18話
恋をすると命を落とす。だけどアリシアはまだ、元気に生きている。
そこまでの想いはまだ抱いていないのだとしても、いつかは誰かに恋をして、死に至る。それがわかっていたから、教会の人たちはあっさりとアリシアを手放したのだろう。
外の世界は輝きで溢れていて、誰かに恋せずにはいられないと知っていたから。
「アリシア!」
ぼんやりとソファに座り、意味もなく天井を眺めていたアリシアの耳がばたばたと騒がしい音を拾ったと思えば、勢いよく扉が開かれ、自分の名を呼ぶ声が飛びこんできた。
ぎょっと驚いている間もなく、部屋の中に入ってきたリオンが駆け寄ってくる。
「すまない。君に重荷を背負わせるつもりはなかったんだ。俺にとっては助けられたことにそれだけの価値があったのだと言いたかっただけで……それをどう捉えるかは君次第だ。いくらでも気楽に考えてもらって構わない」
そうしてアリシアの前で跪くと、慌てたように口早に言い募った。
焦りを抱き、懇願するように自分を見上げる赤い瞳に、アリシアはぱちぱちと瞬きを繰り返した。何を言われているのかわからなかったからだ。
言葉の意味がわからない、ということではない。アリシアにとってはあまりにも突然で、唐突すぎて、理解が追いつかなかった。
「もちろん、助力が必要ならば助けるという言葉に偽りはない。本心だ。とはいえ、無理に助けを求めろと言っているわけではない。どうしても君自身の手では解決できない何かがあったときに、頭の片隅にでも手段のひとつとして置いておいてくれれば――」
なおも言い募るリオンに待ったをかけようと、彼の口の前に人差し指を立てる。少し待て、というように。
ぴたりと口上が止まったのを確認してから、アリシアはソファから立ち上がると、窓際にある文机に向かい、その上にある鞄を手に取った。
中にはほとんど何も入っていない。それなのに鞄を持ち歩いたのは、文字の見本表を入れられるだけのポケットがアリシアに与えられた服にはなかったからだ。
アリシアは見本表を取り出すと、改めてリオンのもとに戻り、彼の前で四つ折りにされた紙を広げた。
「なに……あった……。ああ、いや、その……マティアスに言われて気づいたんだ。ほぼ初対面の男にあんなことを言われても、困るだけだということに……」
アリシアはまだ単語しか覚えていない。接続詞は難しく、まともな文章を綴ることもできない。だからどうしても武骨で拙い問いかけになってしまう。
だけどそれでも、アリシアの言いたいことがリオンに伝わったのだろう。彼は平静を取り戻し――少なくとも、取り戻すように努めながら――ゆっくりと落ち着いた様子で、話しはじめた。
「……自分の気持ちばかり押し付けては負担になるとわかっていたはずなのに、そこまで気を回すことができなかった。撤回するつもりはないが、君に負担をかけるのも、俺の望むところではない。だから俺の言葉など気楽に捉えてくれて構わない――そう伝えたかったんだ」
ゆっくりと落ち着いて話されてもやはりよくわからず、アリシアは首を傾げた。
リオンにたいしてありがたいと思いはしても、負担だと感じたことはない。ましてや、困ったこともない。
きょとんと不思議そうにしているアリシアに、リオンは少しだけ眉根を寄せ、難しそうな顔をする。ようやく、噛み合わなさに気づいたのだろう。
「……君が物思いに耽っていたのは、俺の言葉が原因ではなかったのか?」
そしてアリシアもようやく、自分の元気がなくなったのをリオンが心配してくれたのだということに気がついた。
アリシアは勢いよく頷くと、もう一度見本表の上に指を滑らせた。
教会、絵本、人魚、死ぬ、思い出す。綴られた五つの文字にリオンの視線が注がれる。そしていくらかすると、リオンは顔を上げてアリシアをじっと見つめた。
「つまり……教会で読んだ絵本を思い出していた、だけだと……?」
こくりとアリシアが頷くと、ほっとしたようにリオンの顔がほころんだ。
「そうか、それならよかった。思い入れのある絵本なら、取り寄せよう。……いや、人魚が死ぬ絵本といえば、あれぐらいか……あれなら、ここにあるかもしれないな」
考えをまとめるように呟くと、リオンはおもむろに部屋の隅にいたローナに顔を向けた。
いきなり部屋に入ってきて跪きまくしたてはじめた王子に、できるかぎり顔色を変えず、物音を立てないように尽力していた彼女だったが、さすがに意識を向けられては平静を装いきれなかったのだろう。少しだけ顔をこわばらせながら、楚々とふたりのもとに寄ってきた。
「絵本を一冊書庫から持ってきてほしい。有名な絵本だから、おそらくあるはずだ。なければ購入の手配を」
「かしこまりました」
しばらくして戻ってきたローナの腕のなかには一冊の絵本。タイトルは『人魚姫』。アリシアの記憶にあるものよりも厚みを増したものが、リオンに手渡される。
リオンはぺらぺらと軽く中身を確認すると、満足そうに微笑み、アリシアに差し出した。
「落丁も乱丁もなく、状態もいい。……おそらくこれだと思うが、もし違っていたら遠慮なく言ってくれ。該当しそうなものを探して取り寄せよう」
至極当たり前のように言われ、思わず頷きそうになったアリシアだったが、頭を動かす前に動きを止め、代わりに大丈夫と文字を作る。
タイトルも表紙もアリシアの記憶にあるものと変わりない。アリシアは差し出された絵本を手にとると、ゆっくりと書かれた文字を追う。単語だけを繋ぎ合わせ、わからない文字は避け――そうして時間をかけて、内容を読み解いていく。
少しだけ厚みが増し、リオン曰く落丁も乱丁もない絵本。その中身は、アリシアの知るものと少し違っていた。
教会で渡された絵本は、恋に落ちた人魚がただ死ぬだけの物語だった。
だが今読んでいる絵本の中の人魚は、恋に破れ、愛する者の死を望まず、自ら泡になることを選んだ。結末は変わらない。だけどその過程はあまりにも違った。
(恋をすると死ぬと、印象付けたかったのかな)
教会が抜けだらけの絵本をアリシアに与えたのは、おそらくわざとだろう。ならばどうしてそんなことをしたのか。
考えられるのは、アリシアの声と人魚――海の魔物の声を関連付け、辿る運命をより深くアリシアの胸に刻むため。
決して恋をしてはならないと、思わせるためだとしたら。
(……恋をすると、どうなるんだろう)
本当に死ぬのか、それともほかの何かがあるのか。
答えを得られるだけの知識は今のアリシアにはない。アリシアにあるのは、優しくしてくれて、頼っていいと言ってくれた人だけだ。
だからアリシアは、いまだ跪き、絵本を読み終わるのをじっと待っていたリオンに目を向ける。
問いの答えを出すために。




