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公女様、いい加減にしてくださいますか? ~女装男子レナちゃんは、男として見られたい~

作者: はづも

 伯爵家の嫡男、レナード・ホーケンは悩んでいた。

 公女様と婚約してからここまでの10年ほど、ずーっとずーっと悩んでいた。


 ある日の午後、ケレット公爵邸のガゼボで「女性二人」のお茶会が開かれていた。

 随分と和やかな雰囲気だが、話しているのはこの家の令嬢・アナスタジアだけだ。

 向かい合うもう一人の女性は、ただただ穏やかに頷くのみだった。返事こそしないものの、彼女がアナスタジアに向ける視線は優しい。

 静かに話を聞く彼女の柔らかな茶髪は、綺麗に編み込まれている。露出のないフリルたっぷりのドレスに、首元にはチョーカー。彼女が一切声を出さないことも相まって、まるで愛らしい人形のようだ。

 メイドによって何度かお茶のおかわりが注がれたころ、男性の使用人がそっと二人に歩み寄った。


「お嬢様。そろそろお時間です」

「あら、もうそんなに経ったの?」


 アナスタジアは少々残念そうにしながらも立ち上がる。きっと、お茶の時間が楽しかったのだろう。

 けれどすぐに気を取り直し、ぱっと明るい表情でもう一人の女性に向かって手を差し出した。


「じゃあ、行きましょうか。レナ。今日はあなたの新しいドレスを仕立てるわよ」


 しかし、相手の女性――レナはアナスタジアの手を取ろうとしない。

 きょとんとするアナスタジアの前で、彼女は俯き肩を震わせた。


「レナ? どうしたの?」

「……レナ、じゃない」


 その声はぽつりと小さくて、けれど確かな怒りを孕んでいた。

 レナはばっと勢いよく立ち上がると、こう叫んだ。


「俺は、レナードです!」


 必死に訴えかけるような低音が、庭に響き渡った。

 座っているときはわかりにくかったが、身長もアナスタジアとは頭一個分ほど違う。

 低い声も、その背の高さも、女性のものとは考えにくかった。

 レナと呼ばれたふりふりドレスの彼女は――「彼」だったのだ。


***


 レナード・ホーケンは伯爵家の嫡男として誕生した。

 ホーケン伯爵家はこのバルツ王国の重役を任されてきた、由緒ある家系なのだが……。

 レナードが生まれる前に戦争が起き、終戦後には戦時下の働きが評価された者たちに爵位が与えられた。

 ホーケン伯爵家はそうした新興貴族たちに押され、レナードが物心ついたころには以前の権威を失いつつあった。

 そこでホーケン伯爵は、息子を有力な貴族と婚姻を結ばせ、力を維持することを考えた。

 そうしてまだ幼いレナードが対面することになったのが、公爵家の長女・アナスタジアだ。

 

 ケレット公爵家に初めて足を踏み入れたとき、まだ7歳のレナードはたいそう緊張していた。

「伯爵家の未来はお前にかかっている」「なんとしてもアナスタジア様に気に入られてこい」なんて父に言われてきたのだから、当然だろう。


(絶対に、失礼のないように。アナスタジア様に、嫌われないように……)


 公爵家のサロンに通され、父とともにアナスタジアを待つレナードは、何度も深呼吸を繰り返した。

 父が言うには、アナスタジアは男子があまり好きではないらしい。これまでにも多くの貴族令息が彼女に会ってきたが、みなが無視されたり罵倒されたりして撃沈しているそうだ。


(僕みたいな男が多くて、嫌になってるんだろうな……)


