26話
それはまるで鳥のさえずりのように軽やかで、青々と茂る木々のざわめきのように穏やかで、降り注ぐ雨のように清らかな音色で。自然そのものを感じさせる音色のなかに言葉はひとつもない。
もしも言葉を持たない海の魔物がいれば、きっとこんな歌を奏でたのだろう。そう思わせる音色に耳を傾けずにはいられず、うめき声も祈りの言葉すらも消え失せた。
もしもこの歌を奏でているのが海の魔物であれば、このまま惹きつけたまま離さず、惑わせただろう。だが歌っているのは魔物ではなく、人間であるアリシアだ。
しんと静まり返ったのに気づき、アリシアは口を閉ざして周囲の様子をうかがう。
(……邪魔しちゃった)
染みついた習慣で思わず歌ってしまったが、アリシアの歌はとうてい歌とは呼べない代物だ。
アリシアが歌を口ずさむようになったのは物心ついてからで、当時の彼女は必要最低限の知識しかなく、言葉も知らなかった。だから彼女は歌のなかに、自らの知る音を――窓から聞こえる音を口ずさんだ。
そして成長にするにつれ、音色のなかに四季が生まれ、自然のざわめきが生まれた。
アリシアにとってはそれが歌で、世界が奏でる音だった。だがマティアスのもとで過ごすなかで、実際の歌がどういうものなのかを知った。
楽器を鳴らし、思いや感情を歌にこめることで生まれる旋律は、聴く者の心を動かすのだと学んだ。
洗練された歌声と比べれば、自分の発する音は雑音でしかなかったのだと、実感した。
ローナに感謝を伝えるために歌を捧げたとき、彼女がぴたりと動きを止めたのもそれが理由だったのだと納得するぐらい、ひどい代物だと理解してしまった。
それなのに祈るならと歌を歌い、彼らの手を止め、懸命な気持ちに水を差すような真似をしてしまったのだから、申し訳なさすぎて顔を上げることができない。
しょんぼりとアリシアが肩を落としていると、静かだった小屋のなかに戸惑ったような声が上がりはじめた。
「今、のは……?」
「歌だよ、な。いや、でも……」
困惑と動揺が入り混じり、視線があちこちにさまよう。そのなかでいち早く異変に気づいたのは、怪我人の手当にあたっていた人物だった。
できる限り血を止めようと押さえていた布に血が染みこまなくなり、苦痛に満ちたうめき声が安らかな寝息に変わっている。
変化が生じたのは彼が手当をしていた人物だけではなかった。ほかの者たちもだんだんと異変に気づき、よりいっそう困惑した視線が自然とアリシアに集中していく。
「……聖女、様?」
そのなかの誰かがぽつりと言葉を落とす。短く小さな声はざわめきのなかでもはっきりと聞こえ、みなの意識を引きつけた。
だがその一言でざわめきが収まることはなく、それどころかより大きなざわめきが生まれた。
「そんなまさか、だってさっきからずっとここにいたのに」
「だけどじゃあ、これはどう説明するんだ」
「だってこんなのは、奇跡としか言えないじゃないか」
聖女なのか、そうじゃないのか。口々に言いあう彼らに、アリシアもどうしたらいいのかわからず胸の前で手を握る。
先ほどまでとは違う喧噪に対処する術を彼女は知らない。だから不安げに瞳を揺らし、彼らを見つめ返すことしかできなかった。
「……なんでもっと早く、なんとかしてくれなかったんだ」
ぽつりと漏れた不満の声は、これまで懸命に救助にあたり、焦燥感を募らせていたからだろう。
もっと早く対処してくれていれば、傷つき苦しむ大切な人を見ていなくてすんだのに。失うかもしれないと苦しむこともなかったのに。
動揺した心のなかにわずかな怒りが混ざりこみ、最初の不満の声を皮切りに、アリシアを責める声が上がりはじめる。
「聖女かどうかなんて、どうだっていい! こんな、こんなことができるなら、どうしてもっと早く……!」
アリシアはこれまで、気味が悪いと見下されることはあっても怒りを向けられたことはほとんどなかった。散歩の時間を過ぎて犬に襲われかけても、遅れたのが悪いと怒られることはなく、遅くなるとこういう危ない目に遭うのだと諭されるだけだった。
これまで経験したことのない勢いに圧され、一歩後ろに下がったアリシアの背中に温かいものが触れた。
「すまない、遅くなった」
頭上から振ってきた声は聞きなれたもので、見上げるとまっすぐに正面を捉えるリオンの顔が目に入った。
「みなの者。君たちの戸惑う気持ちもわかるつもりだ。だが、状況を説明するにしても今は少し待っていてほしい。彼女はこのとおり体が小さく、力をそう何度も使うことはできない。しばし、休息の時間をいただきたい」
そう言うが早いか、リオンはアリシアを腕に乗せるように抱き上げると、返事を待つことなく小屋を出る。
どこか焦っているような彼の顔に、アリシアはしゅんとうなだれながら、落ちないようにリオンの首に腕を回した。
「……アリシア、君のせいではないよ。君は何も、悪いことはしていない。むしろ、君のおかげで助かった。……本来なら俺からお願いしなければいけなかったのに……負担をかけてしまい、申し訳ない」
囁くような柔らかな声に、アリシアは小さく首を横に振る。
アリシアは自分の歌に奇跡の力が宿っていることを、これまでぼんやりとしか理解していなかった。リオンに助けられたと言われ、マティアスからも聖女の力について説明されたから、そういうものらしいと理解はしていても、実感したことがなかった。
だから、傷ついた彼らを見ても神に歌を捧げるという発想が生まれず、祈るならと軽い気持ちで歌ってしまった。
救える力があるのにそうしなかったアリシアに、彼らが焦燥感に駆られ、憤るのも当然だろう。
「少し時間を置けば、彼らも冷静になるはずだ。それからもう一度、話をするといい」
話すといっても、アリシアが直接彼らに言葉を伝えることはできない。降り注ぐ雨のせいで見本表は湿り、無理に広げようとすれば破れるだろう。だからそのときはリオンを頼ることになる。
それをきっと、リオンもわかっているはずだ。だが彼の顔に面倒がる気持ちはなく、穏やかにアリシアを見つめている。
だからアリシアは彼の優しさに甘えようと、こくりと頷いて返す。
「このあたりでいいか。とりあえず、これからどうするかを話そう」
木々が立ち並ぶ森の中に入ると、リオンは少しでも雨をしのげる場所を探し、抱え続けていたアリシアを降ろした。
そしてリオンが再度口を開くよりも早く――
「兄上、今のは……いや、それは、そいつは……」
初めて聞く声がアリシアの耳に届いた。




