レギナルトの帰還
翌朝、一行はファネール城を後にした。
ヒルデガルトの供は乳母でもある侍女一人だけだった。侍女らを大人数連れて行く事も、荷も必要最小限でとレギナルトが言ったのだ。全て何もかも自分で用意するとの事だった。とは言っても何を持参しているのか分からないが、かなりの数の荷を運び込んでいるようだった。とかく女性の荷物は何かと多くなるものらしい。
エリクは下男が運び込む衣装箱に苦笑いを浮かべながらも、不審な物が無いか気を配っていた。逆にレギナルトは帝都への逸る想いで彼女らを気にも留めていない様子だった。
ところがファネール領を順調に進んでいた一行は再び立ち往生を余儀なくされてしまった。領を抜ける唯一の渓谷にかかる橋が崩れていたのだ。ここまでくればこの道中、呪われているとしか思えなかった。ことごとく行く手を遮られ続けるのだから…
当然、レギナルトの怒りは頂点に達した。持って行きようの無い憤りは凍りついた大地を更に凍らせるかのようだった。さすがのエリクも正直、皇子の眼前から消えたい気分になったぐらいだ。皇子は渓谷の端に立ち怒鳴る訳でも無く無言で辺りを見渡し、手に持つ地図を見ていた。エリクから言わせれば、その無言が恐ろしいのだ。
レギナルトは地図から顔をあげエリクを一瞥すると、淡々と命令した。
「あの森を抜ける」
「 ! それは――皇子それは無謀では? あの森は曰く付きですよ」
「ああ、たいそうな曰く付きだ。だが以前、中に入った事があるが何も無かった」
「確かに自分も皇子とは別に一度、訪れた事がありますが特に変わった事など無かったのですが…たまたま運が良かったのかもしれません」
「同じ事だ!運悪く妖魔でも出て来たのなら退治するまでだ!無駄口たたく暇など無い。暗くなる前に抜けるぞ」
レギナルトはそう言い放つと号令をかけて騎乗した。
エリクも慌てて追いかけたが、不安は残る。
ファネール領に隣接する曰く付きの森―――
近隣の人々は〈真実の森〉と呼んでいる。この森に入ると人は真実に目覚めると言うのだ。ここ数年謎めいた話が人々の間で流れていた。例えば…極悪非道の悪人が善良になったり、結婚間近な恋人が別れたり、家族の元から蒸発したりなどなど…そうなった者達は決まってその森へ入っていた。彼らは真実の心に目覚めて本来の姿に戻るらしいと言うのだ。だが皆が皆そうなるのでは無いらしい。
怪奇現象は妖魔の類が考えられたので調査済みだった。だがその調査も歯切れが悪く難航した。当事者達は森でこれといった不可解な記憶は無いのだ。レギナルトも直接森へ出向き確かめたが、妖魔の気配も何も無く自分に変化も見られなかった。しかし、臣民の不安要素は排除するのが仕事であるレギナルトはこの森を立ち入り禁止区域としていた。もともとファネールが近いせいもあって人が通るのもまれであったこの森は禁断の地となってこの数年、真冬でも葉をつける木々がいっそう険しく生い茂っていた。そのお陰で大きな枝が雪を遮り久しぶりに土を踏みながら進むことが出来た。
だが、同時に日光も遮るのでまるで夜のようだった。
しかも世界から切り離されたかのように静寂な世界…鳥や獣も住まない森―――
松明を掲げレギナルト達は進んで行く。その時、何処からともなく湿った風が吹いてきた。すると松明の灯りが揺らめき、愛しい者の姿をかたどったのだ。
それは優しく微笑むティアナだった……
「 ! 」
レギナルトは一瞬息を呑んで目を見張った。その幻は彼の胸に吸い込まれたかと思うと、輝く光の玉となって身体を通り抜け空中に消えたのだ。
レギナルトはその時、何か叫んだような気がした。周りの何人かは辺りを見渡している者がいたが何事も無かったように道を進んでいた。
様子のおかしい皇子に気付いたエリクが馬を寄せて来た。
レギナルトはこの寒さの中にも関わらず、どっと汗をかいていたのだ。彼は額の汗を拭い、自分の言葉を待つエリクに声をかけた。
