2話
「ん、んん……」
窓から差しこむ光のまぶしさがアリシアの目を刺し、かすかなうめき声を漏らす。
寝る向きを変えればこんな目覚めを味わうことはないが、朝食までに起きていなかったら食事を抜かれてしまう。食事か目覚めか。アリシアは悩んだ末に食事を選び、もう何年も朝日に目をくらませながら目覚めていた。
(昨日は散歩の時間なかったなぁ)
一日に一度の楽しみが昨日はなかったことに小さくため息を落とす。外が騒がしかったと思ったのは、もしかしたら気のせいではなかったのかもしれない。
それのせいで、アリシアの散歩を忘れてしまったのだろう。
だがさすがに今日は思い出してくれるはず。そんな期待を胸に、朝食の訪れを待つ。
「ほら、あんたはもう出て行けってさ」
だが重々しい扉から現れたのは、いつもアリシアに朝食を持ってきてくれる修道女のひとりではなかった。これまで見たことのない恰幅の良い女性で、その手には小さな革袋が握られている。
軽い音を立てて床に置かれた革袋と女性を交互に見るアリシアに、女性は鼻で笑って返した。
「頭が足りてないって噂は本当のようだね。あんたみたいなお荷物、もうここで世話することはできないんだってよ。なにしろ、カミラ様が王子様に嫁ぐことに決まったからねぇ。気味の悪い子をかくまってたと知られたら、教会の名に傷がつくってさ」
ぺらぺらとよく喋るのは、アリシアに理解できないと思ってのことだろう。実際、アリシアは女性の言葉の半分も理解できていなかった。
これまで数十分の散歩以外で外に出ることはなかった。祈りを捧げるために部屋を出ることはあったが、それも教会の中で行われ、部屋から部屋に移動するだけ。
それなのに世話はできないと言われ、出ていけというのは――つまり、どういうことなのか。
(外に出ても、いいということ……?)
おそるおそる革袋に手を伸ばす。これで実はアリシアに課せられた試練だったなら、この時点で欲深いと叱責されていたことだろう。
だが女性はアリシアを止めることなく、それどころか早くしろと言うように組んだ腕を指で叩いている。
「ほら、早くしな。あんたに付き合っている暇はないんだよ」
革袋の紐を指に引っ掛けると、女性はアリシアに背を向けてずんずんと歩き出した。遠慮のない足取りに、慌ててアリシアもそのあとを追う。
カツカツと長く伸びる階段を踏む音が響く。壁に灯されたランタンの明かりを頼りに歩くのは、これまでに何度も経験している。だが手に何かを持ってというのは、これが初めてだ。
(あ、絵本……持ってくるの忘れちゃった)
一頁ごとに挿絵の入っている本が部屋に置き去りになっていることを思い出したが、引き返せば女性はきっと怒ってアリシアを止めるだろう。
それでこの、気まぐれとしかいえない外出許可がなくなったら、今日の散歩どころではなくなるかもしれない。
これまで何年も連れ添ってきた絵本に心の中で別れを告げ、階段を上りきる。
いつもならこのまま階段のすぐ横にある扉をくぐるのだが――どうするのかと、女性の挙動を見守る。
そしてアリシアの予想どおりと言えばいいのか、女性はすぐ近くにある扉を開けて、出るように促した。
(……ただの散歩、ということかな。いつもとは少し、趣向の違った)
扉をくぐり、見慣れた光景に深く息を吸い、吐き出す。
緑の香りが鼻をくすぐり、温かな空気が喉の奥にまで入ってくる。部屋の中では味わえない空気を堪能していると、アリシアのすぐ後ろで扉が閉められた。
アリシアを見張る人がいないのはいつものことだ。修道女は誰もアリシアと同じ時間や空間を共有したがらない。だから用が終わればすぐに去り、時間を知らせる笛の音を鳴らすときにようやく出てくる。
(もうこんなに色づいたんだ)
たった一日見ていなかっただけの外は、この前見たときよりもだいぶ様変わりしているような気がして、心の中で感嘆の声を上げる。
少しだけ湿った土と、生えてきた草を踏む。雪とは違う感触と音を聞き、緑色の葉を茂らせる木と茶色く聳える幹、それから晴れ渡る青空を眺めているだけでアリシアの心は満たされていく。
狭い部屋の中しか知らないアリシアにとって、日ごと姿を変える外の世界は毎日が新鮮なものであふれていて、いくら見ても見飽きなかった。
いつもと同じようにあまり遠くまで行かないように注意しながら、木の幹に体を預けて土の上に腰を下ろす。こうして硬い壁以外を味わうのも、冬以外の醍醐味だ。
冬は音を楽しんだり、どこまでも広がる銀景色を綺麗だと思うことはできても、それ以外のことはできない。だから、あまり好きではない季節だった。
(それに――)
かつて雪の中から見つけたものを思い出して、ふるりと体を震わせる。
もう少し早く見つけていたら。何度そう思っただろう。雪の中で旅立つしかなかった人のことを考えるだけで、アリシアの胸にぽっかりと穴が開く。
ほとんど思い出といえるものがないアリシアにとって、間に合わなかった死は忘れたくても忘れられない思い出として、消えることのない楔のように打ち込まれていた。