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6話

 転げ落ちてしまいそうなほど大きかった揺れが小さなものに変わり、アリシアは金色の瞳を所在なさげにさまよわせる。

 アリシアはこれまで一度も馬車に乗ったことがない。どうして揺れがおさまってきているのかわからず、知らないことばかりだと改めて実感し、若干の不安を抱いた。

 外に出たいと願っていた。だがいざ出されると行く先はなく、途方に暮れていたところで差し伸べられた手に縋った。悪い人ではないと思った自分の直観は信じている。子供になるという提案も受け入れるつもりだ。

 だがこの先で、自分はどうなるのか、どう生きていけるのか――いくら考えても答えは出なかった。


「ん? ああ、王都に入ったようだね。窓から外を見てみるかい?」


 そんなアリシアの様子に、マティアスは今どこにいるのかわからず不安になっていると考えたのだろう。目を細めるように柔らかな笑みを浮かべると、カーテンのひかれた窓を目線だけで示した。


(おうと……王は、知ってるけど……とってなんだろう)


 言葉の意味は正確にはわからない。だがきっと、窓から見られるものなのだろう。アリシアが小さく頷くと、マティアスの手がカーテンを端に寄せた。

 そうして飛び込んできた光景に――今まで抱いていた不安が吹き飛んだ。


 いくつも並ぶ建物に行き交う人々。緑は道を彩る程度で、ほとんどが建物の色で埋められている。

 森の近くにそびえる教会しか知らないアリシアにとって、その光景はあまりに圧倒的で、それでいて夢の世界のようだった。


「そこまで感動してくれるのなら、見せた甲斐があったかな」


 四角い小窓から見えるだけの風景に、ここまで夢中になると思っていなかったのだろう。息をするのも忘れて魅入っていたアリシアの耳に、笑いをこらえるような声が届く。

 アリシアが王都を見ることができたのはマティアスのおかげだ。カーテンを寄せてくれたから、ではない。道端で眠っていたのを見つけて、声をかけてくれて、馬車に乗せてくれて、手を差し伸べてくれた。彼の行動ひとつひとつのおかげで、アリシアはここに来ることができた。

 だからアリシアはマティアスに向けて、何度も頷いた。感謝の意思を伝えるために。


 そうしてアリシアが外の風景に目を奪われていると、馬車が止まった。


「さあ、降りるよ。立てるかい?」


 そう言って差し伸べられた手に、アリシアは少し悩みながらも自分の手を重ねる。馬車の椅子は普段アリシアが使っていた椅子よりもだいぶ高い。慣れない高さに転ぶかもしれない。そしてまた、声が漏れたら――。


(たぶん、大丈夫だと思うけど……でも、慣れないうちは無理しないほうがいいよね)


 本当にマティアスの子供になるのなら、これから何度も馬車に乗ることになるだろう。そんな予感から、不慣れな間は彼の好意に甘えることにした。

 そうしてマティアスの手を借りて馬車を降りて――高く聳える大きな建物に、またもや目を奪われた。

 積まれたレンガや大きな柱は白く、対照的に陽の光を浴びる屋根は黒く、壁面の一部には馬車と同じ模様が刻まれている。


「旦那様。お帰りなさいませ」


 そして建物の大きさに釣り合うだけの大きな扉の前には、燕尾服を着た老年の男性が一人と、黒と白を基調にした仕事着の女性が数人並んでいる。

 彼らは一様に頭を下げ――ぴたりと止まった。


「旦那様……そちらの方は?」


 マティアスに手を取られながら立っているアリシアの存在に気づいたのだろう。平静の裏に困惑を隠したような顔で、燕尾服を着た男性が尋ねた。

 歓迎されていない、とはっきりと感じたわけではない。だが、自分が彼らにとって場違いなものであることがわかったアリシアは、不安そうにマティアスを見上げた。

 返ってきたのは、心配するようなことはないと言うような、柔らかな笑み。


「彼女はアリシア。私の子供だよ」


 そして発せられた簡潔な言葉に、マティアスを出迎えた彼らの顔が完璧に固まった。

 アリシアはマティアスと動きを止めた男性たちを交互に見る。

 あまりにも気軽に誘われたので、誰かの子供になるのはよくある話なのかと思っていたが、彼らの反応からすると、そうではなかったようだ。


「……母親はどちらに?」

「さあ、どこだろうね」


 神妙に尋ねる男性に対して、マティアスは緩やかな笑みを浮かべている。何を考えているのかわからないその顔に男性がため息を落としたのは、一拍置いてからだった。


「……お嬢さん。旦那様との関係をお聞きしてもよろしいですか?」


 矛先をマティアスからアリシアに変えたようだ。体をかがめ、目線を合わせるようにして問いかける男性に、アリシアは地面に視線を落とした。

 マティアスとアリシアがどんな関係なのかと聞かれても、ただ起こされて、誘われただけ。語るほどの関係あるとはいえない。


 いやそもそも、語るためには口を開かなければならなくて、言葉を発する必要がある。必要なときに必要な歌だけを求められてきたアリシアは、じっと男性の灰色の瞳を見つめ返しながら固く口を閉ざした。


