10話
本日は2話投稿しています。
はあ、と息を吐く。吐き出した息は部屋を占める湯気の中に隠れ、どこにいったのかもわからない。
アリシアは人がひとり浸かれる程度の大きさの湯舟に体を沈めながら、ぼんやりと天井を見上げた。
あのあと、詳しい話はしていない。マティアスが積もる話はまたあとにしようと言ったため、一度それぞれの部屋に戻ることになった。そして体を休めるように言われ、勧められるがまま風呂で体を洗うことになったのだが――
「お湯加減はいかがですか?」
頭のほうから女性の声がして、アリシアは慌てて何度も頷く。
アリシアは与えられたお湯で体を拭うことに慣れている。だから女性が風呂場まで付き添って来ようとしたときに、ぶんぶんと首を横に振り、ひとりで大丈夫だと意思表示をした。
だが女性が聞き入れることはなかった。
客人に自身で湯浴みさせるなど、侍女の名折れである。そう言い張って、アリシアを風呂場に連れていき、服を脱がせ、文句を言う暇すら与えずに洗い上げ、湯舟に浸けたのである。
そして今は、浴槽から投げ出された髪に何やら塗りこんだり、梳いたりしている最中だ。
(……気持ちいいし、もうなんでもいいや)
さすがにここまできたら、アリシアも諦めるしかない。それに全身を浸すお湯は温かく、このまま眠ってしまいそうになるほど気持ちいい。
ぼんやりとした頭を回転させることは難しく、されるがままを受け入れた。
「――ゆっくり休めたかい?」
侍女の手によって、ひとりでは着るのが難しそうなドレスを身に着けさせられ、髪を整えられ、連れてこられたのは、大きなテーブルが置かれている広い部屋だった。
そしてテーブルの端に座っていたマティアスがアリシアを見て、穏やかな笑みを浮かべた。
(気持ちよかった)
こくこくと頷くアリシアに気をよくしたのか、マティアスはにこやかな笑みを絶やさぬまま、空いている椅子に座るよう促してきた。
テーブルには合計で六つ、椅子が並んでいる。両端にひとつずつと、両側にふたつずつ。そして端のひとつはマティアスが座っているのを見て、アリシアは彼の斜め横にある椅子に腰を下ろした。
「さっきは邪魔が入ってしまったからね。続きを今から話そうと思うのだけど、いいかな?」
アリシアが頷くのを確認すると、マティアスはちらりと侍女に目配せを送る。
主人の言いたいことがわかったのだろう。侍女はアリシアのそばを離れて、部屋を出た。
「聖女というのはね……教会の象徴ともよべる存在だ。はじめがいつだったのかは、記録があまりないからわかっていないが、聖女がいたからこそ教会が生まれたのはたしかだ。……神の寵愛を受け、神のため、人のために祈りを捧げる……そしてその祈りは神に届き、奇跡を起こす。そう語られているんだよ」
アリシアが歌を歌うのは、誰かの祈りを神のもとに届けるためだった。それはある意味、神のため、であり、人のためであるとも言えるだろう。
(だけど、奇跡なんて……起きたことない)
マティアスはアリシアのことを聖女と呼んだ。だがアリシアの歌が神に届いた保証はなく、奇跡を目の当たりにしたこともない。
ただ歌を歌っていただけだ。
「ここしばらくは聖女の存在が確認されていなかった。そして、数年前に……聖女が現れたという噂が流れはじめたんだ。教会が奇跡を起こした、という風にね」
きょとんと呆けた顔をしているアリシアに、マティアスの口元に苦笑が浮かぶ。
聖女である自覚がアリシアにないことに、マティアスも気づいているのだろう。どう説明したかと悩む彼に、アリシアは段々と申し訳なさを抱いた。
(奇跡なんて起こしたことがないし……勘違い、なんじゃないかな……)
ふとアリシアの頭に浮かぶのは、つい先ほど助けられたと言っていたリオンの姿。跪いて真剣にお礼を言っていたが、アリシアに彼を助けた覚えはない。
おそらく、あれも勘違いなのだろう。
そう結論付けようとしていたところで――
「アリシアは間違いなく、聖女だ」
ワゴンを運んできた侍女とともに、リオンが部屋に入ってきた。
先ほどもそうだが、今回も脈略なく現れたリオンにアリシアの目が丸くなる。
「どうして勝手に食事をはじめようとしているんだ」
「腹を空かせた子供を放っておくわけにはいかないでしょう」
「俺は腹を空かせてないとでも?」
なぜかどこか怒っているような、すねているような顔で、リオンはアリシアの正面に座った。
じっとアリシアを見つめる赤い瞳に、どことない居心地の悪さを感じる。つい今しがた勘違いだと思ったばかりなのに断言され、なんとなく気まずさを抱き、アリシアは少しだけ視線を落とす。
そしてその視線の先に、湯気の立つスープが置かれた。
「君が聖女であることは、俺の存在が証明している。君に助けられていなければ、俺はあの日に命を落としていただろう」
(助けた覚えがないけど……)
そんなアリシアの心を読んだかのように、リオンの瞳が宙を見る。まるでどこか遠く――遠い昔の思い出を見るように。
「雪の降る日だった。体の上に降り積もる雪に、自らの死期を悟ったよ。……そんなとき、君の声が聞こえたんだ」
ふ、とほころんだ顔をアリシアはじっと凝視する。
雪の中から出てきた冷たい体。赤く染まる服に、血の気が失せた青白い顔。忘れたくても忘れられない、助けられなかった人。
「優しく、温かく……まるで包みこまれているようなあの感覚は今も覚えている」
片時も忘れることはなかった。アリシアはふとした瞬間に思い出しては、胸を痛めた。もう少し早く気づいていればと何度思ったことか。
「ありがとう、アリシア。……君の歌声は、俺を救ってくれた」
燃え盛る火のような赤い瞳。固く閉ざされた瞼の下にもきっと、同じ色をした瞳があったに違いない。
濡れた金の髪も、乾けば目の前の金色と変わらない色合いを見せたに違いない。
(生きていたんだ……)
あの日よりも大きくなったリオンを前に、アリシアの心に温かなものが広がる。助けられていたのだという安堵と喜びに、目頭が熱くなった。
だがもしも泣いて嗚咽が漏れれば、声が彼らの心をかき乱す。だからアリシアは涙を流す代わりに、必死に笑みを浮かべた。
(生きていてくれて、ありがとう)
抱いた喜びが、リオンに伝わるように。




