9話 ※第二王子視点
歌が聞こえた。
そう語っていたのは、四つ上の兄。秘密だよと言って教えてくれた日のことを思い出しながら、ヴァリスは揺れる馬車の中で正面に座る少女を見る。
聖女カミラ。その称号がふさわしいと思えるほどの美貌を持つ少女。教会で結婚を申し込んだときには緩んでいた顔が、今はこわばり、ぎゅっと体を固くさせている。
「緊張しているのか?」
「ええ……まさかこんな日がくるとは思ってもいなかったので……みなさま歓迎してくださるとよろしいのですが……」
そっと目を伏せて心配そうに言うカミラに、ヴァリスの顔に笑みが浮かぶ。
ヴァリスの兄リオンは生まれながらに王になる存在だった。そんな兄を慕っていた時期もあった。
だが成長するにつれ、その思いは歪んだ。どうして同じ王の子なのに、自身は王になれないのかと。四年早く生まれただけで、亡くなった王妃の子だったからというだけで、競うことすらせず、兄が王になるのかと不満を抱いてしまった。
「……案ずるな。誰が何を言おうと、君を妃に迎えると決めたのは俺だ。何があろうと、君を守ると約束しよう」
「ヴァリス様……」
頬を染めるカミラに、ヴァリスは胸の奥が高鳴った。
歌が聞こえたとリオンが語ったのは、ヴァリスがまだ彼のことを慕っていたときだった。その昔、命を落としかけたことがあったのだと――そして、死の淵にいるとき歌が聞こえ、目覚めたのだと、教えてくれた。
「君に救われたあのときから、俺は君のために生きると決めたんだ」
今代聖女は歌を歌う。それを知ったとき、幼少の頃に聞いた話と結びつけるのは簡単だった。
兄を救ったのが聖女だと気づいたヴァリスは、いてもたってもいられなくなった。生まれながらに王になることが決まっていて、誰からも愛されていたリオン。
ヴァリスには持っていないものをいくつも持っている兄。王の信頼も、民からの親愛も、自分ではなく兄に注がれている。
ならば――彼を救った女性ぐらい、自分のものにしてもいいのではないか。
これまで抱いていた不満は、仄暗い思いとして湧き上がり、ヴァリスは城を飛び出した。リオンが聖女の存在に気づく前に、わが物にするために。
「美しい君には傷ひとつ付けないと約束しよう」
そっと手を取り、その指先に口づけを落とす。
白く滑らかな肌に、金の束のような髪。そして新緑を思わせる穏やかな瞳。この美しい女性がリオンではなく、自分のものになるのだと思うと――ヴァリスの胸に湧き上がるのは、抑えきれない高揚感。
兄を出し抜けたという思いが、彼の胸を高鳴らせた。
――それが思い違いであることにも気づかずに。