23話
目の前に広がる惨状に、アリシアは息をのみ、馬から降ろしてくれたリオンにしがみついた。
教会には助けを求めにくる人はいたが、直接見たことはなかった。大けがを負ったという人も、病で苦しんでいるという人も、壁越しで歌うだけで、彼らの顔どころか名前すら、アリシアは知らない。
そして教会を出てから見たものは綺麗なものばかりで、誰かが血を流しているのを見たのは雪の日にリオンを見つけたとき以来だった。
「アリシア。少し休もう。まずは状況を把握しなければならないからな」
怯えているアリシアに気づいたのだろう。彼女の目を隠すように、リオンの外套が彼女を覆う。
雨に打たれていたアリシアを外套の中にいれたのだから、当然リオンの服も濡れてしまう。だがそれを気にすることなく、気遣ってくれるリオンに、そして伝わる温もりに、アリシアは胸が絞めつけられるようだった。
(役に立つって決めたんだから)
きっとこのあとリオンはアリシアをどこかに休ませて、事態の収拾がつくまで走り回るのだろう。
リオンが傷を負えばそのときは助けられるかもしれないが、それでは遅すぎる。
自らに課せられたのが救急箱の役割だということは、アリシアも理解している。だがそれだけでは役に立ったとは言えないだろう。
(私にも何かできることがあるはず)
たとえば、救助の手伝い。あるいは怪我人の看病。体が小さく、知識も豊富ではないが、それでも人の手は多いに越したことはないはずだ。
アリシアは首を横に振り、自分も何かすると力強くリオンを見つめる。
「……わかった。なら、怪我人の手当に何人か割いているはずだ。彼らの手伝いを頼む」
渋るように沈黙を貫いていたリオンだったが、アリシアの無言の圧に根負けしたのだろう。弱り切った顔でそう言ってから、近くにいた人に声をかけ、アリシアを案内してくれるように頼んだ。
「王家の人がふたりも助けに来てくれるなんてありがたいです」
頼まれた青年は腰を低くしながら、嬉しそうに笑って、アリシアの案内を引き受けた。
リオンはほかの人にも話を聞きに行くのだろう。無理はしないようにとアリシアに言い含めて、その場から立ち去る。
「では、ええと、お嬢さん。一緒に来てくれ、もらえますか?」
こくり、と頷いて返す。
アリシアがどういった立場なのかを測りかねているのだろう。王子であるリオンと来たのだからやんごとない立場であるのは間違いないはずだ。だがどうしてこんな小さな女の子が、という気持ちが隠せずとまどっているのが、見るだけでわかる。
「えーと、まあ、でも手当といってもね、たぶんあんまりすることはないと思います。なにしろ、聖女さまが来てくれたそうですから」
そして早々にアリシアの立場を考えるのをやめたのだろう。庶民に過ぎない自分が考えてもしかたない事情があるのだと結論付けたのか、青年は困惑した表情を消し、笑った。
これから助けてもらえる――間違いなく、大切な人たちが助かるのだという、安心しきった顔で。
「それに聖女さまはすごく綺麗に歌うらしいじゃないですか。どんなのかお嬢さんは聞いたことがありますか?」
聞いたことがあるかないかでいえば、当然ある。なにしろ、自分の口から発せられているのだから否応なく耳にも入る。
だが彼の言う聖女はアリシアではなく、おそらくは先に到着したカミラのことだろう。
(もうひとりの聖女は……ええと、たしかカミラさん、だったかな。あの人はどんな歌を歌うのだろう)
リオンとマティアスのやり取りを思い出し、その中からカミラの名前を拾い首を傾げる。
聖女がふたりいたことはないと、マティアスとリオンは言っていた。だから彼女の歌に奇跡が宿っていることはないはずだ。
それでも、歌には人の心を震わせる力がある。神の恩恵などなくても、人の心を和ませることができることをアリシアは知っている。
クロヴィス邸でほんの数回だけだが人の歌を聞く機会があり、心に響くというのはこういうことなのだと感じたことがあった。
だから、カミラ自身の歌を聞いて、心を震わせた人がいたのだろう。それが綺麗な歌として伝わったのだとアリシアは結論付けた。
なにしろ、アリシアの歌は綺麗とはとても言い難い。ほかの人の歌とは天と地ほども違う。
自分の歌だからこそ、ほかの人との明らかな差を実感していた。
「それでは、こちらで……おーい。こちらのお嬢さんも手当にあたってくれるそうだ。あとは任せたぞー」
木の板を組んだだけの建物は、雨風さえしのげればいいと言わんばかりの簡素な造りだった。
床に値するものはなく、湿った地面の上に人が並べられている。その周りを、比較的軽傷な人が慌ただしくが歩き回り、水は、布は、と指示の声が飛び交う。
「じゃあお嬢さん! この布を洗ってきてくれるかい」
そのなかのひとりが、アリシアにありったけの布を渡してきた。変色したそれは何度も洗い、何度も使ったのだろう。
綺麗な布などもうどこにもないというような使い古されたそれらを、アリシアはよろめきながらもしっかりと受け取る。
「裏にたらいが並んでるから、そこで洗っておくれ。……綺麗な水じゃないと触れないとは言わないだろうね?」
恰幅のよい女性が指示を出してから、アリシアの身なりが自分たちと違うと気づいたのだろう。少しだけ眉をひそめて言う彼女にアリシアはぶんぶんと首を横に振った。