 ケレット公爵家は、この国で最も力のある貴族だ。新興貴族が増えた今でも、その権威は揺らがない。

 そんな家に生まれたアナスタジアは、きっと、今のレナードのような男たちに繰り返し言い寄られて、辟易してしまっているのだろう。

 彼女の心情を表すかのように、約束の時間になっても公女様は現れない。

 レナードは、まだ見ぬ公女に心の中で同情した。


「あの、お手洗いをかしてもらえますか……」


 アナスタジアを待つ間、レナードは緊張のあまり何杯もお茶を飲んでしまった。

 そのために尿意をもよおし、公爵家の使用人に案内されて席を立つ。

 これから未来のお嫁さんに会うかもしれないというのに、なんとも情けないことだ。

 トイレを出たレナードは、居たたまれない気持ちのままサロンに戻ろうとして……道に、迷った。

 このときのレナードは気がついていなかったが、サロンからトイレまでは距離も短くほぼ一本道だ。だから使用人も帰りの案内まではいらないだろうと考え、控えていなかった。


 しかし、初めて公爵家にやってきたレナードはそんなことに気が付かない。

 サロンへの戻り方がわからない彼は、うろうろと公爵邸を歩き回る。

 そうして、なぜか庭に出て――。絶対にこっちじゃないと思いつつも、もうどうにもならなくて――。

 芝生にしゃがみこんでべそをかいていると、彼の前にすっと影が落ちた。


「……どうしたの?」


 そう声をかけられて、瞳に涙をためたレナードが上を向く。その先には、長い金の髪に、赤い瞳をした女の子がいた。

 年齢は同じくらいだろう。釣り目できつそうな印象だが、こちらに向ける声色は柔らかい。

 

「……道に、迷っちゃって」


 レナードはごしごしと自分の目元をぬぐう。泣いているところを女の子に見られたことが、恥ずかしかったのだ。


「ふうん、そうなの」


 金髪の少女は、興味なさげに短くそう言うとレナードの隣にどさりと座った。


「あなた、名前は?」

「え、えっと……。レナー……」

「レナね」


 彼女の質問に答えようとしたら、その途中でぴしゃりと言い切られてしまう。「レナ」ではなく「レナード」だと訂正したかったが、意気消沈している今はそんな気力もなかった。


(この子……誰だろう……)


 年の近い、金髪の女の子。ここまでは、父から聞いていたアナスタジアの情報と一致している。けれど、彼女の服装は装飾のないシンプルなワンピースで、髪も乱雑に一つに括っている。

 どちらかといえば、使用人の娘と言われたほうがしっくりくる格好で……彼女が公女様だとは、どうにも思えなかった。

 名前を聞いてみよう、とレナードが口を開くより先に、彼女が話し出す。


「……レナは、なんでそんな格好してるの? 男の子みたい」

「え? なんでって……」


 今のレナードは、スラックスに白いシャツ、ベストを着用していた。外行き用の出で立ちだ。

 なんでそんな格好をしているのかって、「男の子みたい」ではなく、正真正銘男だからだ。そう答えようとしたのだが、またしても言葉を遮られてしまう。


「レナは可愛いんだから、もっとこう……ふりふりのドレスとか着たほうがいいわ! ついてきて!」

「えっ、ちょっ……」


 少女は立ち上がると、強引にレナードの手を引いた。

 どうやら女の子だと思われているようだが、レナードはれっきとした男だ。

 紳士として教育を受ける彼には、女子の手を無理に振り払うことなどできなかった。

 それから――単に、この年齢では男女差はなく、力で勝てなかった。


 そうして、レナードは公爵家の一室に連れていかれた。

 その部屋はレナードの私室と比べても豪華で、到底、使用人の娘のものだとは思えない。

 女の子らしい装飾から見て、客室というわけでもなさそうだ。

 戸惑うレナードをよそに、少女はてきぱきとメイドたちに指示を出す。メイドも少女のことを疎かにしたりせず、「お嬢様」と呼んで従っていた。


(この子って……もしかして……?)


 レナードがそう思い始めた頃には、愛らしいドレスを持ったメイドたちがずらりと並んでいた。

 嫌な予感がしたレナードが後ずさりするが、ドアがあるのはメイドたちに塞がれた前方だ。既に逃げ場はなくなっていた。

 彼をここに連れてきた少女はといえば、「うーん」「そうねえ……」なんて言いながら、ドレスを物色している。

 

(……自分で着るドレスだよね? あの子が自分で着るんだよね? 僕じゃないよね?)


 レナードはだらだらと冷や汗を流しながらも、成り行きを見守る。

 すると少女は、最もふんだんにフリルが使われたドレスとレナードとを交互に見やり――。


「これにしましょう!」


 と大輪の花が咲くかのように笑った。

 対する使用人の返しは、「承知いたしました、アナスタジア様」だ。


(やっぱりこの子が、アナスタジア――!)


