13話 前半聖女視点
横を歩く端正な顔をそっと見つめる。そして目が合い、カミラは頬を赤らめた。
まるで夢心地だ。聖女として崇められ、王子様が迎えにきた。
絵本の中のような出来事に、浮かれた心はいまだ落ち着きを取り戻さない。
(あの日、この道を選んでよかった)
思い出すのは、辺鄙な町にある孤児院。そこで育ったカミラのもとに、ある日突然教会の人が訪ねてきた。
カミラの噂を聞いたのだというその人は、孤児であるカミラを褒め称え、手を差し伸べた。
「あなたこそ、聖女の名にふさわしい」
そう言って。
もしもあの日あの手を取らなかったら、今のカミラはいない。聖女として崇められることもなく、王子様が迎えにくることもなく、見目がよいからと誰かに買われていたかもしれない。
臆することなく手を取った自分を心の中で賞賛しながら、カミラはまた、隣を歩くヴァリスを盗み見る。
堂々とした立ち姿に、華美な服にも負けない美貌。鋭いまなざしは一見すると冷たく厳しそうだが、馬車の中ではとろけるような熱いまなざしをカミラに向けていた。
見初められたのだという自信が、カミラの顔に自然と笑みを刻む。
「急いで用意したから気に入るかわからんが……好きに過ごしてくれ」
そうして案内されたのは、教会で使っていた部屋とは天と地ほどの差があるほど広く綺麗な部屋だった。
カミラが聖女となるまで、教会は赤貧にあえいでいたそうだ。だからカミラの部屋も整えられてはいるが、修道女の部屋と変わりないぐらい質素なものだった。
だが部屋の中にある家具と調度品――天井から下がる照明まで輝いてみえる。ソファもベッドも大きく、見ただけで滑らかな質感と柔らかさを感じさせた。
(……聖女と崇めるのなら、これぐらい用意してほしかったわ)
聖女であるカミラはヴァリスに見初められ、この部屋を与えられた。それだけの素質がカミラにあったのだから、聖女であった頃もこれぐらい――とまではいかなくても、近しい部屋を用意してもらいたかったものだ。
(人前にも出せないような子なんかより……)
聖女と呼ばれる存在が自分以外にもいたことを、カミラは知っている。
その聖女は人前にも出られないような醜悪な見た目をしていて、聖女にふさわしい美しさを持つカミラに彼女の代役をしてほしい――そう頼まれたからだ。
ただ聖女だからと専用の部屋を与えるぐらいなら、みなに敬愛のまなざしを向けられ、賞賛されていたカミラにこそ専用の部屋を用意するべきだったのではないか。
わずかに浮かんだ教会に対する落胆を隠すように、満面の笑みをヴァリスに向ける。
「このような部屋を用意していただけるなんて……この感謝をどうお伝えすればいいのでしょう」
「その笑顔だけでじゅうぶんだ」
柔らかく細まる赤い瞳に、カミラの胸が高鳴る。
これから訪れるであろう幸福に、頬がゆるんでしかたない。
「……ヴァリス。帰ってきたのなら、私に挨拶ぐらいしてもよかったのではないかな」
そんな気持ちに水を差すように、冷ややかな声がカミラの後ろから聞こえた。
振り向き――思わず息をのむ。
まるで絵画から出てきたかのような、一分の狂いもない整った顔。自分と同じ金色の髪のはずなのに、艶も何もかもが違うように見える。
「兄上……帰っていたのですね。出かけられていると聞いたので、先に彼女を休ませようと……そう思っただけです」
「そうか。それで、彼女が例の……?」
ヴァリスと同じ赤い瞳がカミラに向けられる。どきどきと胸が鳴るのは、新たな予感を感じてのものだろう。
「ええ。俺が連れて帰ってきた、俺の聖女です」
自信満々に、だけどどこか牽制するように、ヴァリスがカミラの肩を抱いた。
強い力で引き寄せられ、触れたところから温もりが伝わってくる。
「私は第一王子リオン。どうも、初めまして」
「ええ、よろしくお願いいたします」
リオンの顔に浮かぶ優雅な笑み。洗練されたその仕草に、カミラは慎ましい微笑を返した。
(こんな素敵な人がふたりもいるところで生活するなんて……これから私、どうなっちゃうのかしら)