「今、何か見なかったか?」
「? 何かと言いますと」
「―――いや、何でもない。気のせいだろう。さあ、急ごう」
間も無くすると暗かった森を抜け、帝都までの道は確保出来た。実はこの森を通過するのが最短距離でもあり、帝都まで早くてあと一週間もすれば辿り着くのだ。
そして、ようやく帝都へ戻って来た―――
デュルラー帝国の最大の都であり、帝国中枢の都。その象徴と言うべき広大な皇城は都の中央に位置する。皇城の周りには鉄壁を誇る城壁と深い堀を巡らし城下と城を繋ぐ道の一つは皇城に併設された大神殿からの入り口。もう一つは一般の入り口。そして最後の一つは皇族が通る門。このひと際大きく、見るものを圧倒する豪奢な門が重々しく開き、レギナルト達を迎え入れた。
入城したレギナルトは先に皇帝への帰城報告をする為に人をやり、自分はエリクと数名の護衛だけ残し、ヒルデガルト達を伴って自分の宮へと向かった。
一方、皇子の帰城を今か今かと待ちわびていたティアナは、レギナルト達の帝都入りの報告を聞いてからは部屋の中で落ち着きなくウロウロしたり、何度も鏡を覗き込んでは自分の姿を確認したり、見える訳など無いのに窓の外を背伸びして眺めたりしていた。
その様子が可愛らしくてハーロルトもドロテーも苦笑しながら彼女を見ていたのだった。
そして、皇族の門を通ったとの知らせが来た途端、ティアナは一斉に咲き誇る花々のように微笑んだ。誰もが心を奪われるような喜びに満ち溢れた晴れやかな笑顔だった。
ハーロルトはその輝く笑顔が眩し過ぎて瞳を細めた。そして、この笑顔を曇らせないようにしようと再び自分に強く誓った。
「さあ、ティアナ様。間も無く皇子は御到着されるでしょう。表で待たれますか?」
「はい! そうします!」
ハーロルトの問いに、ティアナは瞳を輝かせてそう答えた。
待ちに待った皇子の帰還。何と言って出迎えようとか色々考えていた。でも皇子宮の前で向こうから帰ってくるレギナルトの姿を見たら、そんな思いは頭から飛んでしまった。
「皇子―――っ」
ティアナはそう呼ぶと儀礼や言葉も何もかも忘れて一目散に駆け出し、馬から降り立ったばかりの皇子に抱きついたのだ。普段大人しい性格の彼女からは想像も出来ないような大胆な行動だった。よほど嬉しかったのだろう。そんなティアナからの抱擁など予想もしないレギナルトはさぞかし驚いて喜ぶと思った。だが直ぐにでもティアナの背中にまわって来ると思ったレギナルトの腕は、真横に下がったままだった。
「?」
ティアナは抱きついてレギナルトの胸にうずめていた顔を離し皇子を見上げた。
冴え冴えとした紫の瞳と目が合った―――
「誰だ、お前は」
その声は凍りつくように冷たかった。そして嫌悪もあらわにティアナを払いのけたのだ。
間近にいたエリクもハーロルトもドロテーも驚きに息を呑んだ。
何がおこっているのか信じられなかった。
ティアナは瞳を大きく見開き、震える声で言った。
「皇子? どうして? 何を言っているのですか?」
「話す許しは出していない。しかも!いきなり抱きつくなど無礼であろう!」
「お、皇子…何の冗談ですか? 私が、私が分からないのですか?」
「お前こそ何を言っている。お前など知らぬ。ハーロルト、何をしているこの知れ者をさっさと摘み出せ!」
レギナルトはそう言い放つと、その紫の瞳は氷のように何も語らない。ただ冷たくティアナを一瞥しただけだった。そして、もう用事は済んだとばかりに踵を返すと、後から到着した馬車の扉を開けて中に乗っていた黒髪の美しい令嬢を抱きかかえ出した。
「皇子?到着しましたの?」
その女性は目が不自由のようだった。皇子は気遣いながら彼女を抱きかかえた状態で馬車から降ろし、ティアナの横を通り過ぎて行った。呆然と人形のように突っ立ってその様子を見つめるティアナには皇子の腕に抱かれるその令嬢の口元が笑ったように見えた。
