31話 聖女視点
一方カミラは、聞こえてきた歌の衝撃が抜けきれず、ひとり佇んでいた。
弾かれたようにリオンが去り、そのあとを追うようにヴァリスが立ち去ったが、彼らを追う気にはなれなかった。
(何よ、あれ。あんなの真似できないわよ)
あれが聖女の歌だということはすぐにわかった。
聖女の祈りを聞いた者が、奇妙な歌だったと評していたことがあるからだ。それを修道女たちは「気味の悪い娘が歌う歌も気味が悪いのね」と嘲笑っていたが、実際に今聞こえてきた歌は奇妙ではあったが、気味の悪いものではなかった。
あの歌を聞いたことのある者はひとりやふたりではない。貴族のなかにも助けを求めて教会に来た者もいる。
カミラが聖女として城に留まれば、そういった者たちと顔を合わせることもあるだろう。そして、たとえ力がなくても構わないからと、もう一度あの歌を聞きたいとせがまれたら――応えることはできない。
(……何が大丈夫よ。力を失ったって言えばいいって……全然大丈夫じゃないわよ、あんなの)
カミラがヴァリスのもとに行くと決まったとき、修道女たちは聖女の力を求められても、恋をしたと言えば大丈夫だと、そして教会の品位を貶めるようなことはするなと、カミラに教えていた。
そのなかに歌に関することはひとつもなかった。修道女もカミラも、たかが歌と侮っていたからだ。
だが恋をしたと言ってもヴァリスにはなんとかしろと詰め寄られ、侮っていた歌は絶対に真似できない代物だった。
(……逃げないと)
その思考に行き着いてようやく、カミラは一歩足を踏み出した。
カミラが偽物だと知られるのは時間の問題だろう。
今こうしている間にも、誰かが本物の――さきほどの歌を奏でた人物を見つけているかもしれない。
どうしてこんなところにいるのかとか、どうしてこんなところで歌っているのかとか、そんな疑問を考えている時間はない。
今すぐにこの場を去らなければ、カミラは偽物として糾弾されることになる。
(そんなの、冗談じゃないわ!)
聖女として崇められ、畏敬の念を向けられ、ちやほやされるのを当たり前のように受け取っていた。
城での生活だって、ヴァリスに見初められたのだから当然だと受け入れていた。
それなのに、偽物と責められ、蔑まれるなんて、想像するだけで怖気が走る。
「……っ!」
だが森を抜けたところで、カミラの足は止まった。
そこかしこを、何かを探すように人が行き交っている。泥で汚れた彼らのなかで、外套をまとい、濡れているだけのカミラはよく目立つ。
偽者として追われることを考えると、誰かの目に触れるのはよくない。足取りを追われれば、すぐに捕まってしまう。
「そこのお嬢さん! たしかあんた、王子殿下と一緒にいた人だろ!」
なるべく人目につかないように立ち去ろうとしたカミラだったが、数歩も歩かないうちに声をかけられてしまう。しかもその声につられたように、わらわらと人が集まってきた。
「なあ、聖女様がどちらにいるのか知らないか? ひどいことを言ったから、謝りたいんだが」
「おや、あんたはどこにいるのか知っているのかい? ならぜひとも教えてくれないか。まだ満足にお礼を言えていないんだ」
「それに濡れているだろうし、早く乾かしてやらないと風邪をひいちまう」
口々に思い思いのことを言われ、カミラは思わず一歩後退る。彼らの目に浮かぶ感情のいくつかは、彼女にとっては慣れ親しんだものだった。
尊敬、畏敬、親愛、それらはすべて、カミラに向けられていたはずのものなのに、今の彼らの目はカミラを映してはいない。
「し、知らないわよ! そんなの、私に聞かないで!」
どうして自分ではないのか。本来なら、その目も感情も自分に向いているはずなのに。
抱いた思いが、自然とカミラの声を大きなものにし――雨の止んだ夜空の下に響いた。
「お、おいおいどうしたんだい。疲れたんなら、休めるところを……といっても、土の上とかになるが……」
とまどうように言った男に、カミラは思わず舌を打ちそうになる。
(休めるところなんていらないわよ。それよりも早く行かないと……)
だが男に構っている暇はないと、無理やりにでも歩き出そうとしたとき、ふと視界の端で見覚えのあるものが動いた。
「ああ、よかった。まだいてくれて助かったよ」
響く落ち着いた声色と、柔らかな笑み。金色の髪の下にある赤い瞳も優しげなもので、カミラは自らの幸運を神に感謝したくなった。
(よかった。まだ気づかれていないのね)
リオンの顔には騙されていたという怒りも、蔑みもない。城で向けられていたのと変わらない笑みに、カミラの顔に自然と喜色が浮かぶ。
「リオン様! 助かりました。この人たちにおかしなことばかり言われて……」
困惑したように胸元で手を握りながら瞳を潤ませ、リオンに駆け寄る。彼がヴァリスほどでなくてもカミラに好意を抱いているであろうことは、城で過ごすなかで感じていた。
いつだって優しく微笑みかけて、不便はないかと何度も聞いてくれて、これまでの生活との違いにとまどってはいないかと配慮してくれていた。
だから助けてくれるはずだと――
「そうか、それは大変だったね。すまない、彼女は聖女の付き人なのだけれど、長旅をあまりしたことがなくて疲れて混乱しているようだ。またあとで必ず聖女とともに戻るから、もう少しだけ待っていてほしい」
「え、ええ、もちろん」
とまどいながらも頷く人々に、リオンは「助かるよ」と微笑みかけて、カミラの腕を掴んだ。絶対に離すものかという意思を感じる力強さで。
「あ、あの、リオン様……?」
「ほら、聖女も君のことを待っているから、行くとしよう」
返事を待つことなく歩き出すリオンに、カミラは顔を引きつらせながらも従うしかなかった。
彼の手を振りほどくほどの力はカミラにはなく、この窮地を脱する知恵も彼女は持ち合わせていない。
「あの、リオン様……きっと、何か誤解されているのではありませんか。私は……」
「申し開きがあるのならあとで聞こう」
そう言い捨てるリオンの顔には、さきほどまでの柔らかな笑みはない。代わりに、どこか苛々とした不機嫌な表情が浮かんでいる。
どうしてなのかを今のカミラが知ることはできない。いや、知っていたとしても理解するのは難しかっただろう。




