大切なモノは、大体沢山ある。
危機は去り、カルヴァート領には日常が戻っていた。
とはいえ、影響は少なからずある。
森を覆うように降った聖水の雨から逃れ、瘴気変異を遂げたネズミやリス等の害獣の街への出現が増えている。森側もまだ警戒の為の巡回を行っており、軍人達は森に巡回、領騎士達は街で討伐駆除、という普段とは逆とも言える任務に携わりそれぞれ忙しい。
人的被害こそないが畜産物への被害はいくつか出ている。
これは瘴気による害獣ではなく、移動せざるを得なかったせいで縄張りを失った野生動物による被害。そちらにも対応しなければならない。
またそれらを含めた今回の件が、森の生物達の個体数や農産物収穫量にも色々と影響してくると思われる。その為ヨルブラントの管轄下で、スチュアートを責任者としたチームによる大規模な土壌調査が急ピッチで行われている。
収穫が終わっているのは幸いだが、既に冬は目前。
今はたまに朝晩チラつく程度の雪が本格的に降る前に、やらなければならない。
──ダニエルが聖水の雨を降らせてから、21日後。
報告の為に書類を持って街側辺境伯邸にやってきたスチュアートは、馬車から出てきたところで、自分を呼ぶ女性の声に振り向く。
「あら、ケイジ卿」
それは軽装馬車に乗るガブリエラ。
ラングウェッジ伯爵令嬢ガブリエラは、ヘクターと共に辺境伯邸に戻ってきており、アデレードの書類補佐などの雑用を問題のない範囲で行っている。
今日は私用で少し街まで出ていたらしい。馬車から降りると、書類を小脇に抱え、両手には沢山の花を持つスチュアートへ近付く。
「そのお花はアデル様へ?」
「ええ。 ついでですが」
「あら」
「咲きすぎてしまって卸せるものでもなく……でも綺麗なので、こちらで楽しんで頂けたらと。 よろしければラングウェッジ嬢も貰ってください」
「ふふ、正直ですのね。 有難く頂戴しますわ」
これも今回の影響だそうで、スチュアートは「多分日持ちはします」と笑う。
花を持ってきた事情は兎も角、ヨルブラントは定期的に領東に行っている。緊急とも思えないので、実際のところはアデレードに会いにきたのだろう。
「ケイジ卿、お時間に余裕がおありでしたらこの後ご一緒にお茶でもいかがです? アデル様が不在ですので、話し相手もおらず退屈しておりましたの」
「……ああ、ありがとうございます。 是非ご一緒させてください」
それはアデレード不在をやんわり告げ、客人の分を超えない程度にもてなそうという貴族令嬢らしい気遣いの言葉。王都での生活が長いスチュアートには充分伝わったらしく、快く受ける。
花を使用人に渡し、ヨルブラントの執務室へ向かうスチュアートを見送ると、ガブリエラはお茶の用意をフェリスに頼んだ。
数える程しか交流がないものの、似ているところのあるこのふたりは割とウマが合う。スチュアートの研究の話とその延長でラングウェッジ伯爵領の話などをして、それなりに盛り上がった。
「──卿はこのままこちらに?」
「ええ、この地を愛しているんで。 私なりに、ですが」
そこに微かな自嘲めいたモノを感じたが、ガブリエラはそれには触れなかった。
自身の与えられたモノの中での取捨選択や優先順位などの正否だとか、培い持ち合わせた自身の能力や容量だとかは関係なく、得られないモノに目を向ければそれはいつでも輝いている。
それを『非合理的で愚かな行為だ』と切り捨てることも否定はしないが、切り捨てられずにいることが悪くて無駄であるともガブリエラは思わない。
そこで派生する悩みや矛盾などはそれが許される範囲であるなら、咎め立てすべきことではない。きっとそれによって得るものもあるのだから。
おそらく、彼の自嘲もそういった類のモノだろう。
「アデレード様は森へ?」
「今日はノースブロウ卿と遠乗りに」
アデレードは頻繁に森の奥や聖域に、様子を見に行っている。
トレントはあの後新たな芽を出したが、特になにかに攻撃をする様子は見られないのでそのままにしてある。
本来森の奥は定期的に様子を見に行く程度でしか入らないので、問題はないだろう。
聖域の湖の水は大体元に戻った。
ただリルは、いつの間にか姿を消しており、聖域自体も時折しか入れなくなった。昨日も入れなかったらしく、共に聖域へ向かったヘクターはあからさまに意気消沈していた。
「そろそろ戻られるのでは、と……お待ちになりますでしょう?」
「いえ、私はこれで」
「楽しい時間をありがとうございました」と上品な笑みを浮かべて去るスチュアート。
ガブリエラも彼の言葉と同じ気持ちではあるもののなんだか気疲れし、応接室に戻るといい加減にソファに腰をおろした。
アデレードの代わりにもてなすガブリエラの臨時侍女として傍にいたフェリスは、珍しい彼女の姿に目を丸くする。
「はぁ~あ、恋愛って面倒臭いわねぇ」
「なんです、藪から棒に。 またプリジェン伯爵令息ですか?」
「ああ……アレは面倒臭くなくなったから逆に面倒臭いのよね……」
アデレードにやられたボールドウィンはそれなりに思うところがあったようだ。
しかも此度のことでガブリエラに惚れ直したらしく、姑息な手段を用いず真剣に口説いてくる。
今積極的に結婚する気はないガブリエラにとって、ボールドウィンが真面目な程、前とは違う意味で面倒臭い。
既に多少の情は発生しているだけに、罪悪感も発生する。
待つくらいなら勝手に幸せになってくれて構わない。胸が痛んだとしても、それはガブリエラ個人の領分だから。
(ケイジ卿がこの先どうする気なのかはわからないけれど……)
もし自分と同じタイプならば、どう転んでも積極的にアデレードの関心を引く気はないような気がしている。
だが、多分それでいいのだろう。
フェリスとガブリエラはアデレードの婚礼の準備を着々と進めているが、夫の名は浮いたまま。
長くても春前までが、アデレードの『許される範囲』だ。