ティアナは震えながら去り行く皇子を振り返り、叫んだ。
「皇子―――っ」
だが、レギナルトは振り返ることは無かった。
ティアナはガクガクと足を震わせ、冷たい雪の上にしゃがみ込んだ。あの皇子の瞳は知っている。時折見せた女性というものを信じない、一切を拒絶し侮蔑しているあの瞳だった。それでもあんなに冷たい瞳で見られた事は無かった。最初に出会った最悪な場合でさえ、その瞳は怒りに燃え感情があらわだったのだ。それが―――
今はティアナと出会う前の 〝氷壁の皇子〟 と言われていた頃の皇子だった。ティアナはあまりの驚きに涙さえ出なかった。まるで底なしの沼にでも沈んだかのように息が出来ず、目の前が真っ暗になって意識を手放してしまった。
「ティアナさま!」
鋭く名を呼び、倒れるティアナを抱きとめたのはハーロルトだった。
その声にレギナルトは歩みを止めて振り返った。ハーロルトの取り乱したような叫び声にも似た声など初めて聞いたからだ。無礼にも親しげに抱きついてきた見知らぬ娘は、この国では珍しい金色の髪だった。その長い髪がふわりと広がりハーロルトの腕に倒れこむところだった。頼りなげで華奢な肢体がぐったりと力なくハーロルトに支えられていた。
ハーロルトは不敬だと十分承知しているが、言わずにはいられなかった。皇子の視線を見返すように激しく言い放ったのだ。
「皇子!ティアナ様に何と言う事を!毎日、毎日、貴方様を想い待ちわびておられたのに、いったいどうされたのですか!」
レギナルトは目を見張った。ハーロルトが自分の許しも無いうえ、あのように憤りもあらわに発言するなど初めてだったからだ。それに追い討ちをかけるようにエリクまで訳のわからない事を言い出した。
「皇子、どうしたのですか?まさか本当にティアナ様を忘れたなんて事無いでしょうね?」
レギナルトは抗議する二人とハーロルトの腕に抱かれる娘を交互に見た。二人はまるで自分がその娘を見知っているかのように言うが全く記憶に無かった。こんな馬鹿な冗談を二人がする訳でも無いと思うのだが……
そこへ、皇帝の馬車が乗り込んできた。いち早く帰城の知らせを受けた皇帝と、ちょうど伺候していた大神官ゲーゼを伴って皇子宮へ出向いて来たのだ。政務を抜け出す良い機会だと、ばかりに相変わらず息の合った行動だった。しかもこんな時はかなり迅速らしい。
のほほんとやって来た二人は、馬車から降り立つと、その場の緊迫した空気に驚いた。ティアナは気を失ってハーロルトが抱きかかえているし、エリクと一緒になってレギナルトを睨み付けている。レギナルトはと云うと見知らぬ令嬢を抱きかかえている。
その娘は事前に報告のあったレギナルトを助けたファネールの娘だと察知出来るが…
いったいこれは?
だが、いち早くゲーゼはティアナの元へ駆け寄った。
「いったいこれはどうしたのですか?」
ただならぬ様子のベルツ兄弟と皇子を見て取った大神官は問いただした。
また面倒な二人が来たとレギナルトは思い無視を決め込むと、さっさと宮の中へ足を運び始めた。そしてベッケラートを呼ぶように命じたのだ。
ベルツ兄弟から掻い摘んだ事情を聞いたゲーゼと皇帝は驚いた。二人は慌てて皇子の後を追って皇子宮へ入り、ヒルデガルトを侍従に預けたレギナルトに追いついた。息せき切って自分を呼びながら追って来た二人に、レギナルトは半ば呆れながら大げさに溜め息をついて立ち止まって振り返った。
「父上、ゲーゼはともかくこのような時間にここにおいでになる暇など無いと思いますが? どうして此処に?」
レギナルトは有無を言わせないような淡々とした口調で嫌味たっぷりに言った。
「いや、おまえそれよりも」
「皇子! どういうもりですか! し、知らないなど! 冗談じゃ済まされませんぞ!」
喋りだした皇帝を押しのけてゲーゼが興奮したように問いただした。
(まさか?ゲーゼや父上までもあの娘を見知っているのか?)
