22話 聖女視点
「あ、あの、ヴァリス様。どちらに行かれるのですか?」
馬を一時休めるために立ち寄った町で、カミラは不安そうにヴァリスを見上げた。
慣れない乗馬で足はがくがくで、綺麗に整えられていたはずの髪は乱れている。数時間前まで温かく味わい深いお茶と茶菓子に舌鼓を打っていたはずなのに、今は味わいも何もない水しか手元にない。
「すまない。無理をさせてしまったな。だが。俺と君の結婚を父上に認めてもらうために、どうしても必要なことなんだ」
「……そうなのですね。必要なことであれば、私も頑張ります」
正直なところ、これ以上馬に乗って移動したくはなかった。柔らかな椅子に体を沈めて、ゆっくりと馬車で移動したい。
だが優しく手を握られ、熱い瞳で見つめながら『必要なこと』と言われれば、頷くしかなかった。
(王族の、しきたり……みたいなものかしら)
カミラは幼少のころに教会に拾われた身。それなりに知識と教養は身につけてはいるが、王族の情報に明るいわけではない。
そして彼女が学んだ常識は教会の常識であり――一般的な常識とは違うところもある。
(神も愛の試練を与えるというものね)
たとえばそれは、神の試練。悪いことがあれば、それは試練であると、神が成長するための機会を与えてくれたのだと教えられる。
アリシアほどではないとはいえ、カミラもまた、俗世から隔離されて育てられた世間知らずである。しかも城に迎え入られてからは蝶よ花よと扱われ、城外に出ることもなかった。
自らの認識と他者の認識に齟齬があることに気づく機会は訪れず――
「そろそろ出発しよう。日が暮れる前に宿場に到着したい」
「はい。お願いします」
そして今も、じわじわと首を絞められていることに気づかないまま、ふたりは出発した。
宿場で一晩過ごし、また馬を走らせ――到着したのは、目を覆いたくなるほど悲惨で凄絶な光景が広がる場所だった。
申し訳ていどにかぶされた外套に降り注ぐ雨が滴り、地に落ち、濡れた体がぶるりと震えた。
だが震えは体が冷えたからだけではない。
大きく盛り上がった土からのぞく、石や木でできた屋根。土や石が入り混じり、雨で湿った土を懸命に掘り起こそうとしている人々。 彼らのなかにカミラと同じように外套を着ている者はいない。薄い衣服を雨風にさらし、濡れるのも厭わず動き回っている。
「よかった! まだ息があるぞ!」
どこからか喜びの声が上がり、歓声が沸く。泥と血をまとった人を肩に担ぎ、木の板で作られた簡易的な建物に運ぶのを見て――カミラは隣に立つヴァリスを見上げた。
目の前の悲惨な光景に、彼もまた眉間に皺を寄せている。だがカミラが見ていることに気づいたのだろう。ヴァリスはカミラのほうを向くと、彼女の不安を取り除くように自信に満ちた笑みを浮かべた。
「案ずることはない。君ならきっとうまくやれる」
何を、と聞く暇はなかった。ヴァリスはそれだけ言うと、簡易的な建物に向けて歩きはじめてしまったから。
繋がれた馬を一瞥してから、カミラも彼のあと追う。今すぐここから馬に乗って去りたいが、馬を操る技術はカミラにはない。帰るにはどうしても、ヴァリスの助けがいる。
「あ、あの、ヴァリス様――」
これから何をするのか。そう問おうとする前に、ヴァリスが大きく口を開いた。
「みなの者! 俺は第二王子ヴァリス! そなたたちを助けるため、聖女を連れてきた!」
その堂々とした宣言に、一瞬だが沈黙が落ちる。だがすぐにヴァリスが何を言ったのかわかったのだろう。
期待と希望のこもった視線が一斉にカミラへと向けられた。
「ああ、ありがとうございます。もう駄目だと、そう思っていたのに」
安心して気が抜けたのだろう。涙を流す者までいる。
友の、夫の、子供の、恋人の看病にあたっていた人たちが我さきにと助けを求め、カミラに手を伸ばした。
カミラが青ざめていることにも気づかずに。
「な、なにを、おっしゃっているのですか」
「聖女の力でみなを助けられれば、君の力は有益だと、父上も認めざるを得ない。だから、
頼む」
ヴァリスの言葉に、カミラは顔をひきつらせた。
彼は本気で言っているのだ。カミラがここで奇跡の力を使えば、それですべてが解決すると。
だがカミラに聖女の力などない。奇跡はカミラでないものが起こしていた。カミラはただ、聖女らしくふるまい、聖女らしい笑みを浮かべて、聖女として扱われていただけだ。
ふたりの未来のためだと甘く囁くヴァリスの期待に応えることはカミラにはできない。
「ヴァ、ヴァリス様……ご存じないのですか」
声が震え、唇も震える。だがそれは、寒さからではない。ヴァリスの言葉がカミラの理解を越えていて、あまりにも信じがたいものだったからだ。
聖女の力がなくてもいいはずだった。カミラになんの力もないことは、彼女を聖女として祭り上げた人は知っている。それなのに、彼らは聖女が王子に嫁ぐことを歓迎した。
聖女の力を使わなくていいと、彼らは知っていたから。
「聖女は、恋をすると力を失うのですよ」
だがそれは教会の常識であって、一般的な常識ではないのだと――カミラは知らなかった。




