スチュアートの失恋。
暫くアデレードは呆然と立ち竦んでいた。色々な気持ちが、まるで嵐の夜の森のように暴力的に心を乱している。
(──だが、)
フィンガーブレスレットで止めているレースの袖をふわりと揺らし、普段は塗られていない紅で彩られた爪を内側に閉じた。
掌にしっかりと残る、ダニエルの頬の感触。
(生きていた)
無事がわかったなら、なんでもいい。
それ以外は些細なことだ。
王族ふたりへの挨拶も他の皆のことも全部忘れ、アデレードは駆け出していた。
それは歓喜からであり、不安からでもあった。
「あっお嬢様!?」
突然のフェンリル登場とその神気。そしてダニエルの言動に圧倒されていた皆が、未だそちらに気を取られている中、フェリスだけがそれに気付き追い掛ける。
行先などわかっている。
彼女の竜のところだ。
シーグリッドは今、愛馬・ドルチェと共にヘクターが手網を持ち、神殿から少し離れたところで待機している。
聖獣出現への領民の混乱をなんとか騎士達が収める中、人間嫌いのヘクターは割と冷静に一連の出来事を眺めていた。
(誰も気付いていないようだが、背中に人間が乗っていた……よく見えなかったが、アレは……)
「ヘクター!」
普段は自分を名前で呼ばない幼馴染みからの叫ぶような声掛けに思考は打ち切られたが、同時にその予想が正しいことを肌で確信する。
「止めて!!」
「──ッ!」
猛然と向かってきたアデレード。
ヘクターはシーグリッドとドルチェの二匹を奪取されないよう咄嗟に風魔法で障壁を作るも、アデレードはそこに拳を叩き込んだ。
乾いた音と共に障壁が割れて飛び散り、消える。
「どけ……!」
(まずいな)
アデレードの本気を感じ、ヘクターの背に冷たいモノが走る。
だが幸いふたりの付き合いは長く、それが功を奏した。
「ッ私が行きます!」
「なに?」
咄嗟に出た言葉だったが、アデレードを止まらせるのには充分意外だったようだ。
「その格好で行くおつもりならば、私が代わりに。 無茶はいつものことなので止めませんが、無謀なのは臣下として止めさせて頂きたく」
「──……は、」
アデレードは握った拳を緩め、力無く落とす。
格好だけではなく真に問題なのは、出来ることが出来ずに手をこまねく羽目に陥ること。
アデレードはどうせ行く気なのでヘクターも止めるつもりはないが、繋ぎは付けて貰わねばならない。
その方法がないわけじゃないのだから。
「……スマン、冷静でなかった」
「いいえ。 お気持ちはお察しします」
しれっとそう答えるヘクターだが、彼もまた平静を装っている。
(何度かこんなことはあったが、今回は危ないところだった)
止められた事に安堵しかなく、背中には大量の汗をかいていた。
ヘクターに言われた通り一旦街側の邸宅に戻り着替える中、ようやく僅かに冷えた頭で神殿でのことを振り返った。
(……考えてみれば、ダニーと聖獣の関係はダニー優勢だった)
アデレードはランドルフから話を聞くまで、ダニエルの潜在魔力のことを一切知らなかった。
ダニエルがランドルフとなにかをやっていたのは知っていた。おそらくかつてヨルブラントが受けていたような鍛錬だろうが、本人が知られたくなさそうだったのもあって詳しく聞くことはなかったのだ。
潜在魔力のことを聞いた今でも、ダニエルがそれ故聖獣に選ばれたとは思えなかった。
害意はないようだったが、本来連れていくべきは自分か父だったのでは、と思う。
それに胸が締め付けられる。
その中に罪悪感のようなモノもないではないが、大半を占めているのはそういうモノではない。
まだそれをアデレードは上手く言語化することができないが、共に思い出されるのは神殿で高らかに宣言していたダニエルの表情──ロックバードに対峙したときに近く、それ以上に凛々しかった、彼の。
胸の奥をギュッと締め付けるのは、それだ。
「アデレード様」
「スチュアート」
扉を開けると、フェリスから話を聞いたスチュアートが立っていた。
「行かれるのですね」
「ああ」
「……これを」
スチュアートはアデレードに地図を渡し、続ける。
「詳しくご説明する時間はありませんが、おそらく火山噴火の原因となる魔元素に、火口以外で直接的なアクセスを行うとすれば、上空から水源が確認されているこの辺りと思われます。 聖獣の力がわからないのであくまでも見立てに過ぎませんが……」
「助かる。 貴殿は閣下からの指示を。 おそらく研究所に行って貰うことになるだろう」
スチュアートは王族ふたりとユーストの居る、応接室へ。
アデレードは玄関前でシーグリッドの装具を通常のモノに戻しながら待っているヘクターの元へ、話しながら歩を進める。
応接室手前で聞こえてくる、ローズ殿下の叫びにも似た声。
だがそれにスチュアートは顔色を一切変えない。聞こえているのはアデレードだけのようだ。
おそらく防音魔法がかけられている──なのに聞き取れるほど、アデレードは己が昂っているのだと気付く。
「ダニーが大事だから言ってるのではないわ! だってダニーは虫も殺せないような男なのよ?! それに命運を賭けるような真似、正気じゃない!!」
それを聞いたアデレードは、おもわず足を止めた。
(──違う)
かつてはそうだったのかもしれない。
だが、アデレードの知っているダニエルは、最初からそんな男ではなかった。
「アデレード様?」
「……いや」
スチュアートが立ち止まったアデレードを見ると、彼女は何故か微笑んでいた。
「──」
「スチュアート、こちらは頼む。 行ってくる」
そう言って再び歩き出す。
今『キース』のような出で立ちで、ダニエルの元に向かおうとしているアデレードには、もう一片の迷いもない。
どんなに他の者が優れていようと、自分に背負うモノがあろうと、未来への不安があろうと。
胸を締め付ける、名状し難いこの気持ちこそ、正しいのだ。
それこそがアデレードを奮い立たせるのだから。
「──アデレード様!」
「……ん?」
『行ってくる』と言ったからには帰ってくる──それはわかっているが、スチュアートは声を掛けた。
このまま送り出したら、それが自分のところになる未来が完全に無くなる気がして。
(最初からそんな未来は期待してなかったというのに……今更)
その機会を手放して隣国に発った選択を後悔してはいない。
だが今のアデレードは、やや美化されていた筈の記憶の彼女よりもずっと、艶やかだった。
「スチュアート?」
「いえ……ご武運を」
その言葉にアデレードは不敵な笑みを浮かべ、軽やかにこう返す。
「私を誰だと思っている? カルヴァート辺境伯が息女……『辺境の無敵の姫君』こと、アデレードだ!」
──ちなみにそんなふたつ名は別にない。
【どうでもいい蛇足】
ヘクターがアデレードの夫になろうという野望を抱いたのはひとえに権力の為であり、そこに恋心は一切ない。
ただ人間嫌いな彼が好意を抱く数少ない中のひとりであることは間違いなく、なにかあれば臣下として身を呈す位の覚悟も持ち合わせている。
そんなヘクターもアデレードを止めることができる数少ない人間であり、だからこそ『自分が相応しい』と思ったのだ。
だからこそ今回も止めたわけだが、その半分は『シーグリッドの代わりにドルチェを奪われかねない』という危機感から。
あくまでも愛馬ファースト。
それがヘクター。
※ディテールは美形であり、割とカッコイイシーンも出たりしますが、ヘクターはこういう人です。
騙されないでくださいね!




