14話
アリシアが文字を習いはじめて二週間が経ったころ、リオンが訪ねてきた。
マティアスに話があるとのことだったが、アリシアも無関係ではないからと執務室に呼ばれることになった。
「城に来た聖女の名前はカミラ。十年以上前に教会に引き取られたらしい。それまでは孤児院にいたと本人は言っているが、どこの孤児院なのか、どういった経緯で預けられたかはまだ調査中だ」
「……それで、第二王子殿下とはどのような様子で」
「ヴァリスはずいぶんと入れ込んでいるようだ。暇さえあれば彼女の部屋に通っている」
アリシアは心の中で何度かカミラという名前をつぶやく。教会でその名前を耳にしたことはない。
とはいっても、人と話すこと自体ほとんどなかったわけだが。
アリシアが人と接するのは、部屋から移動するときか、食事を運んできたときだけ。
そのときもほとんど言葉を交わすことはなかったし、アリシアも自ら喋ろうとはしていなかった。
物心がついたばかりのころ、アリシアはほとんど音のない部屋に退屈して、歌を口ずさむようになった。
運悪く、とでも言えばいいのだろうか。ある日、配膳にきた修道女がその歌を聞いてしまった。
彼女はよく喋る少女だった。教会に来るしかなかった境遇や世の中、そして教会自体に不満を抱いていたのだろう。きょとんとしたアリシアに自らの内にある鬱憤を吐き出し続けた。
七割がた愚痴で埋められていたが、それでも何も知らないアリシアにとって彼女の言葉は学びだった。
だが歌を聞かれた日から、彼女の姿を見ることはなくなった。
「彼女はあなたの声を聞いたことで気が触れてしまったため、この地を去りました」
自らのために声を発するのはよくない行いだと、配膳にきた別の修道女がアリシアに諭した。
内に潜む魔を少しでも追い払えるように、人のため、神のために祈り続けるように。声に魔性を宿して生まれたアリシアには、それしか救済の道はないのだと何度も説かれた。
だから、必要最低限のことしか話さない修道女にも、彼女たちに何も言わない自分にも、疑問を抱いたことはなかった。赤子のころから教会にいたアリシアにとっては、それが日常で、当然のことだったから。
「彼女が偽者であるとは教えなくてよろしいのですか」
「聞き入れる気があるのなら、最初から聖女を訪ねようとはしていないだろう」
だけど目の前にいるマティアスとリオンは言葉の雨をアリシアに降らせてくる。遠慮なく話しているふたりを見ていると、自然と心の中が温かくなる。
話の内容は理解できないものもあるが、それでも心地いいことに変わりない。
「――それで、アリシアはどのくらい文字を覚えたんだ?」
ある程度話がすんだのだろう。リオンの目がアリシアに向く。
二週間経っても、アリシアの文字は相変わらずで、解読が必要な出来だった。だが知りたい、学びたいという欲求のおかげか、ある程度文字を読めるようになった。
「まだ、すこし……と。二週間でここまで上達するのなら、書けるようになる日もすぐにきそうだね」
見本表の上を滑るアリシアの指を追いながら、リオンが柔らかな笑みを浮かべる。
アリシアと会話できるのが嬉しくてしかたないと言うように。
「とても意欲的だと聞いております。ただ、書くことに慣れていないようで、書けるようになるにはまだ時間がかかるとのことです」
「書くことに……? 色つきの鉛筆で遊ぶ子供も珍しくないというのに……。アリシア、君が教会でどんなふうに生活していたのか、教えてもらってもいいか?」
アリシアは少し悩むようにしてから、文字と文字をつなげていく。
そうして、さんぽ、しょくじ、いのる、ねるの四つの単語を作ると、見本表から指を離した。
窓を叩く雨の音を聞いたり、風に揺られる木々のざわめきや、鳥のさえずりに耳を傾けたこともあったが、大まかにまとめると、アリシアの生活はその四つで構成されていた。
それを読んで何を思ったのか、部屋の中がしんと静まり返る。
(もしかして、文字……間違えちゃったかな)
褒められたばかりなのにミスをしてしまって、呆れられているのではとアリシアはマティアスとリオンを交互に見た。
マティアスは眉をひそめ、じっと見本表を見下ろしている。そしてリオンも難しい顔をして口を閉ざしていた。
「……アリシア。もしよければ今度、王都を案内したいのだが……ああもちろん、気が向かないのであれば、無理にとは言わないが……」
そうしてどのぐらい経っただろうか。おそるおそる、という表現が似合いそうなぐらいアリシアの様子をうかがいながらリオンが口を開く。
王都というのが王の住まう都――馬車から見えた建物が並ぶ場所全体を指しているのだということを、今のアリシアは知っている。
文字を学ぶ過程で、アリシアの知識に偏りがあることに気づいたローナが、いろいろと教えてくれたのだ。
(案内ってことは、王都を見て回るってことだよね)
馬車の中からちらりと見ただけでも心を奪われた。森とも教会とも違い、大勢の人が行き交い、さまざまな色をした建物が並んでいたのを今でも覚えている。
アリシアは是非と言うように、全力で頷いた。
「そうか。それはよかった。じゃあ今から行こうか。今日は予定を空けているから――」
「殿下、お待ちください。気が逸るのはわかりますが、出かけるのならそれ相応の支度を整えてからでないと……万が一があっては困ります。こちらで準備しておきますので、また日を改めてからでもよろしいでしょうか」
ほっとしたように顔をほころばせたリオンに、マティアスが苦笑しながら待ったの声をかけた。
王子に拝謁するからということで、アリシアの服装はそれに合わせたものになっている。髪も丁寧に梳かれて結い上げられ、宝石があしらわれた髪飾りまでついている。
街中を散策する格好ではないと、リオンもわかったのだろう。不満そうにではあるが「わかった」と頷いた。
「なら、都合のよい日をいくつか見繕ってのちほど連絡するから、その中から選んでほしい」
「かしこまりました」
「……だが、それはそれとして、どこに行きたいかとかを話すのは構わないだろう」
ちらりと薄い水色の目がアリシアに向く。話すと言っても、アリシアは文字を指で差す必要がある。どの文字を組み合わせればいいか考える必要もあり、思うまま言葉を発せるリオンと違い、時間も負担もかかる。
だからアリシアの意思を確認しようと思ってくれたのだろう。マティアスの意図を汲んで、アリシアは文字で「はい」と示した。




