5話
優しく、人のよさそうな笑みを浮かべているマティアスに、アリシアはどうすればいいのかと悩んでいた。
アリシアは自らの声が魔性であると修道女に教えられていた。感情のままに声を発すれば、聞いたものを惑わし、狂わせる。だからアリシアは捨てられたのだと。だから不用意に話してはいけない。許しがあるまで人前で口を開いてはいけない。
何度も何度もそう言い聞かせられ、アリシア自身もできるだけ喋らないようにと気をつけていた。
それなのに、ただ足が痛かったというだけで声が漏れた。マティアスが胸を押さえたのは、それが原因だろう。
だから名前を聞かれたときは喋ってもいいのか少し悩んだが、名前だけならと思い、できるかぎり何も思わないように注意しながらアリシアと名乗った。
アリシアを困らせたのは、その次の質問だった。
「そうか。アリシアというんだね。いい名前だ。親御さんに付けてもらったのかな?」
アリシアと、気づけばそう呼ばれていた。だから誰が自分に名前を付けたのか、アリシアは知らない。
赤子の頃に捨てた親か。それともアリシアを拾った者か。アリシアの声に気づいた者か。あるいはアリシアの世話をしていた修道女か。
誰がそう名付けたのか知らず、だがアリシアと呼ばれるため、それが自分の名前――自身を指すものであると認識していただけだった。
「……もしかして親御さんはいないのかな」
とまどうように視線をさまよわせ、頷くことも否定することもせずに黙りこむアリシアに、マティアスは悪いことを聞いたというように眉尻を下げた。アリシアは小さく頷いて、それから少しだけ目を伏せる。
親がいないことを気にしたことはない。だが目の前でしょんぼりと肩を落としているマティアスをなぐさめることが、アリシアにはできない。
気にしていないと答えればいいだけなのはわかっている。だが、どうすれば何も思わず、何も感じずに話せばいいのかわからない。そんな方法をアリシアに教える者はいなかった。
そもそもなぐさめようにも、なぐさめる術すら知らない。
どうにもできずに困り果てていたアリシアに、マティアスが気を取り直すように優しい笑みを浮かべる。
「もしよければ、私と一緒に来るかい? ああもちろん、怪しい者ではないよ……と言われても信じられはしないか。ええと、あそこに馬車があるのはわかるよね。あの馬車の模様は公爵の……身分がしっかりしている人が使える模様なんだ」
指差された先にある馬車は黒く染められ、金色で剣と柄。それから絡まる蔦の模様が刻まれている。
「あの馬車に乗っているときに悪いことをしようとはしないから、安心してほしい」
力強く真剣に話すマティアスに、アリシアは小さく、それでもたしかにうなずいて返した。
(こうしゃく……ってなんだろう)
そんなことを思いながら。
◇◇◇
ぎゅう、とアリシアは椅子の上で体を縮めていた。ガタガタと車輪が動くたびに起きる揺れは、これまでアリシアが感じたことのないものだったからだ。
油断すれば転がっていきそうになり、アリシアはできる限り背もたれに背中をくっつけ、足を抱え込んだ。
「……たぶん、そちらのほうが転んでしまうと思うよ。触れられるのがいやでなければ、支えてあげようか?」
とんとんと自分の横の空いている椅子を叩くマティアスに、アリシアはこくりと小さく頷いて、揺れが落ち着いている間に移動した。
椅子と椅子の間をころころと転がるよりはと判断した結果だ。
「それにしても……ずいぶんと小さいね。何歳ぐらいなのかな」
肩を押さえ、転がらないように支えてくれているマティアスの言葉に、小さく首を傾ける。
アリシアが生まれてから何回季節が巡ったのかわからなかったからだ。覚えている限り、冬を経験したのは十二回。だが、記憶に残らないぐらい小さいころを含めればどのぐらいになるのか。
これまで一度も、アリシアは生まれた日を祝われることはなく、何歳であるかを教えられることもなかった。
「うーん……十歳とか?」
さすがにそれはない、と首を横に振る。
「じゃあ十五歳とか?」
わからないと首を傾ける。
「十三歳」
これにも同じように。
そうして上がったり下がったりを繰り返したあと、マティアスは言った。
「じゃあ……十五歳ということにしておこうか」
アリシアは自分が何歳なのかをこれまで考えたことはなかった。年を重ねたからといって何かが変わることはなく、過ごす時間も環境も、同じことの繰り返しだった。
だからこれといった興味も関心もなく、わざわざ馬車にまで乗せてくれた相手がそれがいいというのなら、と頷いて返す。
「それと……誕生日は……まあ、今日でいいか。それにしても、結婚もしていないのに一児の父になるとはなぁ……父上や母上が知ったら、怒られそうだ」
苦笑しながらぼやくように言うマティアスにぱちくりと目を瞬かせる。
アリシアの知る言葉はそれほど多くはない。だが、日常生活を送るに差し支えない程度の知識はある。
だから、マティアスの言う一児の父という言葉の意味も知っているわけだが、なぜそんな言葉が出てきたのかはわからなかった。
「ああ、もしかして……ええと、私と一緒に来るか聞いただろう? つまり、君さえよければ私の子供にならないかと聞いたつもりだったんだ」
もう一度、大きく目を瞬かせる。
そんなアリシアの様子に、マティアスは焦ったように笑みをひきつらせた。
(子供……つまり、この人が、親になる、ということ……?)
「ああええと、すまない、早合点してしまったね。もちろん、君が子供になるのはちょっとと言うのなら断ってくれていいよ。それでも、ある程度世話は焼くつもりだから……養子と同じように、とはいかないだろうけど」
ときに言いよどみ、それでも言葉を並べていくマティアスをじっと見つめる。
寝ていたアリシアを心配し、起こしてくれた。そしてわざわざ村まで連れていくと提案してくれた。
そして今は、子供にならないかと聞いてくれている。
あまりにも急展開ではあったが――
(わるい人、ではなさそう)
元より教会を追い出され、行く場所などどこにもない。ならば、誰かの子供になるのもいいかもしれない。
善人であると断言することはできないが、悪くなさそうというだけで、アリシアにはじゅうぶんだった。
「あ、ああ、ならよかった……じゃあ君は今日から――いや、正式には書類が受理されたらになるけど、アリシア・クロヴィス。私の娘ということで、よろしく頼むよ」
こくりと頷いたアリシアに手を差し伸べられる。
先ほど立たせようとしたのとは違う手に、アリシアは手とマティアスとを交互に見てから、そっと自分の手を合わせた。