがゲームで遊ぶことを選んだ時、そこまで強い意志を発揮していただろうか。
なんとなく選んだだけだったんじゃないか。
意志なんて本来はその程度のものでしかなくて。
人を形作っているのはそんな適当な積み重ね。
そんなものを引き合いに出して、何か問題が起きたら後出しで「そうしたいという意志があったはずだ。だから責任をとれ」と糾弾の材料にしているだけなのでは……。
そう思うと自分自身の存在がひどく薄っぺらいドット絵みたいに思えてくる。
わたしは誰かに操作されているかのように家を飛び出す。
ホームセンターで練炭と七輪を手に取りレジに並ぶ。
お金を出そうとして、自分の行動の意味に気づく。
心がわずかに抵抗していた。
かすかに引っかかった指でこじ開けるように勇気を引きずり出す。
「すみません、やっぱりやめます」
死にたくなかったからじゃなかった。
自宅で練炭自殺した場合、何かしらの事故があって家が燃えたらあいつらも死ぬかもしれないからだった。
この期に及んでそんな理由かよ。
自分の心に驚いた。
わたしはわたしのことを何も知らない。
ただ、あいつらを殺さないために自傷を選んでいた側面もあるので行動は一貫している。
考えてみればかわいそうなのは義母の方だ。
カスみたいな男に惚れたせいで、かわいげのないコブを二つも育てなければならない。
妹も無事ではないだろう。
あいつは父親の事をかなり好きだったはずだ。
どうやって今の状況を耐えているんだ?
今更、そんなことを考えるようになって涙が出た。
ここまで情緒が不安定になってくると、流石に自分がおかしいことに気づく。
自傷しまくってるあたりで気づけよという話なんだけど、気づいたのはこのタイミングだった。
もっとしっかり生きればよかった。
それから家族にこれまでのことを話して、和解して、めでたしめでたし……みたいなよくある展開にはならなかった。
もはやこのわたしに意志はないのだ。
意志なき者は何も愛せない。愛されることもない。
愛されたとしても気づけないだろう。
あの子もそうだったのかな。
わたしにあのドット絵の少女が重なる。
散々操って殺したからな、今度はわたしが操られる番だ。
これまでごめんね。
ここからは君の番だよ。
幾多の死を遂げたドット絵の少女が笑う。
それからというもの、もはや自傷などという生ぬるい選択肢はなくなった。
死を求め、ひたすら自殺行為を繰り返したことでわたしは入院した。
あのゲームの作者は逮捕されたらしい。
わたしみたいになった人が他にもいたのかもしれない。
まぁ、そうだろうなと思う。
こっちは被害者といえば被害者なのかもしれないけど、恨みはない。
あの作者はよくわかっている。
病院にリスポーンしたということは残りの自殺可能回数は二回が限度。
それ以上は拘束されて、身動きがとれなくなる。
保険はあるけど。
もう、失敗は許されないと考えた方がいいだろう。
でも大丈夫。
わたしはあのゲームを黎明期からやっている。
これまで実装されたあらゆる死に該当しない、新しい死を選べばいい。
「これでゲームクリアだ!」
わたしは心神を喪失し、病院の四階から飛び降りた。
終