8話
ふう、と歌い終えたアリシアが口を閉ざすと、部屋の中を静寂が支配した。
窓は閉め切られ、扉は閉ざされている。部屋の中にはアリシアと女性だけで、女性は瞬きすら忘れてしまったのか硬直し、アリシアを見下ろしている。
(……伝わった、かな)
アリシアの声に魔が宿っている。だからこそ、この世に生を受け、生きていられるのは神の慈悲であると――だから神に感謝し、祈りを捧げにきた人の幸せを願い、その思いが神のもとに届くようにともに祈りなさいと言われ続けてきた。
アリシアにとって歌うことは感謝の表れであり、相手の幸福を願うものだ。
だけど女性はソファの横に控えたまま、身じろぎひとつしていない。
(どうしよう……歌うのは、駄目だった……?)
何も言わず、じっとアリシアを見下ろすだけの女性にだんだんと不安が押し寄せてくる。
物心ついたときからずっと、歌い続けてきた。誰もいない部屋の中で、誰もいない森の中で。そして最近は、祈りを捧げる部屋で。
だが人前で歌ったのは――誰かの目の前で歌ったのはこれが初めてだ。
そして漠然とした神という存在ではなく、目の前にいる人のために感謝を歌おうと思ったのもこれが初めてだった。
自分の常識が外では通じないことは、マティアスとのやり取りとなんとなく察していた。彼の言葉にはわからないことがあり、彼がさも知っていて当然というように話していたからだ。
だからもしかしたら、歌うことは駄目なことだったのかもしれない。慣れないことをするものじゃなかったと、失敗したことを感じてアリシアの視線が自然と落ちはじめる。
「……だ、旦那様! どうかされましたか?」
そんなアリシアの耳に、カチャリと扉が開かれる音と、はっと我に返ったような侍女の声が届く。
下がっていた視線を上げると、扉からマティアスが顔を覗かせていた。
「いや……今のは、君が?」
マティアスはなんでもないというように頭を振ったあと、部屋の中に入ってきてアリシアを見下ろした。
水色の瞳に捉えられ、アリシアは思わず体を縮こまらせた。
やはり、歌うのは駄目なことだったのだろう。だけどここで黙っていても、アリシアが歌ったことはすぐに気づかれる。もしも気づかれなかったら、関係ない誰かが咎められることになる。
ならばそうそうに認めたほうがいい。それに下手に隠せば、よりいっそう罰が厳しくなる。
アリシアはぎゅっと意を決したように顔を強張らせながら、小さく頷いた。
「……そうか。……やはり、君が聖女か」
苦笑にも似た笑みを浮かべるマティアス。そこに咎めるような気配はない。
それどころか聖女と呼ばれ、アリシアの目がぱちくりと瞬いた。
(せい、じょ……?)
その言葉の意味は知っている。祈りを捧げに来た人が「聖女」という言葉を使うのを何度か耳にした。
だけどその声がアリシアに向いていたことはなく、これまで一度だってそう呼ばれたことはない。
アリシアはただずっと、アリシアとだけ呼ばれていた。
(聖女って、たぶん……神様と、同じようなものだよね)
だからずっと聖女のことを祈りを捧げる対象――神と同列の何か。そんな風に漠然と考えていた。
「そう呼ばれたことはないのかな」
こくりとアリシアが頷くと、マティアスはアリシアの横に腰を下ろした。そして少しだけ上体を倒し、まっすぐにアリシアを見つめた。
これから長い話をするから、よく聞くようにと言うように。
「聖女というのは――」
だが、その話は続くことはなかった。
「おい、マティアス! 今のは……!」
勢いよく開かれた扉と、そこから現れた青年に、中断せざるを得なかったからだ。
ふう、とマティアスがため息を落とし、青年のほうを向くのに合わせてアリシアもそちらを見る。
光の束を集めたかのような金色の髪に、燃えるような赤い瞳。マティアスよりも年若に見える青年はマティアスと、それからアリシアに、そのそばに控えている女性を見てさっと顔を赤らめた。
「し、失礼した。すまない……レディーの部屋だと知っていたら、無理やり立ち入ったりなどは……」
「女性の部屋でなくても、了承もなく入るのはいかがなものかと思いますよ」
青年は苦言を漏らすマティアスをちらりと睨んでから、赤い瞳をアリシアに向けた。
どこかそわそわしたように視線をさまよわせる青年に、アリシアは瞬きを繰り返しながら首を傾げる。
(見覚えがあるような……ないような……)
金色の髪は珍しいものではない。修道女にも何人か金髪の人がいた。そして赤い瞳を見るのはこれが初めてだ。
ううんと記憶の底をさらうが、やはり赤い瞳を持つ人は見たことがない。そもそも、アリシアのそばにいたのは修道女だけ。男性も部屋を移動する際に見かけたことはあるが、目の前にいる青年よりも年上の人ばかりだった。
「その……先ほどのは、君が……?」
なぜか決意したように聞かれ、アリシアは少し悩んでから頷いた。
(先ほどのって、歌ったことだよね……この人にも、叱られるのかな)
青年が部屋に駆け込んできたときの必死な形相を思い出す。あれだけの勢いで注意しにくるほど、歌うのは駄目なことだったようだ。
アリシアがしょんぼりと肩を落とすと、青年が目に見えるぐらいわたわたと慌てだした。
「いや、その、つまり、あまり聞きなれないもので……いや、聞いたことはあるのだが……そうではなく、つまり、私が言いたいのは……」
「殿下。とりあえず自己紹介からはじめたほうがよろしいのではないでしょうか」
「あ、ああ」
まとまらない言葉を発していた青年は、マティアスに促されてさっと居住まいを正した。
真剣な表情でアリシアの前に立つと、彼女に目線を合わせるようにかがみ、まっすぐにアリシアを見据えた。
「私はラグランジェ国第一王子リオン。是非お見知りおきを」
先ほどまでの慌てぶりが嘘のように微笑むリオンに、アリシアはこくりと頷いて返して――終わった。
落ちる沈黙に、ばっと勢いよくリオンがマティアスのほうを見る。その横顔は、これからどうすればいいのかと問いかけているようで、マティアスの口からため息が漏れた。
「彼女はアリシア。事情があり話せないので、ご了承を」
「ああ、わかった」
それで納得したのだろう。リオンはまたアリシアのほうを向き直ると、また同じような優雅な笑みを浮かべた。
(にぎやかな人だなぁ)
アリシアの知る王子は、絵本の中のものだ。そして絵本の王子が話すシーンはさほど多くはなかった。そもそも、あまり長い話ではなかったというのもあるが。
だが実際の王子であるリオンは、アリシアの知る王子とはまったく違って見える。
勢いよく扉を開けたり、ころころ顔色を変えたり、助けを求めたり。絵本の王子とは違う、血の通う人間であることがよくわかる。
「アリシア……と呼んでもいいだろうか」
アリシアが頷くと、リオンは緩やかに口元をほころばせた。優雅な笑みとは違う柔らかな微笑は、なぜかとても嬉しそうだ。
だがどうして嬉しそうにしているのかわからず、アリシアは不思議そうに首を傾げた。
「君にずっと、お礼を言いたかった」
そう言って跪くリオンに、ぎょっと目を剥いたのはアリシアのそばに控えていた女性。一国の王子が――しかもどこから拾ってきたのか、誰の子供なのかすらわからない少女に――膝をつくとは思いもしていなかったのだろう。
だが、そんな一般的な常識を知らないアリシアはただ、リオンを見つめ続けていた。
「私を……助けてくれて――見つけてくれて、ありがとう」