 そう理解するやいなや、レナードはメイドに囲まれ、ふりふりドレスに着替えさせられるのだった。

 その後レナードは、アナスタジアとメイドたちに大げさなほどに褒められた。

 特にアナスタジアは大興奮で、「私のドレス、全部あげるわ!」なんてことまで言い出した。


「ほんっとうに……本当に可愛い……。レナはまるで妖精さんね……」


 そう言いながら、アナスタジアはレナードの頬に触れる。彼女の赤い瞳はうっとりと細められ、ほう、と満足げに吐息を漏らしている。

 たしかにレナードは、これまでにも美少女のような美少年として容姿を褒められてきた。

 ふわふわの茶髪は柔らかそうで、優し気な緑の瞳は穏やかながらも儚い雰囲気を醸し出している。

 まだ7歳と身体つきにもほとんど性差がないこともあり、女の子に間違われることも多々あったものだ。

 しかし男のプライドがある彼としては、美少女扱いは不服で、認めたくないものだった。決して、歓迎などしていなかったのだ。

 なのに、女の子に間違われてふりふりのドレスを着せられてしまった。


(僕は……僕は……男、なのに……)


 レナードのプライドは、もう粉々だった。

 そんな彼に、アナスタジアは嬉々として話しかける。


「レナ、もっと色々着てみない? ドレスならたくさんあるのよ」

「い、いえ……僕は……」

「……僕?」


 目の前のアナスタジアに首を傾げられ、ハッとする。


(男だって、言っていいのか……?)


 雰囲気からして、このドレスはアナスタジアのものなのだろう。

 もしも、自分のドレスを貸した相手が男だとわかったら……? 

 それも、婚約者候補として会いに来た伯爵家の男だなんてバレてしまったら……?


(絶対、嫌われるっ……!)


 そう直感したレナードは、男だとは言い出せないままドレスを着続けた。

 結局、その日の最後には本当の性別も身分もアナスタジアに知られてしまったのだが――どうしてか、彼女は怒ったりしなかった。

 それどころか、別れ際に彼女はこう言ったのだ。


「ねえ、レナ。また来てちょうだい」


 その時のいたずらっぽく笑う彼女を、レナードは10年経った今でも覚えている。


 以降も何度かお互いの家を行き来して、そのたびに「レナ」と呼ばれて女装を強要された。

 屈辱的ではあったが、アナスタジアが目を輝かせてこれ以上ないほどに喜ぶから、「まあいいか」という気分になった。

 可愛いよりかっこいいと言われたいが、女の子の喜ぶ顔を見ることができるのは悪くない。

 それになにより、彼女とは家柄が違いすぎるし、親にも絶対に機嫌を損ねるなと言いつけられているから、断ることもできなかった。

 そうして、初の女装から半年ほどが経ったときには、二人の婚約は成立していた。

 公女との婚約が決まった、と告げられたとき、レナードはほっとした。


(これで、もう女装しなくてもいいんだ……)


 アナスタジアには、ずっと女の子扱いされてきた。だから彼女は、自分のことを男ではなく同性の友人として見ているのではと感じていた。

 けれど、婚約者として認められた。つまり彼女は、レナードのことを男と認識しているのだ。

 なら、もう女装などさせないはずだ。だって、レナードは男で、彼女の婚約者なのだから。男らしくあってほしいに違いない。

 そう思ったのも束の間で、父は言いづらそうにこうも続けた。


「……それでなんだが、公女様に会うときは、必ず女装してほしいそうだ。それが守れないなら、婚約はできない、と」

「……は?」


 レナードは、耳を疑った。


***


 婚約者に会うときは、必ず女装する――。

 レナードがその約束を違えることなく、10年が経った。

 出会ったときにはともに7歳だった二人も、もう17歳になった。

 最初は、アナスタジアと女装したレナードが並んでも全く違和感はなかった。

 どこからどう見ても可愛らしい女の子同士で、声を出したって片方は男の子だなんてわからなかった。

 違いがあるとすれば、アナスタジアは快活なタイプで、レナードはふわふわお嬢様系の装いをしていたことくらいか。

 しかし、それも第二次成長期を迎えるまでの話だ。


 レナードは14歳のころにはアナスタジアの身長を抜き、以降もめきめきと成長し続けている。

 彼の身長は180センチに届きかけており、声変わりだって済んでいる。声を出せば一発で男とバレるだろう。

 男らしく、喉仏も出てきた。手足もごつごつとし始め、腕回りや胸板にも筋肉がつき、身体も分厚くなってきている。

 それでも「もう女装しなくていいよ」なんて言われることはなく、本日のレナードもふりふりのドレス姿である。


(無理があるだろ……)


