1話
天井すれすれのところにある窓から差し込む光を頼りに、アリシアは一頁一頁丁寧に本をめくっていく。
鳥のさえずりすら届かない部屋の中に、アリシアの呼吸と本をめくる音だけが響いている。
もう何度、この本を読んだだろう。子供用の絵本であるそれは、アリシアに唯一与えられたもの。
木の板に布を張っただけのベッドと食事をとるための机と椅子、それから絵本。そして――
ギィと、重い音を立てて扉が開かれる。
差しこんできた光にアリシアの目がくらむが、そんなことはお構いなしとばかりに声が部屋の中に響いた。
「散歩の時間です」
明かりに目が慣れないまま、アリシアは小さく頷く。
部屋にあるものと、一日にほんの数十分だけ与えられる外の世界。それがアリシアの世界のすべてだった。
はあ、と吐く息が白く変わる。凍るように冷たい空気が肌を突き刺すが、それを気にする余裕はアリシアにはない。もしも寒いからいやだと言えば、寒い日の散歩がなくなってしまう。
雪が積もり白く色づく木々も、靴が雪を踏む音も、変わる息の色さえも、部屋にいては得られないものばかり。
一秒だって無駄にしないように、アリシアはざくざくと雪を踏んだ。ここまで連れてきた人はそばにはいないが、あまり遠くに行くことはできない。
前に一度、歩くのが楽しくて時間までに戻ってこれず、犬が放たれたことがあった。これまで見たことのない動物と戯れよう――そう思うことができないほど、犬の目は血走っていて、アリシアを捕食するための獲物かというように襲い掛かってきた。
なんとか逃げ延びて帰ってきたアリシアに向けられたのは「約束を守らないからですよ」という冷たい言葉。
もう二度と、同じ目には遭いたくない。その一心で、自分のもといた場所との距離を測りながら、雪を踏む。
ざくざくざくざくと何度も何度も雪の音を楽しんでいたところで、ぐにゃりと、別の感触が足から伝わってきた。
(冬眠していた動物でも踏んだのでしょうか……)
もしもそうなら、その動物は大丈夫なのか。おそるおそる雪をかきわけて現れたのは、これまで見たことのない人だった。
短く切られた髪に、アリシアとそう変わらない背丈。動物のたぐいではないことを確認して、雪のように白くなりかけている肌をつつく。だが、なんの反応も返ってこなかった。
(……これは……)
雪をよりいっそうかきわけて、服を、手を、足を掘り出していく。
服には赤い染みが広がり、掘り起こした雪にまで染みこんでいる。いつからこうして、ここに埋まっていたのだろう。
(死んで……)
人の死は、話の中では聞いている。だが実際に経験したことはなく、ぎゅっと手を握りしめた。温もりすら感じない冷たさと、ぴくりとも動かない指に自然とアリシアの目に涙が浮かんだ。
(もっと早く気づいてあげられなくて、ごめんなさい……)
ならせめて自分が与えられるものを与えようと、これまでに何度も口ずさんだ唄を奏でる。
死出の道に彩りがあるように、傷ついた魂が癒されるように。
ピィと遠くで笛の鳴る音が聞こえた。散歩の時間がもうすぐ終わる。
もしもこのままここにいたら、アリシアに向けて放たれた犬は遠慮なく埋まっていた人を貪り、食い散らかすだろう。
(せめて、安らぎを)
胸の中で祈りを捧げ、アリシアはもと来た道を戻った。雪に横たわる頬に赤みが戻っていることに気づかずに。
◆◆◆
「聖女を我が妃に迎えたい」
その声に驚きで目を見張ったのは、彼を出迎えた教会の修道女だった。
ノックのあと、扉を開けた修道女に挨拶もそこそこにそう宣言したのは、この国――ラグランジェ国の第二王子ヴァリス。
黒炭のように黒い髪に燃える火のように赤い瞳。整った顔立ちと出で立ちは貴公子というにふさわしく、十五歳とは思えない堂々とした姿で花束を抱えている。
花束には色とりどりの花が飾られており、そのどれもが恋や愛の言葉を持っている。ヴァリスがどれだけ本気なのかをくみ取ったのだろう。修道女の喉がこくりと鳴った。
「して、聖女はどちらに」
「聖女カミラ様はただいま礼拝を終え、休息をとるところでした……そのため、お呼びするのにお時間をいただきますが、よろしいでしょうか」
「かまわん。先触れを出したとはいえ、昨日の今日のことだ。準備が整っていないのもしかたのないことだとわかっている」
寛容にうなずくヴァリスに修道女はそっと胸をなでおろした。
教会は聖女の存在により少しずつ昔のいきおいを取り戻しつつあるが、それでも全盛期には遠くおよばない。今ここで王家と縁をつなぐことができれば、一気に巻き返すことができる。
だからヴァリスの気が変わる前になんとしても聖女と引き合わせようと――修道女は逸る気持ちのまま、礼拝堂のすぐ近くにある聖女のために用意された部屋の扉を叩いた。
「このたびは、足を運んでいただきありがとうございます。聖女カミラと申します。それで、本日はどうされましたか?」
身支度を整えてヴァリスの前に現れたのは、まさしく聖女と呼ぶにふさわしい姿をした少女だった。
腰まで伸びる淡く輝く金の髪に、しとやかに伏せられた緑色の瞳は新緑を思わせるほど鮮やかで、白を基調としたシンプルなドレスに身を包む姿はもはや聖女どころか天使と評しても過言ではないだろう。
思わず息を忘れて見ほれるヴァリスに、修道女は心の中で拳を高く掲げる。当教会自慢の聖女は、王族の目から見ても遜色のない美しさだということがこれで証明された。
「あ、ああ。その、すまない。まさかこれほど……いや、幼いころに一度会ったことを覚えているだろうが」
「……申し訳ございません。聖女として子供のころから方々を回り、いろいろな方にお会いしておりましたので……」
「ああいや、いいんだ。俺は君に会ったことを覚えているから、それでいい。……俺は昔、君に助けられたんだ。もしもあのとき助けられなかったら……きっと今ごろ、俺はここにいなかっただろう」
そう言って膝をつき、カミラの前で花束が差し出される。
「あの日からずっと、君のことを忘れたことはなかった。死地のなかにいる俺に届いた歌は今も覚えている。どうか、俺と結婚してほしい」
一枚の絵画のような光景に修道女の口から自然と感嘆の息が漏れる。そしてカミラは一度だけ大きく瞬きを繰り返すと、ほころぶような笑みを浮かべた。
「あなたがあのときの方なのですね。助かって、本当によかった。こんなに立派になられて……私も……忘れたことはありません」
そっと花束に白い指が添えられる。互いに見つめ合う男女の姿に、一部始終を見守っていた修道女や神父が歓喜の声を上げる。
(……なんだか、今日は少し騒がしいような……気のせいかな)
教会の奥深くで、昔と変わらず絵本をめくっていたアリシアは少しだけ顔を上げて――またすぐに絵本に視線を落とした。
この部屋の外で何が起こっていようと、アリシアには関係ない。
布の張られた木の板と、食事をとるための机と椅子、それから一冊の絵本。そして一日に数十分だけの外と、参拝客に唄を捧げるために訪れる部屋だけが、アリシアの知る今の世界だった。