終話
揺れの少ない道を車輪が回る。窓からは立ち並ぶ家と行き交う人々。そして緑で彩られた道が見える。
次第に行き交う人と家が減り、代わりに緑が増えてきたところで、馬車が止まった。
「アリシア様! お帰りなさいませ! お怪我はありませんか?」
馬車の扉が開かれると、待ち構えていたようにリリアンが駆け寄ってきた。その後ろにはローナとアルフが控えている。
リオンに手をひかれながらアリシアが馬車から降りると、ローナがちらりと様子をうかがい「ご無事で何よりです」と恭しく頭を下げた。
「王子である俺の心配は誰かしてくれないのかな?」
「もしも何かあれば、こちらではなく王城に先に戻られているのではありませんか」
冗談めかしたリオンの言葉にさらりと返したのはローナ。彼女は幼いころからクロヴィス邸で働いていたようで、リオンとの付き合いもそれなりにあるらしい。だからか、こうした何気ないやり取りをすることも珍しくはなかった。
執事長であるアルフは苦い顔をしているが、当人であるリオンがこれといって気にしていないので、口には出さないようだ。
そんな、いつもと変わらない様子に胸が温かくなる。いつでも歓迎し受け入れてくれる彼女たちに、教会から出て初めて出会えたのがマティアスでよかったと改めて思う。
「ああ、そうだ、ローナ。アリシアの淑女教育を急いで進めてほしい。余裕があれば王子妃教育も頼みたいのだけど、いいかな?」
「それは……かしこまりました」
ローナは一瞬だけ目を見張ってから、真剣な顔で頷いた。その顔にこれからの教育の厳しさを感じて、アリシアも思わず顔を引き締めてしまう。
そしてなぜか、リオンまで決心したように表情を改めていた。
「もしも難しそうならいつでも言ってほしい。俺もできる限り教えられるよう努力する」
「王子である殿下が何を教えるつもりですか」
「やれないことはないと思う。貴婦人のふるまいぐらい、頑張れば――」
「無駄なことに時間を割く余裕があるのでしたら、ほかのことに力を注いでください」
呆れたように言うマティアスに、リオンが不貞腐れたようにそっぽを向く。
いつもどおりだからか、侍女ふたりは彼らの様子を気に留めることなく、今後の段取りについてああではない、こうではないと意見を交わしている。
「それでは、悠長にしていられませんね。すぐに教材を用意しますので、アリシア様もそのつもりでお願いします」
「王子妃なんてすごいですね。私も張り切っちゃいます。あ、叔母さまにも手紙を出さないと」
眉間に皺を寄せて悩ましい顔をしているローナとは対照的に、リリアンはうきうきとどこか楽しそうだ。
唐突な話なのにすぐに受け入れて準備してくれるという彼女たちに、アリシアは感謝の気持ちを抱きつつ――リリアンの言った叔母さまという言葉に、首を傾げる。
叔母という言葉の意味はわかるのだが、どうしてその人に手紙を書くのかわからなかったからだ。
「あれ? アリシア様にはお話してませんでしたか? 遠くに住んでいる叔母さまが以前、教会でアリシア様……かどうかは正確にはわからないのですけど、似た方をお世話していたことがあるらしくて、たぶん絶対にアリシア様だと思うから、王子妃になるんですよーってお話したらきっと喜んでくれると思うんです」
なんとも憶測だらけの話ではあるが、もしかして、とアリシアの頭に昔教会にいた女性の顔が浮かぶ。
よく喋り、アリシアの歌を聞いて教会を去った女性。もしもリリアンの言う叔母さまがその人だとしたら――
(元気にしてくれているのなら、嬉しいな)
リリアンの様子からすると、そう悪いことにはなっていなさそうだ。胸につっかえていたものがまたひとつ取れた気がして、自然と笑みがこぼれた。
――それから数週間が経ち、アリシアは毎日のように淑女教育に追われていた。
言葉遣いから姿勢、それにダンスの手ほどきと、いくらやっても終わりの見えない日々ではあるが、散歩以外に自由がなかったことを思えば、どれもこれも楽しくて、時間を忘れるほどだった。
そうやってアリシアが教育に躍起になっている間に、カミラの証言が行われた。
「なんともまあ、さすがは聖女の代役をしていただけはあるというか……演技派というか……」
というのは、カミラの証言を見たリオン談である。