 伯爵家の私室で、レナードがそれは嫌そうに鏡を見つめる。

 そこに映るのは美少女などではない。かつらをつけ、女の格好をした、まあまあ大きな男だ。

 露出を減らしてチョーカーもつけ、身体の線の違いをごまかしてはいる。けれど、今の彼を女性だと思う者はそうそういないだろう。


(いや、本当にこれ、どうするんだよ……。かなりきついぞ……)


 どうしてこんなことになったのかと、レナードはうなだれる。できることなら、かつらもドレスも今すぐ脱ぎ去りたい。

 しかし無常にも使用人から声がかかり、彼は渋々部屋を出た。そろそろ公女様に会いに行く時間なのだ。

 これでも、普段のレナードはそれなりに女子に人気がある。

 幼少期に美少女と間違われていただけあって、成長後は美青年となったのだ。

 だが、もしもこの姿を他人に見られたら、皆ドン引き間違いなしだろう。


(絶対見られないようにしよう……)


 レナードが女装していることは、ホーケン伯爵家とケレット公爵家だけの秘密だ。よその者に知られてたまるものか、というのがレナードの素直な気持ちでもある。

 彼は家の真ん前につけた馬車に乗り込むと、一度もカーテンを開けることなく婚約者のもとへ向かった。

 二人は、基本的に王都のタウンハウスで暮らしている。たまに領地に戻ることもあるが、それも稀だ。だからすぐに会えてしまう。

 女装を強要される彼には、その近さが少し憎らしく思えた。



「レナ!」


 レナードがケレット公爵家に到着すると、それを聞きつけたアナスタジアがぱたぱたと早足で迎えてくれた。

 彼女は「会えて嬉しい」という気持ちを前面に押し出した笑みを浮かべていて、可愛らしい。

 しかしそこから、恋愛感情などは一切読み取れない。レナードに対して照れるとか、頬を染めるとか、彼女はそういった顔をしないのだ。

 こんな二人だが、流石に公の場では男女の婚約者として振る舞い、彼が彼女をエスコートすることもある。

 レナードが彼女の手の甲にキスをしたり、腰を抱いたりしたこともある。

 そういうときは、彼女も淑女として恥じらうフリをしてくれることもある。

 けれどもプライベートでは、彼女はレナードのことを同性の友人として扱っているようにしか思えなかった。


(この前、『レナじゃなくてレナードだ』って言ってみたけど……。特に変わりはないな……)


 彼が「自分は男だ」と主張したのはつい最近のことで、大体、二週間前ぐらいだろうか。


(もしかしたら、何か変わるかもと思ったけど……。ダメか……)


 ねえレナ、と楽しそうに話し出すアナスタジアを横目に、レナードは小さく息を吐いた。

 レナ、と呼んで女扱いしてくる彼女に反抗したのは、あれが初めてだった。

 レナードはこれまで、婚約者に女の子扱いされても、女装を強要されても、ずっと我慢してきた。

 二人の婚約には、政略的な意味合いがある。

 この婚姻でアナスタジアがどう得するのかはよくわからない。けれど、ホーケン伯爵家としては公爵家を後ろ盾にしたくて仕方がないのだ。

 なのに、もし婚約解消なんて話になれば、レナードは父に大目玉を食らうだろう。最悪、役立たず扱いをされて家から追い出されかねない。

 だから、女装なんて嫌だし、彼女に男として見てほしくても、それを言い出せずにいた。


(あー……。俺、一生このままなのかな……)


 アナスタジアには男兄弟が二人いて、公爵家は男子のどちらかが継ぐ予定だ。そのため彼女は、将来的にはホーケン伯爵家に嫁入りすることになる。

 このまま結婚したら、今度は「女装し続けないと離婚する」とでも言われそうだ。

 アナスタジアに「ねえねえ」と手を引かれながらも、レナードは遠い目をした。

 アナスタジアが甘えるように手を絡めてきて、レナードの腕にはふにっとしたものが当たる。ちらりと目をやると、やはり彼女の胸が腕に触れていた。

 レナードはその感触にどぎまぎしているが、彼女のほうは全く気にしていないようだ。

 

(この瞬間を楽しみにしてるなんて知られたら、どうなることか……)


 レナードはできる限り平静を装いつつも、無防備に触れてくる彼女の柔らかな感触を堪能した。

 女装したレナードがケレット公爵家でやることは、アナスタジアのお茶の相手、散歩、刺繍、彼女の着せ替え人形になる、などだ。

 その間、レナードはなるべく喋らない。声変わりをしたころ、アナスタジアに残念そうに「男の子みたい……」と言われてしまったからだ。

 以降、男っぽさを少しでも抑えるため、黙って微笑んだりうなずいたりするよう努めている。


(一人で喋って、楽しいのかねこのお嬢様は……)


