名の無き地(2)
皇子がそう心で呟いた時、背中に強い衝撃を受け雪で凍った地に滑るように転がった!
その直ぐ後に大地を大きく震わせ石柱が雪を舞い上げながら地に落ちた。
「皇子――――っ!」
駆け寄るエリクが見たものは、皇子を庇うように倒れている見知らぬ年若い令嬢だった。豊かな漆黒の黒髪が皇子の身体に広がり、皇子を庇った際に頭でも打ったのだろうか気を失っている。身なりからすると貴族のようだった。
レギナルトは起き上がりその令嬢を助け起こした。その顔はこの地に降り積もる雪のように白く美しかった。
「皇子、ご無事で?」
「ああ。この娘がいなかったら危なかった」
「危ないどころでは無いでしょう! 確実に冥の国行きですよ!」
「――そうだな。私も一瞬そう思った。妖魔は?」
「片付けました。馬鹿力がとりえだけのようでしたから。それにしても知能などあまりあるように思えませんでしたが見事な連携でしたね」
「全くだ。それよりもこの娘の手当てだ!」
「そうでした! 皇子の命の恩人ですからね。このような場所では手当ては満足に出来ません。もう直ぐ侯爵家の城でございます。急ぎましょう」
そして一行はファネール侯爵家の居城に着いた。そこは半世紀以上も忘れ去られた一族のものとは思えないような豪奢な城だった。一歩入った城内も寂れた様子も無く壁も天井も輝いていた。通された部屋も田舎とは思えない洗練された豪華なものだった。だが、よどむ空気を肌に感じるのだった。
例えるならば流れの無くなった水が腐ったような感じ―――
もともとファネール領は良質の地下資源の宝庫で侯爵家は帝国貴族内でも有数の資産家だった。そもそもそこが失脚の発端ともいえた。自らの財力を誇示し驕っていたのだ。そして神に等しいとされる皇家よりも上であるとばかりの態度を度々とったのだった。その当時のファネール当主は愚かと言えよう、なぜならどのような理由があっても皇家に逆らうこと即ち、滅亡しか無いのだから―――
ファネール侯爵は皇家と何度も姻戚関係があり、皇家に迫るかのような財力を持ち、政務や商業の要所に深く関わっていてまさか簡単に排斥されるなど夢にも思わなかったのだ。
だが、それは甘かった―――
先王は若くして帝位に付き、誇り高く気性も激しかった。その若さを軽んじた侯爵が甘かったのだ。皇帝は若いゆえなおさら廷臣にそのような者をのさばらせる筈などなかった。まして数千年に及ぶ聖なる皇家の血脈の重みに敵う訳など無い。下された罰はファネールの抹消だった。
登城名簿、貴族名簿、地図地名、ありとあらゆるものから全て 〝ファネール〟 と言う名前が帝国から消えたのだ。
そして皇帝は告げた。
『――名声、財力があろうともそれを誇示する場所が無ければ無用の長物であろう? 王になりたければその狭き地でのみでなるがよい。余はもうそちの名を忘れよう――』
帝国から捨て去られた一領地など存在自体難しいと思われた。しかし文字通り存在が消されただけで領地や資産はそのままだったので自領だけで十分に生活は出来た。人々は安堵しこの罰の意味を本当に理解していなかったのだ。だが……他の領地や人と関わることも無く閉鎖された地での生活は精神的な苦痛を与え続けることとなった。
もちろんファネールを出る事も許されない。いや、許されないのでは無く他領に上手く逃げ込んだとしても、もしファネール出身と知れれば存在しないものとして扱われる。当然ながらそれでは生活が出来ないのだ。ただ野垂れ死ぬしかない。まさしく先王が意図した通りになったのだ。年数が経つにつれ本当の恐ろしさを知った貴族達は若き皇帝に更なる忠誠を誓い、もう二度と侮る者など出なかった。
この時が止まったかのような城内でレギナルトはファネール侯爵に不承不承、謁見を許した。侯爵はガタガタと見るからに震えながら深く低頭したまま、レギナルトの言葉を待っていた。皇族に先に話しかけてはならないからだ。忘れられた身の上で皇城へ登城する事など無いとはいえ宮廷作法は教え込まれているようだった。それに長きに渡り外界から遮断されていて現在の世情も全く分からない。ただ、曽祖父より聞かされた見たことも無い皇族に対する恐れだけが彼を苛んでいるようだった。
レギナルトは低頭し続ける侯爵を横目に眺め哀れに思った。
(哀れ? 馬鹿な。愚か者の末裔に哀れみをかけるなど…)
ふと、思う。
(ティアナならすぐ庇うであろうな…)
〝もう十分でしょう? 許してあげて〟 と、ティアナが眉をひそめ瞳を潤ませながら胸元で両手を合わせ、自分に願う姿が瞳に浮かぶ。
(――全く、かなり私も毒されている…)
レギナルトが微かに微笑んだ。
横で注意を払うエリクが皇子のその表情に驚いて瞳を見張った。このような場で? 皇子は 〝冥の花嫁〟 が現れるぐらい皇家の血が薄まった中で、稀に現れる祖先の血を濃く受け継いだものだった。それで冥界人のように整いすぎる貌のせいもあるが冷徹で無表情なさまは見るものを恐れさせる。父である皇帝でさえも逆らえない雰囲気があるのだ。先ほどまでその表情をしていたのに、その場の空気まで和らいだかのように微笑んだのだ。
(これが、皆が言っていたティアナ様効果か?)