カミラの証言は一般公開され、彼女は涙ながらに自分がどうして教会に従っていたのか、従わざるをえなかったのかを語ったらしい。
ほろほろと涙を流す彼女の姿は同情心をひき、訴えは人々の心に強く呼びかけた。
おかげで、と言うべきなのかはわからないが、興味本位で見てきただけの民衆も彼女の証言に胸を打たれ、教会を非難する声が高まったらしい。
カミラが偽物だったことはすでに公にされている。だから、いたいけな少女ふたりをいいように使うなんて、と――気づけばカミラを擁護する声も増えているらしいが、王家としてはわざわざ否定したり、追及したりするつもりはないらしい。
教会に対する民心を削ぐことに一役買ってくれているのはたしかなので、ある程度は大目に見るのだとか。
「とはいえ、これまでのように自由に過ごすことはないから安心してほしい。君に恨みを抱いてよからぬことを企むかもしれないからな。しかるべき場所でしかるべき待遇を与えている」
アリシアのことを気遣ってぼかした言い方をしているが、つまり幽閉状態だということだろう。
「それでヴァリスだが……一年ほど騎士団の手ほどきを受けることになった。実害が出る前だったから、性根を叩きなおす方向に決まったようだ」
ヴァリスの処遇についてリオンは何も口出ししなかったらしい。すべて王と政務官たちに任せることにして、成り行きを見守った。
以前口を出したのがヴァリスに恨まれることになったのが、彼なりに堪えたのだろう。
「それで、肝心の教会だが……なんとも諦めの悪い」
王家を故意に騙そうとしたこと、そして別人を聖女として民を騙したことを咎め、それ相応の罰と教会の内部調査を行う権限を要求しているのだが、教会はあれこれと理由をつけて拒否している。
そのやり取りを思い出したのだろう。リオンの口から深いため息が落とされる。
頭が痛いというようにこめかみを押さえる彼に、アリシアはぽんぽんと慰めるように頭を撫でた。
それで多少は気が和らいだのだろう。リオンの顔に苦笑が浮かんだ。
聖女さえ手元にいれば、また権威を高めることができると思っているのだろう。
リオンとアリシアの関係はまだ公表されていない。王からの許可も得られたので婚約関係は結べたが、そこで止まった状態だ。
公表すれば否応なく他家に招待されることになるので、アリシアの教育が終わるまでは伏せて、教育に専念することになった。
「ああ、もちろん。従うつもりはないから安心してほしい」
力強く言うリオンにアリシアも頷いて返す。
アリシアも教会に戻る気はない。たとえ戻ったとしても、彼らのために働こうという気は起きない。
少し考えてから、アリシアはペンを手に取った。公表はしていないが、これぐらいはいいだろうと思って。
「リオンさま、これを教会の方に渡してください。それで、諦めると思います」
書いたのは短く、なんの変哲もない文章。ほかの人が見ればなんのことかと首を傾げるようなものだが、教会の――アリシアを世話していた修道女であれば、すぐに察するだろう。
求めているものが失われたのだと。
『人魚姫は泡になりました』
その一文を確認すると、リオンは手紙を懐にしまいながら「たしかに預かった」と微笑んだ。
「それでは俺はそろそろ行くが……またすぐに戻ってくるから待っててくれるか?」
優しい声色で言う彼に、もちろんだと頷いて返す。
そうしてリオンが去り、ひとりになった部屋で、アリシアはソファに体を沈めながら、幸せを噛み締める。
教会にいたころは、一日数十分の散歩だけが楽しみで、誰かと話すことはほとんどなく、誰かを待つこともなかった。
だけど今はそうではない。
いろいろなことを教えてくれて、優しくしてくれて、親切にしてくれて、幸せを知ることができた。
だから大切な人と、そして愛しい人も同じように幸せであることを祈って、ゆっくりと音を紡ぐ。
そうして奏でられた歌は消えることなく、天高く上っていった。
これにて完結です。
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再度になりますが、最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました。