 今は、アナスタジアと刺繍をしているところだった。広いテーブルを一緒に使っていて少し距離があるが、そのあいだも彼女は一方的に話し続ける。


「わあ、やっぱりレナは刺繍が上手ね。家でも練習してるの?」

「ほら見て、私の刺繍。モチーフは同じはずなのに、出来が全然違う。あなたのがクローバーなら、私が作ってるのは名もない草ね。緑なことしか一致してないわ」

「レナはきっと、いいお嫁さんになるんでしょうね……」


 アナスタジアはレナードのそばに来て手元を覗き込んでは、そんなことを言って作業に戻る。


(俺はあなたの旦那になる男ですが……?)


 レナードはそう突っ込みたい気持ちを抑え、お淑やかな笑みを作った。

 どうせ、勝手に喋らせておけばいずれは満足するのだ。好きに言わせておけばいい。

 そう思い、手元に目線を戻す。しかし、続くアナスタジアの言葉に、レナードはばっと顔を上げることになる。


「ねえレナ。今日、うちでお泊まり会をしない?」


 アナスタジアが、屈託なく笑ってこう言ったのだ。

 

「……は?」


 驚きのあまり、うっかり声が出てしまった。だがアナスタジアがそれを気にする様子はなく、彼女は上機嫌に続ける。


「実はね、おじさまにはもう許可をもらってるの」


 おじさまというのは、レナードの父のことだ。

 どうやら、レナードの知らぬところでお泊まり会の話が進んでいたようだった。

 そういえば、今日は荷物も多かったような気がする。きっと、あれはお泊まりに備えていつもより余分に荷を積んでいたのだろう。


「いや、その……。泊まりは、ちょっと……」


 レナードは思春期の男だ。

 婚約者の家に泊まりなんて言われてしまったら、当然あんなことやそんなことを想像する。

 けれど、同性の友人としか見られていない彼が、アナスタジアに手を出せるわけもない。

 うっかり変な触り方をして、婚約破棄でもされたら大変だ。

 それに、もっと大きな懸念もあった。


(泊まったりしたら、夜も朝もずっと女装なんじゃ……)


 そう考えると、泊まりはなんとしても回避したかった。

 レナードは、どうにかして断ろうと考えを巡らせる。もう刺繍などしている場合ではなくなり、布も刺繍枠もテーブルに放り出した。

 公女様のご機嫌を損ねない言い回しを探してうーんうーんと唸っていると、いつの間にか、アナスタジアが目の前に来てじーっとこちらを見ていた。

 レナードは驚いて立ち上がり、あまりの距離の近さに硬直する。そうしていると、彼女は彼の手を取り、両手でぎゅっと包み込んだ。


「ね? いいでしょ? 私、お泊まり会ってずっとしてみたかったの。ほら、私って、ちょっと距離を取られがちじゃない? だから、お友達とお泊まりなんて、したことがなくて……。こんなことお願いできるの、レナだけなの。……ダメ?」


 潤んだ赤い瞳が、レナードを射抜いた。

 婚約者のおねだりに、うっとレナードが胸を押さえる。

 たしかに、アナスタジアには同性の友人もあまりいない。筆頭公爵家の娘だからか、周りの女子たちも彼女には遠慮してしまうのだ。

 お友達になりたくても取り巻きのようになってしまう、みんな自分の言葉に従うだけで普通にお喋りできない、といった相談も受けたことがある。

 彼女の言う通り、楽しくお泊まり会ができるかもしれない相手は、レナードしかいないのだろう。


「っ……」


 レナードは苦悶の表情で天を仰いでから、こくりとうなずき彼女の頼みを聞き入れた。


 その後は散歩やお茶をしているうちに時が経ち、夕食を経て夜を迎えた。もちろん、そのあいだ女装しっぱなしだ。

 夕食はアナスタジアの家族も一緒で、彼女の両親には「娘のわがままを聞いてくれてありがとう」「娘を任せられる人はあなたしかいない」などと持ち上げられた。

 しかし、居合わせた彼女の兄は申し訳なさそうに目をそらすだけだ。


(お義兄さんの反応のほうが、正常だよなあ……)


