3話
それから、どのぐらい経っただろうか。だいぶ日が昇ってきているが、笛の音は鳴らない。
いつもならすでに鳴っていてもおかしくはない。気づかなかっただけだとしても、犬が放たれているはずだ。
(もしかして……本当に……)
ぎゅっと革袋を抱きしめる。アリシアはそこではじめて、革袋に何が入っているか気になった。
結わえられていた紐をほどいて中を見ると、干し肉が少しと丸い硬貨が二枚入っていた。
おそらくは、何も渡さず死なれるのも寝覚めが悪いと思ったのだろう。だから最低限のものだけ渡して――そのあとはどうなろうと、自分たちの責任ではないと思いたかったのだろう。
(……これは、お金、だよね)
硬貨を一枚取り出して、日にかざす。赤褐色をしたそれは、一般的には銅貨として使われているものだ。
だが物心ついたころから教会で暮らしていたアリシアには縁遠く、存在は知っていても実際には使ったことはない。
(これは、なんだろ……香木、にしては柔らかいし……)
そして干し肉にいたっては、これまで一度も見たことがなかった。
アリシアに与えられる食事はいつもパンとスープと決まっていたからだ。だがにおいを嗅いだ瞬間、くぅという音が腹から鳴る。
朝食の時間に外に出され、それから何も食べていなかったアリシアは、おそるおそる干し肉を口に運んで、端のほうを少しだけ齧った。
(おいしい、けど……ちょっと濃い、かも)
それでも食べる手は止められず、干し肉を一枚食べきったところで、アリシアは小さく息を吐いた。
金銭と食べ物。そして鳴らない笛。女性の言葉が真実であることを示すにはじゅうぶんすぎる。
(これからどうしよう……)
外に出たいと、好きに歩きたいと願わない日はなかった。だがいざ放り出されると、どこに行けばいいのかすらわからない。
だが元いた場所に戻ろうとしても、受け入れてはくれないだろう。世話をすることはできないと言われた以上、アリシアが戻ることはできない。
(……とりあえず、行こう)
どこにとは決めず、歩きはじめる。追い出されたのであれば、まだいると思われたら、戻るためではなく追い払うために犬を放たれるかもしれない。
くぅ、とまた腹が鳴るが、与えられた干し肉は残り二枚。今すぐ全部食べ切ると、このあと空腹になったときに満たすものがなくなる。
食事の大切さは、これまでの生活で思い知っている。だからアリシアは、あてもなく、ただ歩くだけに専念した。
数分か数十分か――あるいは数時間か。アリシアがいた教会の姿が見えなくなったところでようやく、足を止める。
普段数十分しか散歩をしてこなかったアリシアの体はすでに限界だ。これ以上は歩けないという体からの訴えに従うように、アリシアはその場で腰を下ろした。
(ちょっと、休憩……もう少ししたら、また……)
歩こう。そう思って、ゆっくりと目をつぶる。体を預けた地面が柔らかく、草が顔をくすぐる。いつもとは違う寝床に、自然と夢の中にいざなわれていった。
「――い。生きているか」
体を揺すられ、驚いて目を開けたアリシアの視界に入ってきたのは、淡い色合いをした金色の髪を持つ男性だった。
アリシアよりもだいぶ背が高く、大きい。修道女よりも大きな男性に、アリシアは何度も目を瞬かせる。
教会にも神父――男性はいたが、アリシアと顔を合わせることはなかった。アリシアの世界にいたのは、アリシアと、雪の中にいた人、それから修道女だけだった。
「ああ、よかった。こんなところでどうしたんだい? 親は一緒じゃないのかい?」
不安そうなアリシアに気づいたのだろう。男性はアリシアになるべく恐怖心を与えないようにアリシアの目線に合わせ、優しくほほ笑んだ。
そんな男性の所作にアリシアは何度も目を瞬かせ、ゆっくりと首を横に振る。
「んー……じゃあ、教会まで一緒に行こうか。もしかしたら君の親もそこにいるかも」
悩むように髪と同色の眉を下げて、男性の薄い水色をした瞳が遠くを見る。おそらくは教会のあるほうを見ているのだろう。
アリシアを迷子――あるいは捨て子だと思ったのなら、教会に行くという選択肢は間違っていない。
(それは、駄目……)
だが、アリシアだけは教会に行くわけにはいかなかった。何をしに戻ってきたのかと、また追い出されるだけだ。頑張って歩いてここまで離れたのに、また一からやり直しになる。
首を横に振るアリシアに、男性はまた困ったなというように苦笑を浮かべた。
「そうか、なら……どうしようかな。さすがに子供ひとりでこんなところに置いていくわけにもいかないし……じゃあ、セイル村まで送ってあげるよ。君の親も探しているだろうし、早く帰ったほうが君も君の親も安心だろう」
親は間違いなくアリシアを探してはいない。教会の前にアリシアを捨てていったのだと――昔からそう聞かされていた。
だが村まで連れていってくれるのなら、断る理由はない。アリシアがこくりと頷くと、男性は「立てるかい?」と言いながら、手を差し伸べた。
アリシアはおそるおそるその手に自らの手を重ね、立ち上がろうとして――
「いたっ」
慣れない距離を歩いたことによる痛みが足に走る。ぎゅっと顔をしかめたアリシアに、男性は自らの胸を押さえ、信じられないとばかりに目を見開いた。