エリクはハーロルトやドロテーが言っていた事にようやく納得した。
ドロテーが言っていた。
『最近の皇子は表情が柔らかくなられて良く笑っていらっしゃるのですよ』と―――
政務を執る時の冷徹な皇子、まして妖魔を駆逐する峻烈な皇子からは想像が出来なかった。オラール王国でも皇子らしくない一面を見たが、政治的に微妙なこの場で微笑むなど信じられなかった。先王と同じくレギナルトは刑罰に厳しいのだ。容赦ない裁決は聞く者さえ震えあがらせる。それは当然なのだ。王政者は寛容さも必要だがそれだけでは大帝国を秩序よく治めることは出来ないからだ。絶対権威の皇家があって成り立つ平和。
ファネール。その絶対皇家に逆らった一族は未来永劫、生き地獄を科せられている。その一族に関わりを持つこと自体、微妙だ。いろんな意味に解釈することが出来る―――
エリクの視線に気付いたレギナルトは緩んだ口元を再び引き結んで、消え入りそうな侯爵に話しかけた。
「私は長居するつもりは無い。明日の朝にでも出立する。帝都へ抜ける道を案内するだけで良い。それとこの地の娘だと思うのだが…妖魔との一戦で怪我を負わせてしまった。今、治療をさせているが意識が戻ったら家族のものに連絡してくれ」
「ははっ――しょ、承知致しました」
ファネールはやっと面を上げて伏し目がちに、恐る恐るレギナルトを見た。真っ直ぐな濃藍色の長い髪、冴える美貌の額には皇家の印である環が輝き、紫水晶のような瞳の皇子。堂々たる王者の輝きに溢れていた。
その皇子の流す視線の先の寝椅子に先程の怪我人が寝かされ、皇子随行の医師により手当てを受けているようだった。
「! ヒルデガルト!」
侯爵は悲鳴に近い声で叫び、駆け寄った。
レギナルトとエリクは顔を見合わせた。
「ヒルデ! ヒルデガルト――っ! なぜ?」
「侯爵、見知っているものか?」
エリクが取り乱す彼に尋ねた。
侯爵が答えようとした時、横たわっていた令嬢が身じろぎをして声を出した。
「お父様?」
「ご令嬢か?」
エリクは驚き、レギナルトを見た。皇子は無表情で黙っている。
「はい。わたくしの一人娘でございます。ああっ、ヒルデ大丈夫か?」
ヒルデの代わりに医師が答えた。
「足首を捻っておいでで腫れておりますので暫く歩行が困難でしょうが、大人しく養生すれば程なく治ります」
見るからにほっとした様子の侯爵だったが、ヒルデの様子に蒼白となった。
「お父様? どちらにいらっしゃるの? ここは暗くて良く見えなくてよ!」
彼女はしっかりと瞳を開いているのに目の前にいる父が見えていない様子なのだ。そしてヒルデは半身起き上がって暗闇で物を探すかのように手をさ迷わせると、父を捉えた。
「あら? 近くにいらっしゃるのね。なぜこんなに暗いの? あっ! 見えてきた…えっええっ―――っ、なぜ! 霞むの? お父様――っ。きゃぁ―――っ、わたくしの、わたくしの目がおかしい!」
ヒルデは悲鳴に近い声をあげて両手で顔を覆った。
エリクは再び皇子を見た。眉間に皺を寄せて難しい顔をしている。そして、再度診察をする医師に言葉をかけた。
「診たては?」
「目に異常は見当たりません。ですから頭を打たれた弾みで頭の中に何らかの支障が出ているのではないかと思われます。私の力では詳しくは分かりかねます。帝都のベッケラート殿であれば何かお答え出来るのではないかと思われます」
「ベッケラートか…」