「ゲーゼや父上までも、あの娘を知っているとか?」
ゲーゼも皇帝も目を大きく見開いて息を呑んだ。皇子は冗談など言っている様子では無かったのだ。本当に忘れてしまったのか?
ゲーゼは信じられないと言うように顔を左右に振りながら一言、一言、確かめるようにゆっくりと言った。
「皇子、ティアナは貴方の花嫁になられる方ですぞ。しかも 〝冥の花嫁〟 ですぞ。誠にお忘れですか? あんなに愛された方を?」
「あの 〝冥の花嫁〟 ? 誠に? 本当なら素晴らしい吉兆だ。それに何だって?愛した? 私がか? あっはははは…馬鹿らしいのにも程がある。なんだ?帰って来るのが遅くなった懲らしめか?父上まで一緒になって私を謀るなど…もういいでしょうこれくらいで」
レギナルトはそう切り捨てるように言うと自室へ向かって歩きだした。
「レギナルト。冗談では無いぞ!」
去り行く息子の背中に向かって皇帝は真剣な声音で言ったが、レギナルトは肩越しに二人を一瞥しただけだった。
(私が愛した娘?愛ほど愚かなものなど無いと言うのに?彼らの言うように本当に忘れたのならばそれは神に感謝だ! しかし…〝冥の花嫁〟 だと?)
レギナルトはあの娘がどのような娘であろうと関係は無いが 〝冥の花嫁〟 であるならば自分に関係無いとは言えない。それでも、正妃が現在許婚であるアウラー家のエリノアでなくなっただけの事で、第一皇妃にあの娘をもってくるだけなのだ。
(なんと言ったか?ティアナか…)
レギナルトは先程の無礼な少女を思い返してみた。洗練された美しい貴婦人達を見慣れている彼の目にもティアナの初々しさと可憐さには一瞬、心を奪われそうだった。それにあの笑顔――思わず魅入ってしまって、その少女が自分に抱きつくのを避けることが出来なかったのだ。その後は、はっと我に返ったが…
( 〝冥の花嫁〟 か…)
レギナルトは再び、振り返った。
「ゲーゼ。〝冥の花嫁〟 だと言う証拠は?」
「――前も同様の質問を皇子はなさいましだぞ!」
「繰言はよい。問に答えよ」
「御身と同じ場所に同じ刻印がございます。〝星の刻印〟 が――しかしながら皇子。誠にお忘れでございますか!前回も」
「承知した。この件は後で確かめる」
ゲーゼの長い話を聞くつもりの無いレギナルトは彼の話を途中で切り、今度は立ち止まる事無く自室へ入って行ったのだった。
残された二人は呆然と顔を見合わせた。皇子の身に何が起きたのか?
「そうだ! ヘルマン・ベッケラートだ!ファネールの娘どころでは無い。皇子を奴に診せよう!皇子はきっとどこか悪くなられているのに違い無い。道中、頭でも打ったかも知れませんぞ。陛下、きっとそうでございますよ」
「そ、そうだな。うん、うん、ゲーゼ良い考えだ」
皇帝と大神官は共にお互いの意見が合ったと喜んで肩を叩き合った。
その時、閉まった筈のレギナルトの部屋の扉が、大きな音と共に開いた。
「父上。皇宮へ即、お戻りを。ゲーゼもな!」
レギナルトは扉から顔を出し、そう有無を言わせない口調で言い放つと、再び大きな音をたてて扉を閉めた。
二人はやれやれと目配せしてその場からこっそり離れると、この提案を持ってティアナの元へ行くことにした。
甘々じゃないレギナルト皇子に私はウキウキとしています。すみません好きなもので~再び傲慢で冷たい皇子登場で「星の刻印」よりも美味しいパターン続きます(笑)それと今回登場するベッケラートは注目の人物です!私のお気に入りで外伝もあります。この続編の次に投稿予定です。