 そう思いながらも食事を終え、夜の支度をする時間となった。

 風呂にまでアナスタジアの侍女がついてきそうになったから、それは流石に断る。

 アナスタジア側の者を浴室に侵入させなければ、入浴後はいつもの……男の格好ができるだろう。

 しかし、侍女に「では、入浴後はこちらを着用してください」とワンピースタイプの夜着とかつらを渡されてしまい、その目論みは儚くも砕け散る。


 夜着に袖を通し、かつらをかぶって浴室を出ると、待ち構えていた侍女に「ではこちらに」と屋敷のどこかへ連行される。

 行き先は、アナスタジアの私室だった。

 

「いらっしゃい、レナ。今晩はたっくさんおしゃべりしましょ」


 女の姿をしたレナードを見て、アナスタジアは嬉しそうに微笑む。

 彼女はぱたぱたとレナードに近づくと、彼の手をとって部屋の奥へと進んだ。

 先に入浴を済ませていたようで、アナスタジアも夜着だ。初めて見る姿に、レナードも釘付けになってしまう。

 

(いい匂いもする……)


 公女の彼女からは、いつだってふわりとよい香りがする。きっと、公爵家の娘というだけあってよい香水を使っているのだろう。

 でも、今の彼女は、普段のそれとは少し違う。香油や石鹸の香りが混ざって、まさに風呂上りといった感じだ。


(最初はお互い子供だったけど、アナスタジアももう女性なんだよな……)


 初めて会った時の彼女は、使用人の娘と間違うような格好をしていた。もちろん、身体の作りだって男児と大差なかった。

 しかし今は、胸は膨らみ、清楚なワンピースタイプの夜着から覗く足は華奢で、首や肩だって細くて……。と、女性らしい体つきに変化している。

 腰まで伸びる金の髪も美しく、触れればさらさらとして心地いいだろう。

 赤い釣り目はきつい印象を与えて周りを萎縮させがちだが、今はふにゃふにゃと細められている。


(……可愛い、んだよな。俺の婚約者様は……)


 こんな彼女だが、普段は公女として凛と振る舞うことが多い。レナードの前ではふわふわにこにこしていても、外では人に媚びることなどないしっかりしたお嬢さんなのだ。


(正直、このギャップは結構くるものがある……)


 彼女の無邪気な笑顔は、自分だけのものだ。そう思うと、どこか優越感もあった。

 そんな考えに浸っていると、くいっ、と服を引かれる感触がした。顔を上げると、その先にはどこかを指さすアナスタジアがいた。


「レナ! 何してるの? こっちでお話しましょ?」


(こっち、って……。ベッド!?)


 そう、アナスタジアが示す方向には――彼女が普段使っているのであろう、ベッドがあった。


(べ、ベッド!? それは流石にまずいだろ! 主に、俺の理性が!)


 まさかのお誘いに、レナードは硬直する。

 彼としては、ソファに並んで腰かけて話すぐらいで済むと思っていたのだ。ベッドは予想外だった。


(男女でベッドって、それは、それはもう……!)


 レナードの中で、あらぬ妄想が膨らむ。

 さらには、アナスタジアがベッドに腰かけて自分の隣をぽんぽんと叩き、「ね? 来て?」なんて言い始めたものだから、理性が壊れそうになる。


(いい、のか……?)


 ごくりとレナードが喉を鳴らす。今の彼からは、同性の友人などという偽の建前はなくなって、「男」になりかけていた。

 鼓動が早くなり、心臓はばくばくと音を立てる。

 男女としての同衾。レナードがそんな考えに頭を支配されかけたとき、アナスタジアはベッドにぽすりと横になり、不服そうにこう言った。


「レナちゃん早く~」


 この一言で、レナードはようやく今の自分の姿を思い出す。

 ふわりとした長髪のかつらに、女性用の夜着。今のレナードは、「レナード」ではなく「レナ」なのだ。

 同性の友人の「レナ」に対するベッドへのお誘いに、深い意味などありはしない。


「あ、公女のベッドだからって遠慮してる? いいのよ。あなたは私の一番のお友達なんだから」


 アナスタジアはベッドにころころとしながら、得意げにそんなことを言う。レナードの気持ちになど、全く気が付いていないのだろう。

 自分がベッドに誘っている相手が男だなんて、きっと微塵も思っていないのだ。

 レナードはこれまで、彼女のわがままに付き合い続けてきた。しかし、これは流石に看過できない。男をわかっていなさすぎだ。


(男心を弄びやがって……!)


