12話
「文字を覚えたい?」
(……できるのなら)
文字を覚えるのにどれだけの時間が必要になるのかはわからない。マティアスに迷惑をかけることもあるだろう。
だから勢いよく頷くことはできなかった。それでも覚えたいという意思を隠すことはせず、遠慮がちに頷いて返す。
「それなら、教師をつけるとしようか。これから生活するにあたって、君の要望を伝えるための手段が必要だとは思っていたから……遠慮することはないよ」
本当に、優しい人たちだとアリシアの口元に笑みが浮かぶ。
リオンは助けられたという恩があるのかもしれないが、マティアスはただ寝ているところに居合わせただけだ。
なんらかの思惑があるのかもしれないが、彼の優しさは損得勘定だけでは説明がつかない。
(神様に、お礼を言わないと)
こんな巡り合わせをくれた神に、心の中で祈りを捧げる。歌は――そのうち、誰もいないときを見計らって捧げよう。
そう思っていたところに、慌ただしく扉が開かれた。
「だ、旦那様!」
入ってきたのは、執事長であるアルフ。アリシアを我が子として紹介されたときにも――固まってはいたが――取り乱すことのなかった彼が、とても慌てている。
何かあったのかと、マティアスとリオンの間に緊張が走り――
「第二王子殿下が、聖女を連れて帰ったと……!」
彼の言葉に、部屋の中に一瞬だが沈黙が落ちる。
そして視線がアリシアに集中し、アリシアはきょとんと首を傾げた。
「てっきり、第二王子殿下を止めることができたのだとばかり……なにを考えていらっしゃるのですか」
「ああ、いや、待てアルフ。それについては問題ない。あるかもしれないが、当面は問題ない」
咎めるようなアルフの視線にさらされたマティアスが、額に手を当てながらげんなりとした顔で告げる。
リオンはリオンでじっとアリシアを見つめたまま、視線を逸らそうともしていない。
(ええと、聖女が第二王子……ということは、別の王子様がいて、聖女を連れてきたということで……)
なら、ここにいる自分はなんなのか。やはり聖女というのは彼らの勘違いではないのか。それとも、聖女と呼ばれる存在が二人いるのか。
アルフの言葉に一番混乱していたのはアリシアだった。まったくといっていいほど、状況がわからない。
なにしろ自分が聖女と呼ばれる存在だと教えてもらったのは、ついさっき。まだ聖女という自覚すらなかった。
「聖女が同じ時代にふたりいた記録はない。今回は違う可能性はあるが……教会の奇跡は歌にまつわるものだった。ヴァリスが連れてきた聖女は……おそらく、聖女とは名ばかりの別のものだろう」
そこでようやくリオンの視線がアリシアから外れ、マティアスに注がれる。リオンの言葉を否定するつもりはないようで、マティアスは薄い水色の瞳を細めて、肩をすくめた。
浮かぶ苦笑は、どこか呆れた色を含んでいる。
「第二王子殿下の暴走はさておき、やはり教会はいまだ腐敗したままなのでしょうね。象徴であり、神に遣わされた存在として崇めている聖女の代わりを用意しているとは……。さすがに、予想外でしたよ」
「……問題は、いつから代理を立てていたか。たしか、聖女は神秘的な見た目をしていると……そういう噂だったな」
そこで一度口を閉ざすと、ふたりの目がアリシアに向いた。
「……アリシア。君は、信者の前に出たことはあるか?」
問われ、アリシアは小さく首を傾げる。信者というのは、修道女とは違うのだろうか。そういう意味をこめて。
アリシアの意図が正確に伝わったわけではないだろう。だがそれだけで、彼らにはじゅうぶんだったようだ。ふたりは同時に、大きなため息を吐き出した。
「噂が広まったのは数年前……となると、だいぶ長い間、別人を聖女として信者の前に出していたのだろう。……聖女を連れ帰ったというのが、誤報でなければ」
「そこはご心配なく。信の置けるものを城に派遣しています。たしかな情報しか、こちらには届かないようにしてあるので……実際に第二王子殿下は聖女を連れて戻ったのでしょう」
マティアスとリオンの間だけで話が進んでいくのを、アリシアはおろおろとした様子で見ていた。
聖女で、偽物で、第二王子殿下で、信者で、象徴で、教会で、奇跡で、神秘的で。これまでほとんど人と話したことがなく、言葉を交わしたことすらないアリシアの前に、情報だけが積み重なっていく。
(……あの人たちは、私の代わりを人前に出していた、ということかな。でも……なんでだろう)
アリシアの見た目は気味が悪いものであり、声は魔を孕んでいる。そして絵本を渡されたときに聞かされた、魔性を抱いた者の末路。だから、どうしてアリシアを人前に出そうとしなかったのかはわかっている。
わからないのは、どうして代理を立ててまで聖女を人前に出そうと思ったのか。
――信仰心を利用して利益を得る。
そんな発想のないアリシアは、ただマティアスとリオンの会話を聞きながら、自分なりに情報を整理することしかできない。
「……なら、聖女であるアリシアを手放す決断をしたのも説明がつく。自ら手にかけるのは、さすがに良心が咎めたか……私が通りかかっていなければ、どうなっていたことか……」
憂うような目をしているマティアスに、アリシアも考えを巡らせた。
もしもマティアスに拾われていなければ、今もまだ当てもなくさまよっていただろう。そして与えられた食材も底をついて――飢えて動けなかったに違いない。
そこを野生動物に襲われるか、そのまま息を引き取るか。どちらにせよ、想像の中の未来は喜ばしいものではなかった。
「教会の行いは問題だが……代理が城にいるのなら、アリシアを聖女と結びつける者はしばらく現れないだろう。落ち着いて教育に励めるいい機会だと思えば……悪いことばかりではないのかもしれない」
落ち着いた声色でそう締めくくると、リオンはアリシアのほうを見て、そわそわと視線をさまよわせた。
一瞬で失われた落ち着きに、アリシアはどうしたのかと首を傾げる。
「アリシア……私はもうすぐ城に戻るが……また、会いに来てもいいだろうか。勉強の進み具合なども確認したいし……わからないことがあれば、教えることもできると思う」
「我が家の用意する教育係では答えられない質問に、殿下なら答えられる、と?」
「そういうことではない。わかって言っているだろう」
茶化すように言うマティアスをじろりに睨みつけて、気を取り直したようにリオンはまたアリシアに向き直った。
だが、それ以上は何も言わない。おそらく、アリシアの返事を待っているのだろう。
(……でも、ここは私の家ではないし……)
安易に許可を出すことはできなかった。この家の主はマティアスであり、アリシアではない。
家主の了承もなく頷くことはできないと、アリシアはマティアスの様子をうかがう。
そして向けられた労わるような笑み――好きに答えていいというような顔に、アリシアほっと胸をなでおろしてから、リオンに向けて小さく頷いた。




