29話
歌い終えたアリシアの胸に焦燥感が募る。
助けて欲しいと言われて、彼の心を少しでも安らげたくて歌ったのに、救いも奇跡も彼に与えることができていない。
苦しんでいる彼を元気づけることすらできないのなら、聖女の力になんの意味がある。傷ついた体は癒せても心は癒せないのなら、奇跡でもなんでもない。
(泣かないでほしいのに)
うなだれるリオンの姿にアリシアは息苦しさを感じた。
彼の瞳からは涙一粒零れていない。だが心は傷つき、表に出ないところで泣いているはずだ。
なんとかしてあげたいのに何もできないことが歯がゆくて、無力な自身に虚しさだけが募っていく。
どうすればリオンを助けることができるのか。どうすれば彼の役に立てるのか。何もない自分にいったい何ができるのか。どうにもならない思いが頭を占め、リオンを見上げていたアリシアの金色の瞳が揺らいだ。
(……ああ、そうか。私、この人に恋をしたんだ)
ぽとりと心の中に落ちてきた答えに、アリシアは自嘲する。どうして今、気づいてしまったのだろう。どうして『私』がこの人のために何かしたいと、思ったのだろう。
もう少しあとなら、彼の心を救えたのに、と。
アリシアは自らの胸の内に生まれた恋心を自覚するのと同時に、どうして恋をすると聖女の力を失うのかを理解してしまった。
誰かのために『神』に祈りを捧げることができない。この人のために『自分』が何かしたいと思ってしまう。
人のため、神のためという無欲な祈りを失うから、聖女の力を失うのだと――わかってしまった。
「……リオン……さま」
歌以外の音を紡ぐのは本当に久しぶりで、アリシアの口から絞り出された小さな声は、もしも雨が降り続けていれば、たやすく掻き消えていただろう。
だが雨は止み、すぐ近くにいるリオンに届くにはじゅうぶんな大きさだった。
驚きで見開かれた赤い瞳に、アリシアは今できる精一杯の笑みを浮かべる。
聖女の力を失ったアリシアの選べる方法はほとんどない。だが元々、アリシアは聖女の力に頼る発想は持っていなかった。リオンが怪我をしたときにはと考えてはいたが、その力だけでなんとかしようとは思っていなかった。
それなのに奇跡を目の当たりにしてしまい、それにばかり意識が向いていた。
(元々、私の歌なんてたいしたものじゃないって……そう思っていたはずなのに)
リオンは聖女の力がなくても、アリシアを助けたいと言ってくれた。だから自分も、自分自身にできることで彼を助けたい。
そう思っていたはずで、そこに聖女の力の有無は関係なかったはずだ。抱いていた気持ちを改めて取り戻すと、アリシアはリオンの赤色の瞳を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私……ええと、待っていて、ください。絶対に、助けますから」
今のアリシアにあるのは自由に動かせる体と、力を失ったからこそ発せられる声だけ。
ならそれを使って、リオンを助けるだけだ。
言い切ると同時にアリシアは力強く頷き、ヴァリスが去ったほうに向けて走った。
「え? ちょ、アリシア……!? 今のは!?」
そんなリオンの声を置き去りにしながら。
木々を抜け、少ししたところでアリシアはヴァリスの姿を見つけ、足を止めた。開けた場所でぼんやりと佇む彼に、静かに近寄る。
あまり刺激しないようにと気をつけていたが、それでも湿った土は歩くたびに音を立て、近づいてくる者がいることをヴァリスに知らせた。
「……なんだ」
ちらりと振り返ったヴァリスの顔は不機嫌そうだ。だがその程度の顔、アリシアには慣れたものだ。
蔑んだり、見下したりしてこないのだから、ヴァリスの顔のほうがかわいらしく思えるまである。
お構いなく近づいてくるアリシアに、ヴァリスは舌を打つと視線を外し、苛々とした様子で正面を見つめた。
(とりあえず、逃げる感じではなさそう)
ここまで走ってきただけでアリシアの息は上がっている。もしも逃げられでもしていたら、追いつくことなく見失っていただろう。
ほっと胸を撫でおろすと、アリシアはヴァリスの横に座った。濡れた草や土が外套と衣服を越えて冷たさを伝えてくるが、気にしている余裕はない。
走り疲れた体は休息を求めていて、立っているよりも座っているほうが楽だった。
「……どうしてこんなのが」
それだけの理由だったのだが、濡れた地べたに座るのが信じられなかったのだろう。ヴァリスの顔が不快そうに歪む。
だがそんな――貴族の流儀やら作法などアリシアは知らない。どうしてヴァリスが信じられないと言わんばかりの顔をしているのか理解できなくて、はてと首を傾げた。
(よくわからないけど……まあとりあえず、話でもしましょう)
立っているのも疲れるだろうと、ぽんぽんと地面を叩き、ヴァリスに座るように促す。
だが、ヴァリスがはいわかったと座ることはなく、また舌打ちを落とした。
「……兄上に連れ戻せとでも言われたか。お前の力には拘束し言うことを聞かせる力でもあるのか?」
それでも話をする気はあるようで、忌々しげに吐かれた言葉にアリシアはゆっくりと首を横に振った。
ヴァリスと話をしに来たのは、完全にアリシアの独断だ。それに力は失われたので、無理やり従わせる術もない。そもそも、そんな力があったのかどうかすら、今となっては確かめようがないだろう。
「ならばなんだ。何をしに来た。俺を嘲笑いにでも来たのか。騙された俺を……」
吐き捨てる口振りは、アリシアに怒りを抱いているからではなく、自身の選択や行動を悔いているからこそだろう。
だからアリシアは追求することはせず、また静かに首を横に振った。
「なら哀れみにでも来たか! 愚かな男だと笑いに来たか!」
苛立ちを募らせ、叫ぶように言い放つヴァリスに、アリシアはもう一度首を振る。
「ならば何をしに来たと言うつもりだ……! そこに黙って座っているために来たとでも言うつもりか!」
そこまで言われてようやく、アリシアは自分が一言も発していないことに気がついた。
なにしろこれまで自ら進んで何かを言おうとしたことはない。彼女にとっての普通は喋らないことで、意識して喋るという習慣が、彼女には身についていなかった。