「彼女はとても寡黙だからね。質問があるのなら私が聞くよ」

「旦那様が正直に話してくださるのならいくらでもお聞きしますが、それでらちが明くとは思えません」

「嘘をついた覚えはないのだけれどね。まあなんにしても、話はあとにしよう。家の前で話していてもしかたないだろう。慣れない馬車で疲れているだろうから、彼女を休ませてあげたいんだ」


 そっと肩に手を置かれ、マティアスを見上げると、「ね?」と同意を求めるように微笑まれた。

 朝からこれまで、食べたのは干し肉一枚。そしてこれまで歩いたことのない距離を歩き、馬車まで乗った。疲れていないといえば嘘になる。

 アリシアは男性の様子をうかがいながらも遠慮がちにうなずいた。





 しかたないと諦めたのか、アリシアに気遣ったのかは定かではないが、あの場はそれでお開きとなり、アリシアは女性に先導される形で屋敷の中に足を踏み入れた。

 歩くたびにこつこつと鳴る床は石でできているのに、顔が映りこみそうなほど磨き上げられている。廊下に点々と並ぶ調度品や、絵を飾る額縁にいたるまで、埃ひとつ被っていない。

 どこを見ても念入りに手入れされていることがうかがえた。


 そしてそれは、アリシアが通された部屋も同様だった。

 床には絨毯が敷かれ、いくら歩いても足音ひとつしない。天井から吊り下げられた照明は大きく、部屋中を照らしている。

 陽の光や風を取り込むための窓は大きく、白い薄手のカーテンに覆われていた。


 教会でアリシアに与えられた部屋とはあまりにも違いすぎて、革張りのソファや白く染みひとつないぶ厚いベッドに腰かけることもできず、部屋の隅で立ち尽くす。


(絵本に出てきたお部屋みたい)


 本当にこれは、アリシアが休んでいい場所なのか。もしかして王子様とか、そういったすごい人の部屋なのではないか。そう思ってしまいそうなほど、ここはアリシアには過ぎた空間だ。


「お茶をご用意しました……どうぞ、おかけください」


 アリシアを部屋に案内するとすぐに出ていった女性が、銀色のワゴンを押しながら戻ってきた。

 ワゴンの上には白磁の食器が乗せられ、きつね色の焼き菓子がいくつも並んでいる。


 漂う甘い香りにアリシアは何度も瞬きを繰り返す。そして呆然と立ち尽くしているアリシアを女性がじっと見ていることに気づくと、おそるおそるソファに腰をおろし―――その柔らかさにびくりと体を震わせた。


「お口に合うとよろしいのですが」


 下手に動くとソファに飲みこまれそうで、かちこちに固まったアリシアの前に、湯気のたったカップと焼き菓子が並べられていく。


(……食べていいん、だよね)


 ちらりと女性の様子をうかがうが、女性は食べろとも食べるなとも言わずにただじっと立って、アリシアを見ている。

 おそるおそる手を伸ばし、まずは甘い香りをさせている焼き菓子を口に運んだ。そして一口齧り、口の中に広がる香ばしさに目を丸くする。


 マティアスの馬車に乗ってから、何度驚かされたことだろう。これまで見たことのないもの。感じたことのないもの。味わったことのないもの。いろいろなものが、この数時間のうちにアリシアの目の前に現れた。


「お気に召していただけたようで、何よりです」


 そんな女性の言葉に、アリシアは何度も頷いて返した。お気に召すなんてものじゃない。この感動を言葉にして伝えられないことがもどかしい。どうすれば、自分の気持ちを伝えられるのか――悩みに悩んで出た結論は、これまでに何度も行ってきたことだった。


(あなたに幸あらんことを)


 人前で――部屋の外では決して口を開かないように。そう教えられてきたアリシアが唯一許されたのは、歌うことだった。とはいっても、決められた場所で、侍女の許しがあればという条件付きではあったが。

 これまで歌っていた場所は、今ここにはない。許しを与えてくれていた侍女もここにはいない。

 だが許されていたということは、ただ言葉を発するよりはマシなのだろう。だから感謝の言葉の代わりに、感謝の歌を彼女に。


 そうして奏でられた音が、部屋の中に響いた。

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