 そんな怒りに駆られた彼は、彼女のお望み通り、一歩、また一歩とベッドに近づく。

 対して、アナスタジアは「やっと来てくれた」とでも言いたげな顔で無邪気に喜んでいる。

 今は、彼女のそんな反応ですら憎らしい。


「……レナ?」


 レナードがベッドに上がると、アナスタジアがきょとんとこちらを見上げてくる。


「……いい加減にしろよ、公女様」


 彼は、アナスタジアに覆いかぶさっていた。


「レナ? どうしたの?」


 この展開は、アナスタジアとしても予想外だったのだろう。戸惑った様子だが、怯えてはいない。その反応が、また癇に障る。

 レナードはチッ、と軽く舌打ちをするとぐっと彼女に近づいた。


「……アナスタジア。前にも言いましたよね。俺は、『レナ』ではなく、レナードです」

「……」


 言いながら彼女の柔らかい頬に触れると、アナスタジアがぴくりと身震いした。


「な、なに言ってるのよ、レナ。ふざけるのはこのくらいにして……」

「ふざけてなんかいません。俺は男なんですよ、公女様」


 レナードは不遜に笑うと、ばさりとかつらを取り外した。すると、男らしい短髪に早変わりする。

 その姿を見たアナスタジアが目を見開いたものだから、レナードの加虐心が刺激される。

 続けて、彼はぐいっと夜着を脱ぎ捨てた。上体を隠すものはなくなり、彼の逞しい肉体が露になった。

 当然、そこに女性らしい胸の膨らみなどない。引きしまった身体は、どう見たって男のものだった。


「……アナスタジア」


 かつらを取り、上体をさらした彼がアナスタジアの耳元で彼女の名を呼ぶ。

 彼の手は彼女のお腹のあたりを這い出して、アナスタジアからは、ひっ、と吐息が漏れた。


(……このへんでやめておくか)


 こんなことをしたレナードだが、このまま事に及ぶつもりなどなかった。彼女があまりにも男を分かっていないから、ちょっとだけ、脅かしてやろうと思っただけなのだ。

 レナードはすっと身体を起こして彼女から離れ、少し距離をおいたところに腰かけた。

 二人のあいだに、しん、と気まずい空気が流れる。


(……やりすぎたか?)


 レナードがちらりと横目でアナスタジアを見やる。彼女は、仰向けになったまま茫然としているようだった。

 散々女扱いされて、あまりいい気分ではなかったのは事実だ。今回に関しては、彼女の方も考えが甘かったといえるだろう。彼女がレナードに我慢を強いてきた結果でもある。

 けれど、レナードの中で、彼女を傷つけてしまったことに対する後悔が湧き上がり始めていた。

 もう遅いかもしれないが、彼は彼女に誠心誠意謝ることを決めた。


「……アナスタジア。俺……」


 しかし、レナードが謝罪の言葉を紡ぐよりも先に、アナスタジアが小さな声で話し始める。


「……ごめんなさい、レナ。いいえ、レナード」

「……!」


 二人きりの場で、彼女に「レナード」と呼ばれるのは初めてだった。

 それから、彼女はぽつぽつと自分の思いを吐露し始める。


 筆頭公爵家に生まれたアナスタジアは、幼い頃から多くの男児に擦り寄られてきた。

 彼らの目的は、アナスタジアと結婚して公爵家の後ろ盾を得ることだ。みな彼女の機嫌をとろうとして、にこにこと愛想よく振舞った。

 当時のアナスタジアはまだ幼かったが、彼らの目的には気が付いていた。家柄だけが目当ての男児たちと会うことに、辟易していた。

 拒絶した途端に乱暴な言葉を吐いてくる男子もいて、男の子に会うなんて嫌で嫌で仕方なかった。


「……それでね、『麗しの公女様』のイメージを、最初から崩してやろうと思ったの」

「最初に会ったときの格好は、それでか……」


 初対面のとき、アナスタジアは使用人の娘のような格好をしていた。あれは男避けのためだったようだ。

 しかし、公女とその婚約者候補として対面する前に、二人は出会った。

 

「妖精みたいに可愛かったし、『レナ』って名乗るから、女の子かと思っちゃったわ」

「俺が『レナード』と名乗ろうとしたのを、あなたが早とちりしたんでしょう」

 

 レナードがそう口を挟んだが、アナスタジアは愉快そうに笑うだけだ。


「その日会う予定だった男の子だって知ったときは、びっくりしたけど……。でも、こんなに可愛い子ならまた会ってもいいかなって思ったの。女の子みたいだから、怖くないなって」


