21話
静まり返る部屋の中、最初に静寂を破ったのは深いため息だった。
「あいつは……何を考えているんだ」
苦々しいリオンの声に、マティアスがそっと目を伏せる。浮かびそうな感情を隠しているのだろう。
クロヴィス家に滞在してから、アリシアは国というものを学んだ。王がいて、貴族がいて、民がいる。貴族は王家に忠誠を誓っているのだと教えられた。
だから、貴族の一員であるマティアスは王家の一員である王子を悪く言うことができない。
リオンやアリシアだけならともかく、報告しに来たのは王家に仕えている騎士。呆れも怒りも彼の前で出すにはふさわしくない。
「ヴァリス殿下は聖女の力については……」
「わざわざ学ぶほどのことではないが……調べればすぐにわかる。聖女を迎えると決めたのだから、当然調べていると思いたいが……そうだとするとカミラを連れて城を飛び出した理由に説明がつかない」
「そうですね……災害に遭った方々を聖女の力で救いに行った。そう考えるのが適切でしょう」
苛々とした様子でリオンの指が机を叩き、彼の赤い目が騎士に向けられた。不機嫌さを隠そうとしないリオンに、騎士が一瞬だけど体を強張らせる。
「出ていってからどのぐらい経つ」
「おそらく、あまり経っていないかと……ただ、一番速い馬に乗っていったため、今すぐに追いかけても追いつけるかどうか……」
だから止めるのは難しいと言外に忍ばせる騎士に、リオンは再度ため息を落とすと、立ち上がった。
ちらりとリオンの目がローナに向けられる。それだけで彼が何を命じたいのか察したのだろう。ローナは失礼いたしますと言って、部屋を出た。
「今すぐ俺も向かう。追いつくのは難しくても、すぐに後処理ができればことは大きくならないはずだ」
「……お待ちください。殿下自ら赴かれて、万が一のことがあってはいけません。いまだ雨が続いていると聞いています。またいつ山が崩れるかわからないのですから――」
「王族の不始末を、誰が拭える。民に誠意を見せるのであれば、同じ王族が出向くべきだろう。父上よりは俺のほうが動きやすい」
「ですが、それで怪我を負われたらどうするおつもりですか」
「そのときはそのときだ。父上には申し訳ないが、もう一度子育てしてもらうしかないな」
どうにかして止めたいマティアスと、意思を曲げる気のないリオン。
リオンが傷つくのはいやだというマティアスの気持ちはアリシアにもわかる。だが王族として民のためを思うリオンの気持ちも――完全に理解するのは難しいが、わからないわけではない。
だから悩んで悩んで、アリシアは文字を書いた。急いで書き写したそれは歪んではいるが、解読が必要なほどではない。見方を少し変えれば、じゅうぶんに読み取れる。
「……アリシア。何を言っているんだ。そんなの、君も連れていくなんてできるわけがないだろう」
アリシアが書いた私、行く、という短い言葉に、リオンがぎょっと目を見開いた。
絶対に連れていかないとばかりにぶんぶんと首を振られ、アリシアは次の文字を書こうとして――まだるっこしくなり、文字を次々に指で差していく。
治す、怪我、安心。そのみっつの単語はマティアスに。
マティアスはリオンが怪我して命を落とすことを恐れている。だからこそ、自分を連れていったらいいと訴えるために。
死に瀕していた彼が本当に生還したのであれば、アリシアの歌にはそれだけの力がある。即座に絶命しない限り、やりようはあるはずだ。
「……君も危険な目に遭うかもしれない。それでも行くと言うのかい?」
もちろんだと力強く頷く。
アリシアはマティアスとリオン、ふたりに恩を感じている。優しくしてくれて、頼っていいと言ってくれて、温かい場所と気持ちをアリシアに与えてくれた。いろいろなことを教えてくれた。
だからどちらの意見も無下にしたくなかった。ふたりの意見が通るように――リオンが怪我をせず、それでいて目的を果たせるようにするには、どうすればいいのか。
考えて悩んで、出た結論は自分が同行するというものだった。
(私の力がどのぐらいかはわからないけど……それでも、歌さえ届けば……)
きっとなんとかなるはず。確信はないが、今のアリシアが選び取れる最善の道はそれしかない。
「……わかりました。アリシアが同行するのであれば、我が家の馬を貸し出しましょう。城に戻る時間も惜しいでしょうから」
アリシアの強い意志を感じたのだろう。マティアスは折れた。あとはリオンが折れれば、この話は終わる。
「…………わかった。だが絶対に、危ないことはしないと約束してくれ。まず第一に自分を優先すると、約束してほしい」
こくりと頷いて返す。
アリシアが歌えない状況に置かれれば、リオンを助けられなくなる。自分をおろそかにして、怪我をしたリオンを治せないのでは本末転倒だ。同行した意味もなくなる。
だから約束を守るという意思が通じるように、アリシアはじっとリオンを見つめたのだが、彼の心配そうな顔を拭えないまま、出発することになった。
――アリシアが自らの誤算に気づいたのは、出発して少ししてから。
馬で飛び出したというヴァリスを追うために、馬車ではなくリオンも馬を使うことになった。だから当然、アリシアも馬に乗るわけで。
リオンの両腕にはさまれる形で鞍にまたがり、必死に掴まる。だがそれでも、振り落とされそうなほどの揺れがアリシアを襲う。
(とんだ足手まといになってる……)
リオンは鞍に掴まるので精一杯なアリシアを気遣ってか、速度を調整している。きっと彼ひとりであれば、もっと速く走れただろう。
一緒に行くと言ったのは自分なのに、こんなところで足手まといになるとは。鞍を掴む手の力が弱まらないように注意しながらしょんぼりと落ち込んでいると、アリシアの頭上に声が降ってきた。
「ヴァリスもカミラを乗せているから……そんなに速くは移動できていないはずだ。彼女も馬に乗り慣れているようには見えなかったからな」
リオンの気遣いが痛いほど伝わってくる。優しさを感じるからこそ、アリシアの胸がよりいっそう痛んだ。
(……なんとしても、お役に立とう)
連れて来て失敗だったと彼に思われないように。自分にできる限りのことをしようと心に決め、アリシアはぎゅっと拳を握った。




