主人公になる覚悟。
「ちょまっうわぁぁぁ?!」
飛び上がったフェンリルは突如急降下し、湖の中へと飛び込んだ。
「はぁッ……ッ?!」
突然のこととはいえ、ダニエルの身体は想像された不安や懸念へ素早く反応し、咄嗟に大きく息を吸い込んでいた。
だからこそ、全くの想定外の圧力に肉体反応がついてこれず、脳が激しく揺さぶられる。
──ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!
息は吸えるし身体も濡れてはいない。
代わりに耳をつんざく強い音。
ダニエルはそれから逃れようと、フェンリルに掴まりながらモフモフした身体に頭を埋めるように必死で耳を塞ぐ。
なにかを擦り合わせたようであり、まるで地の底からの悪魔の叫び声でもある。
反響というよりは、充満と言っていいだろう。
それは轟音だから不快なのか、音自体が不快なモノなのかの判別すらできない程、充満している。
(コレは……うるさい! 確かにうるさい!!)
充満する不快な音の中、縦横無尽に駆け回っていたフェンリルが急に止まる。
《いっくよ~♪》
「ふぇッ?! ……ああぁぁぁぁッ?!」
先程湖に飛び込まれた時や、背中に乗せられ上空から急降下させられた時以上の、内蔵が浮くような感覚。
足元から全身への激しい浮遊感。
そこから先は覚えていない。
意識を失っていたのだ。
「──はっ?!」
《あるじ、起きたー》
既に夜は明けているようで、空が明るい。
(この身体のダルさ……ああ、そうか)
考えてみればフェンリルはダニエルを『あるじ』と称し『よばれた』と言っていたのである。
自身に覚えはなくとも『よんだ』に相当することがあるとして、森でダニエルがやっていたことなどひとつしかない。
それは魔力を注ぐこと。
おそらく、魔力を吸われたのだ。
──ダニエルに対しランドルフがしていた推測のいくつかは当たっており、そして微妙に外れてもいる。
それはフェンリルが『よばれた』と言う部分に示されている。この地の持つ力と、『この地に愛されている』と言える程のダニエルとの相性だ。
辺境に来てから、ダニエルの潜在魔力が大幅に上がったことは事実。
『共感』についてのランドルフの考察も概ね正しい。それに土地との相性云々も関係はしてくるものの、だから彼の能力が引き上がったわけではない。
云わば、順番が違うのだ。
王都でのことを例に挙げると、当時のダニエルを取り巻く環境的に気持ちは隠すべきモノ。『共感』はそこそこの効果で充分……つまり必要とする程度にしか育たなかっただけのこと。
王都で潜在魔力量が引き上がったのは、学生時代の研究による魔力コントロールが主な要因だ。
確かにダニエルの魔力とこの土地の魔素の相性はいい。
土地に愛されたと言っても過言ではないが、それは、彼が愛したから。
キースのお陰で初日からこの地への好感は高いダニエルだが、それだけではない。
元々彼は覚悟を持ってこの地にやってきていた。
婿としての覚悟こそなかったものの、持ち前の責任感から『なんらかのかたちで貢献したい』と考えていたのはご存知の通り。加えて周囲との関係構築やアデレードへの想いが深まるにつれ、『相応しい存在に』という気持ちが芽生えこの地への愛情や献身は増していた。
そのこと──つまり、彼の気持ちこそが発端なのだ。
魔力量を増やす努力はダニエルの『共感』をこの地に伝え、相互作用から元々良かった土地の魔素との相性が更に良くなった。
その結果、彼の潜在魔力はこの地の守護聖獣であるフェンリルにとって親和性が高く、顕在魔力共々大変使い勝手のいいモノとなっていたのである。
親和性だけでいえば、辺境伯閣下であるユーストやアデレードよりも遥かに高いダニエルを、フェンリルが『あるじ』としたのはそこだ。
そこまではわからなくとも、魔力を吸われたことは身体で理解した。
(僕には潜在魔力が多いって話だったな……それがこの子の力になるのか?)
フェンリル自身で『うるさいの』を止めることは可能だが、それだとおそらくフェンリルが食べきれない程の瘴気が発生するのだろう。
止めないとどうなるのかはわからないが、あの音の不快さを鑑みるに、それはそれでよくないことが起こりそうだ。
『契約』や『主』という言葉の意味を、ダニエルは漠然とながら咀嚼しつつ尋ねる。
「……『うるさいの』は、どうなったの?」
《ちょっとしずかになったよ! でもまだうるさいの! ……あるじ、もうへいき?》
どうやらまだまだ続ける必要があるらしい。
「いや、ちょっと待って……」
ダニエルは苦笑した。
正直、全く平気じゃない。
体調も平気じゃないが、魔道具へ魔力を注ぐのとは似て非なる辛さがあった。
なにしろこの聖獣、根こそぎ魔力を奪っていくのだ。
魔力を奪われても死にはせず、魔力自体も自然にゆっくり補填される。だが魔力を注いだ時のダニエルの様子からでもおわかりの通り、肉体にとても負荷がかかるのだ。
当然『根こそぎ奪われる』など、半端ない。
(でも……これは責務であり、チャンスだ)
『自分はいよいよ明日、時期辺境伯であるアデル様の夫となる』──そのことへの喜びは大きいが、それだけに拭えない不安は付き纏う。
『自分は彼女に見合う男ではない』
それはずっとある、彼の引け目。
当初、『次期辺境伯の夫という立場』だったモノが『彼女』にやや変化を遂げたようだが、変化ではなく増えただけ。
これからもずっと持ち続ける筈のモノであり、それはこの先もきっと変わらないだろう。
それでも、コレは大きな強みと自信になる。
「……僕は君の『主』なの?」
《そうだよ!》
「ははっ」
《ん? なぁに??》
「なんでもないよ」
今までの想定というか想像では、自分は常にモブだったダニエルだ。それは婿として頑張ると決めてからも、ずっと変わらない。
周りはカッコイイ人だらけだ。
(聖獣の主とか)
──まるで僕が物語の主人公になったみたいだ。
そう思って、おもわず笑ってしまった。
それは失笑であり自嘲であり、喜びからでもある、一言で片付けられない気持ち。
(こういうときの定番は……)
「──ねえ、君の名前は?」
《なまえ?》
フェンリルは小首を傾げる。
名前はないらしい。
「なら、君は今日から『リル』だ! 僕はダニエル……ダニーだよ、『リル』」
ダニエルはそう言って、リルの鼻先を撫でた。
リルのフサフサした尻尾がぶんぶん揺れる。
《あるじ、ダニー! リル! なまえ、リル!!》
「気に入った?」
《うん! 気に入った!》
(ちょっと安直だけどね……)
『主になった後、使役する相手に名前をつける』
本当に使役と言えるのかは別として、物語ならばあまりに王道で定番だ。
いざ主人公的な立ち位置に立ってみると、そこにあったのは僅かな諦念と大きな不安。
そして、驚いたことに強い我欲──それに押されるようにダニエルは物語の定石を踏んだ。
弱い自分を鼓舞するように。
──それはそれとして。
ダニエルはひとつ勘違いしていることがあった。
顕在魔力も潜在魔力もごっそり抜かれたダニエルが意識を失っていたのは、丸一日。
そう、この時既に婚姻式当日の朝だったのである。




