17話 第一王子視点
「どうにも何かがおかしい」
帰り着いたクロヴィス邸で、ソファにもたれるように座ったリオンが小さく呟く。
それを聞いているのは、この家の主であるマティアス。六歳しか違わない彼と、幼少期には兄弟のように過ごしていたこともあった。
だが今は主とそれに仕える臣として、一定の距離を保っている。
「おかしい、というのは?」
「アリシアのことだ。時計塔に登ってからというもの、ふさぎ込んでいる」
息抜きにクロヴィス邸を訪ねても、雑談に花を咲かせることはほとんどなかった。だが今は、一定の距離を保ちながらも顔を合わせ、話すことが増えた。
理由は間違いなく、アリシアがこの家に来たからだ。話さなければいけないことがあるのだから、当然顔を合わせる頻度も増え、ちょっとした雑談を交わすことも増えた。
「人気がないからといかがわしいことをされたのでは……?」
「俺をなんだと思っている。そんなことをするはずがないだろう」
本気で言っているわけではないとわかっているが、思わず睨みつける。
アリシアと初めて出会った――と言えるのかは定かではないが――のは、雪の降る日だった。
降り積もる雪に、自分の体温が奪われていくのを感じていた。
流れる血は止まらず、指先まで凍りつくのを感じていた。
――そんなときに、歌が聞こえた。
温かく柔らかく、心に染みこむような歌が。目覚めたときには歌の主はどこにもいなかったが、あの歌に助けられたのだとすぐにわかった。
切られた服はあるのに、傷はふさがり、血も止まっていた。どうして助かったのかは、考えるまでもなかった。あの歌に救われたのだと、直感的に理解していたからだ。
それからというもの、リオンはどうにか歌の主を探せないかと模索した。
あの日の歌を再現し、手掛かりとして使えないかと試行錯誤することもあった。
だがどうやっても、あの歌を――奇跡のような歌を奏でられる人はいなかった。一番の歌い手と評されるほどの人でも、あの日の歌には及ばなかった。
何か方法はないかと、何度もクロヴィス邸を訪れた。
奇跡――神の管轄ともいえる所業を起こした人物を、王族であるリオンが表立って探すことはできず、マティアスの手を借りるしかなかったからだ。
そうして手を尽くし、万策尽きたかというところで、聖女の噂が流れるようになった。
奇跡のような歌、神秘的な歌、奇跡を起こす歌。そのどれもが、あの日聞いたあの歌に繋がっていた。
奇跡を起こしたのだから、聖女である可能性はずっと頭の隅にあった。だがそれでも、誰にも見つかっていない聖女であれば――そんな願いすら抱いていた。
だがリオンの希望は、そこで潰えた。教会が管理している聖女に自ら会いに行くことも、直接お礼を言うこともできない。
聖女が現れなくなってからずっと、王家は教会に頼ることなく民を率いるのだと言い続けてきた。
聖女に助けられたと公言すれば、教会の介入と権威の復活を認めることになる。
だから、黙して語らず、ただ聖女が幸せであることを祈った。弟のヴァリスが城を飛び出すまでは。
教会が聖女を手放してまで、王族との結婚を認めるかはわからない。だが、どういう結果に転ぶにしろ、自分は会うことのできなかった聖女に、弟は会いにいけるのだと思うと――いてもたってもいられなくなって、クロヴィス邸を訪れた。
もしもヴァリスが聖女を連れて戻ってきたら、そのときに初対面のように笑って、名乗って、彼女の歌を間近で聞くヴァリスに温かい目を向け、ふたりを祝福できるかわからなかったからだ。
だがそこで、十年以上が経ってようやく、あの日の歌に巡り合った。
偶然か、あるいは奇跡か。それとも神の計らいか。
理由はなんでもいい。大切なのは、ずっと探し求めていた相手に出会えたことだけだ。
だから当然、ようやく出会えた相手をないがしろにするはずがない。
そしてそれは、リオンの後見人であるマティアスも理解しているはずだ。彼女を探し求める彼をもっとも間近で見ていたのだから。
「もちろん、わかっていますよ。ですが時計台に上ってすぐは平然としていたんですよね。だったら、可能性があるとしたら殿下が何かされたとしか……」
「俺はただ、いつでも頼っていいと言っただけだ。彼女から受けた恩を思えば、それぐらいのことは言ってもおかしくないだろう」
マティアスはふむと小さく呟くと、考えるように視線を虚空に漂わせる。おそらくはこれまでのアリシアの言動や行動を思い返しているのだろう。
アリシアはこの家で暮らしている。だから、リオンよりもマティアスのほうが彼女と接する機会も多く、思い返す出来事も多い。そのことに少しだけ悔しさを抱きながらも、何かしら手掛かりが見つかることを願いながら、答えを待った。
「恩、とは思われていないのでは?」
「……どういう、ことだ。命を救われたのだから、恩義を感じて当然だろう」
「ローナやリリアンの報告を聞く限り、彼女の知識には偏りがあります。人を助けるのは彼女にとってはしごく当たり前のことで――ふとした拍子に神に祈るのと同じぐらい、彼女にとっては自然体なのかもしれません。なにしろ、人のため神のためを謳う教会に育てられたのですからね」
聖女の代役を用意し、表舞台をそちらに任せていたのなら、たしかにその可能性はある。もしも彼女が人を知り、嫌い、厭い、呪い、それを歌にこめれば――きっと今のように奇跡の歌とは評されなかっただろう。
だから人のため、神のためだけに歌うように与える知識に制限を付けたのだとしたら。
「……ずいぶんと身勝手なことだな」
その教会が自らのために私腹を肥やしていて、百年ぶりに現れた聖女は敬い崇める対象ではなく、金の卵を産む鳥として貶められた。
「教会については、ひとまず置いておきましょう。そちらは入念に準備しなければいけませんので」
聖女の登場で教会の求心力は持ち直した。民心を離し、糾弾するだけの証拠がなければ手を出せない。
それは当然、リオンもわかっている。だから意識を切り替えるように、マティアスに目を向ける。
「それでアリシアのことですが……当たり前のことをしただけなのに重い覚悟を見せられて、驚かれたのでは?」