麗しい聖女を前にしたからか剣呑な空気を醸し出す兄弟に、カミラはにやける顔を隠すので必死だった。
◇◇◇
広げられたノートを前に、アリシアは唸りそうになるのをこらえるのに必死だった。
アリシアが聖女であることは極力隠したほうがいいとかで、アリシアの教育係に任命されたのは、彼女の歌を聴いた侍女だった。
そうして侍女から文字を教わることになったのだが――
「アリシア様。こちらの文字の曲線がまだ歪んでおります」
文字を書くのもペンを持つのもこれが初めてのことだ。おぼつかない手つきで書いた文字はまるでミミズがのたくったようで、文字の読めないアリシアはもちろんのこと、文字を読める人ですら解読は困難だろう。
(ええ、と……まずは縦に一本書いて、それから……横に……)
ぐりり、と手本のとおりに書いているはずなのに、なぜかアリシアの書いたもののほうが歪みがひどい。
幸い――と言えるのかどうかは定かではないが――文字の数は全部で二十六。覚える数はそこまで多くはない。
問題は、それぞれの組み合わせによって意味を変えること。文字を覚えるだけでなく、その組み合わせと、出来上がった言葉も覚えないといけない。
「でもずいぶんと上達されましたね。半日でここまで書けるのなら、たいしたものです」
リオンが帰ってすぐ、文字の練習に取り掛かった。そしてこれまでアリシアがペンを持ったことがないのが判明した。
アリシアが文字を覚えるのは、筆談のためだ。だから書くことに慣れながら文字を覚えることになったのだが、満足に曲線ひとつ描けないまま、太陽が落ちた。
「何事も日々の積み重ねです。焦らず少しずつでも習得していけば、いつかは実を結びます。ひとまず休憩し、夕食をお召し上がりください」
チリリンと侍女がエプロンから鈴を取り出して鳴らす。そして待ち構えたかのように、ワゴンを押した女性が部屋の中に入ってきた。
装いはアリシアに勉強を教えている侍女と同じ。おそらく彼女も侍女と同じ職務に就いているのだろう。
「アリシア様のお世話と勉強をひとりで務めるのは難しいため、彼女もアリシア様のお世話をすることになりました。主に食事の配膳や部屋の清掃をお願いしてありますが、困ったことがあればなんでもお申しつけください」
「アリシア様のお世話を務めることになりました、リリアンと申します」
「彼女は侍女として働きはじめたのは最近のため、ご不便をおかけすることもあるかと思いますが……できる限り私もサポートしますので――」
そんな紹介を受けながら、アリシアは愕然とした気持ちで侍女を見上げた。
(侍女は……名前、じゃない……)
侍女の名折れだと言っていたから、てっきりそういう名前なのかと思っていた。だがよくよく考えてみれば、少しおかしい気がする。
ためしにアリシアの名折れである、と自分の名前に当てはめてみたが、違和感が拭えない。
もっと考える時間があれば、彼女の名前が侍女ではないことに気づけただろう。だが知らないものや知らないことだらけで頭がいっぱいで、彼女の名前にまで気を回すことができなかった。
(なら……お名前は、なんだろう)
新しい侍女がリリアンという名前だということはわかった。ならば彼女の名前は何か。
アリシアは見本として渡された文字一覧に目を通し、たしかこれはあれで、あれはこれで、と必死に考えながら、ひとつひとつ指で差していく。
「な……め……え……ああ、名前、ですか。彼女はリリアンで……え? 私の、ですか?」
もう一度リリアンの紹介をはじめようとした侍女を、首を横に振ることで止める。
それからじっと見つめてようやく、誰の名前を聞いているのか気づいたのだろう。侍女は居住まいを正し、頭を垂れた。
「申し遅れました。ローナと申します。改めて、よろしくお願いいたします。……それとアリシア様。“ま”を示す文字はこちらで――」
見本表の上を滑る指を、アリシアは真剣な顔をして見つめる。
そんなふたりの後ろで。
「……あのぉ、食事はどうされるのですか……?」
リリアンが弱弱しい声を漏らした。




