20話 前半第二王子視点
転機が訪れたのは、それから一週間ほどしてからだった。
「ラオンフェイル領で土砂災害?」
第二王子として――いずれは臣下に降る身として政務について学んでいたヴァリスのもとに、一報が入る。
ラオンフェイル領は山岳地帯の近くにあり、王都からは遠く離れている。商団が通る道からも外れているため、物資や医師が足りず、助けを借りたいという書状が届いた。
だが医師団を結成したり、物資を用意したりするのにはどうしても時間がかかる。それだけの人数とものを運ぶための馬車も必要になり、ラオンフェイル領に到着するのはだいぶ先になるだろう。
ばたばたと慌ただしく、どのぐらいの物資を用意できるか、医師は、道は、馬車は――と駆け回る城内の文官を見て、ヴァリスの顔に笑みが浮かんだ。
ヴァリスはいまだ、どうすればカミラと一刻も早く結婚できるかを悩んでいた。だからこの機を逃すまいと、急いでカミラの部屋に向かう。
「あら、ヴァリス様。どうかされましたか?」
そうしてきょとんと首を傾げているカミラの手を取り、逸る気持ちを押さえられないまま、城を飛び出した。
◇◇◇
アリシアの手がゆっくりと動く。おぼつかない手つきに、それを見守っているローナとリリアン、そしてリオンの緊張が高まる。
隣に置かれている見本表を真剣に眺めながら、ゆっくりと、正確に、紙の上をペンが滑っていく。そうしてペンが机の上に静かに置かれ、アリシアの顔に笑みが浮かぶと、ほっとしたような空気が部屋に満ちた。
(できた……!)
歪さは隠せていないが、それでも解読が必要なほどではない。念のため見本表と見比べて、間違えていないかを確認してからそっとリオンに差し出した。
そこに書かれているのは、短いお礼の言葉。ありがとうとだけ記されたそれに、リオンは嬉しそうに顔をほころばせた。
「こちらこそ、ありがとう。これは後生大事に保管しておくよ……初めての手紙でないのは、残念だけど」
じろりとリオンの目が彼と同じく見守っていたマティアスに向かう。
お世話になっている人にお礼の言葉を直接――ではないが、自分で書いて伝えたいというアリシアの意向により、ローナの助けを借りながら仕上げた一枚目の手紙。
そこには今書いたものよりも長く、これまでお世話になったことや、拾ってくれたことに関するお礼が綴られていた。
そしてそれをマティアスに渡しにいくと、ちょうどリオンが来ていて、話の流れで彼にも手紙を書くことになり――今に至る。
(本当はもっといろいろ書きたかったけど……)
今すぐに、どうしてもとお願いされ、短い文章になってしまった。
長い文章を書くには時間がかかるので、彼が城に戻るまでに書ききるのが難しかったからだ。
それでもリオンは嬉しいらしく、大切そうに懐にしまっている。
「殿下はたまに遊びに来るだけですからね。お礼の気持ちが違うのはしかたないかと」
「毎日は駄目だと言ったのはマティアス、お前だろう」
「遊び歩くと宣言されて了承できるわけがないでしょう」
茶化すマティアスと不貞腐れるリオン。毎度こうなので、アリシアはもちろんローナとリリアンもわざわざ口を挟もうとしない。
それどころか、次はこの文字を練習してみましょうか、と次の課題について話しだしている。
(いつかは、直接お礼を言えたらいいな)
アリシアの声は魔性ではない。そう教えてくれたのは、マティアスとリオンだった。
恋をすると死ぬのではないのかとアリシアが問いかけると――正確に言えば、声、魔物、恋、死、と綴った単語をリオンが読み解くと、そんなことはないと全力で否定した。
彼らの言葉と教会の言葉、どちらを信じるべきなのか、悩むことはなかった。
親切にしてくれて、いろいろ教えてくれたリオンとマティアス。
ただそういうものなのだと言い、落丁した絵本を渡し、外界との接触を極力減らした教会。
どちらを選ぶべきかなんて、考えるまでもない。
(それでも……)
喋る勇気はまだわいてこない。
聖女の力は魔に属するものではないが、正確なことはわかっていないと、マティアスはアリシアに話した。
使う者によってはいろいろ悪用できるものだということも、隠すことなく教えてくれた。
アリシアの声も使いようによっては悪いことに使えるだろう。ただ、どういう代物なのかアリシア自身わかっていないので悪用のしようがないが。
(……何かが伝わっているのは間違いないはず)
漏れ出た苦痛の声に、マティアスは己の胸を掴んでいた。おそらくは、アリシアの苦痛が彼の胸を苛めたのだろう。
「――それで、マティアス。ラオンフェイル領についてだが」
「あちらはもともと災害に遭いやすい地域ですので、蓄えはそれなりにあったはずです。おそらくは、ほかの要因も重なったのではないでしょうか」
手紙をもらって満足したのだろう。改めて話しはじめるふたりに、アリシアは自分の胸に温かなものが広がるのを感じた。
(……歪めたくないな)
伝わるのはおそらく、苦痛だけではない。喜びも感動も、アリシアが声を出せば彼らに届き、同じような感情を抱くだろう。
だがそれはアリシアの感情であって、彼らのものではない。彼らには彼らの、その人自身が感じた思いを抱いてほしい。
アリシアの声で、彼らの感情を潰してしまいたくない。
「それではアリシア様。次はどのような言葉を練習しますか?」
だからアリシアは真剣に、見本表に指を滑らせる。
自分の思いを伝えても彼らがありのままでいるには、これしか方法がない。
「喜びを伝える言葉、ですか。ありがとう以外ですと――」
ローナがいくつかの文字を紙の上で書き、それぞれの意味とつながりについて話していると、不意に扉が大きく開かれた。
「マティアス様とリオン殿下。こちらにいらしゃいましたか……!」
慌てた様子で部屋の中に駆けこんできたのは、青を基調とした騎士服に身を包んだ青年。リオンの護衛としてアリシアも何度か顔を合わせたことがあった。
だが今日の護衛は彼ではなく、壮年の男性が勤めていて、扉の前で警護に当たっていたはず。
「……何かあったのか」
壮年の男性が厳しい顔をしながら一緒に顔を覗かせたのを見て、リオンが警戒したような眼差しをふたりに向けた。
「ヴァ、ヴァリス殿下が、ラオンフェイルを訪ねると、聖女カミラと共に馬に乗って、飛び出しました……!」
しんと落ちる沈黙に、アリシアはぱちぱちと目を瞬かせて、首を傾げた。