 アナスタジアが「道に迷ってべそをかいてて、可愛かったし」と続ける。その隣で、レナードは不服そうに唇を尖らせた。


「……それからも、あなたはずっと私のお願いを聞いてくれた。男の子が苦手な私のそばに、女の子としていてくれた。私、同性の友人と理解ある婚約者が同時にできたようで、とっても嬉しかったのよ?」


 アナスタジアが微笑む。その表情からは信頼が読み取れて、レナードは思わず目をそらした。


「……俺は、家のためにあなたを、いえ、公女を狙っていた数多の男の一人にすぎません。無茶な頼みを聞いたのだって、あなたの機嫌を損ねないためで……」

「あら? 本当にそれだけだった?」

「そりゃ、そう、で……」


 そうですよ、と答えようとしたレナードが、途中で言葉を止める。

 少し時間をおいて、彼の顔はだんだんと赤く染まっていく。


「……女装はしたくなかったけど、それ以上に、あなたが喜んでくれるのが、嬉しかった。この人の笑顔は俺だけのものだという、優越感も……」


 そこまで言ってから、レナードはハッとして口を閉ざした。

 慌てる彼を見て、アナスタジアはくすくすと笑っていた。


「あのね、レナード。私、同性の友人としても、男性としても、あなたのことが好きだったのよ? こんなわがままを聞いてくれる人、あなた以外にいないわ。……ちょっと、女の子扱いしすぎちゃったけどね」


 アナスタジアは、恥じるレナードを後ろからそっと抱きしめる。

 彼の素肌に、彼女の身体の感触と体温が伝わってくる。


「あなたは、婚約者の無茶なお願いまで聞いちゃう、男気のあるとっても素敵な人。私のことを見守ってくれる、とても優しい人」

「アナ、スタジア……」


 耳元でそう囁かれて、レナードの頭はくらくらし始める。背中には柔らかな胸まで当たっていて、もう理性の限界だった。

 耐え切れず、レナードがアナスタジアをベッドに押し倒した。

 彼女もまた、彼の首に手を回し、受け入れる態勢だった――と思いきや、彼女ははあはあと息を荒げ、興奮した様子でこう言った。


「ねえ、レナード。かつらと夜着をもう一度着てくれない?」

「……は?」


 彼女にキスを落とす気満々だったレナードは、ぴたりと動きを止める。


「あのね、私、男性としてのあなたもこれからは受け入れていこうと思うの。今まで我慢させてごめんなさい。でも、でもね、さっき、女の子の姿のまま押し倒されたのも、なんだかすっごくよくて……」

「……」


 矢継ぎ早にそう話す彼女は、身体をくねらせ興奮している。

 レナードは、信じられないものを見た気分だった。

 とりあえず、一旦ベッドから降り、かつらとワンピースタイプの夜着を身に着ける。

 そのままアナスタジアにのしかかると、彼女は「きゃー!」と黄色い声をあげた。


「わわ、わわわ……。わわわわ……。レナ、レナ、ちゃ……」


 よほど気に入ったのか、アナスタジアは語彙を失っていた。

 そんな彼女とは対照的に、レナードの気分は急降下する。

 結局その晩のレナードは、女の子の格好をしたまま、アナスタジアに抱き枕にされて終わるのだった。



 この夜をきっかけに、レナードとアナスタジアの関係は少し変わった。

 次に会うときは女装しなくてもよい、と言われたのだ。

 そう告げられたときのレナードは、ようやく男として認められたのだと意気揚々とした。

 しかし、その期待はすぐに裏切られた。

 毎回じゃなくていいから、三回に一回ぐらいは女装してほしい。アナスタジアは、そうお願いしてきたのだった。


「ど、どうして……」


 そう告げられたとき、男性の格好をしたレナードが絶望交じりにそう問うた。

 するとアナスタジアは、ぽっと頬を赤らめてこう言った。


「最初はね、男の子が苦手だから、女の子の格好をしてもらってたの。でも、続けていくうちに……。その……癖になっちゃった、みたいで……」


 恥じらう彼女の前で、レナードは深いため息をつく。

 どうやら、女装しろという命令が完全に解除されることはないらしい。


(アナスタジアが喜ぶならまあいいか、って思える時点で、俺も相当きてるよなあ……)


 結局、レナードの女装はアナスタジアと結婚するまで続くのだった。


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