ベッケラートは帝国一の腕を持つ医師だ。それゆえ筆頭の御殿医なのだが変わりものだった。殿医とは皇帝や皇族のためにあり皇城に居住を許され何かあれば瞬時に駆けつけるのが仕事なのだが…この医師は城下で暮らし平民、貴族関係なく診療する人物だった。当然、抱えている患者は多い。しかもその腕だから助かっていると言っても過言でない重病人が多いのだ。
レギナルトは考えた。自分を庇ったせいで、いや、自分の命を救ったせいだという事を認めなくてはならない。それが愚か者の末裔であろうと無かろうと関係無く、面目にかけて彼女を元通り治す義務がある。だがベッケラートを此方に連れて来る訳にはいかない。既に閉ざされた路も多い中、行きは良いものの帰りが春までこの地に足止めでもされたら帝都の患者を見捨てる事にもなりかねない。そんな状況では偏屈のベッケラートのこと死んでも帝都から動かないのは目に見えている。
(連れて行くしか無いのか…)
それも非常に不味い。そういう事を自分が行えば、ファネールに恩赦を与えたのも同然になってしまう。名無しの地が再びファネールと呼ばれるようになるのだ。それに先王の下した罰に異を唱えることになる。
(…仕方がない…)
レギナルトは涙するヒルデに歩みより、その手を優雅に取った。
「ヒルデガルト嬢。私を救った貴女の勇気に感謝する。貴女の目が見えるように最善を尽そう。その為にも共に帝都へまいろう」
ヒルデは全く見えていないのでは無い。なんとなく影は見えるようだった。真摯な声のする方向に顔を向けて震える声で答えた。
「本当ですの? 治してくださいますの? もし、治らなかったら?」
一番痛いところを突かれてしまった。そう、治らない場合も十分考えられるのだ。
「――最後まで責任は持つ。望むものは叶えよう、私の名誉にかけて」
ヒルデはその皇子の言葉に頷きながら安堵して少し落ち着いて来たようだった。
それから城内は引っくり返したような大騒ぎとなった。ヒルデの帝都行きが決定したからだ。その準備で死んでいたような人々は活気に満ち溢れていた。
エリクは胸を上下させて大きな溜め息をついた。
それを見て取ったレギナルトが不機嫌そうに口を開いた。
「なんだ? エリク。何が言いたい」
「僭越ながら宜しかったのですか? いくら恩人とは言えやり過ぎでは?」
「恩赦のことか?」
「いえ、帝都へ同行するうえ、更に治らなかった場合の約束ですよ。自分はその恩赦だけでも十分お釣りがでるくらいだと思いますが? 望むものを叶えるなど皇子は気前良すぎます!」
エリクは令嬢と皇子との会話に何か違和感を覚え、嫌な気持ちが拭えなかった。
「あの者によって私の命が助かったのだ。それくらい当然だ」
「しかし、皇子! 宜しいのですか? 妙齢の令嬢を伴われてお帰りになるなど、それにあのようなお約束。誤解を招きますよ」
「誤解?」
エリクは呆れた。幸せ呆けもここまでくればただ呆れるしかない。以前の皇子なら鉄壁の氷で弾き飛ばすものを……
「女性が皇子に望むものは唯一つでございましょう? 妃の座…女性の最大の栄誉でございますよ」
レギナルトの方こそ驚いて、嘲るように笑った。
「何を言うかと思ったら、それこそ飛躍しすぎだ。女がそればかり思うものでは無い。身近な例がティアナだ。あれはそれこそ全く望んでもいなかったのだからな」
「ティアナ様は特別です。それまで皇子の周りにはどういう女性ばかりでしたか? 思い出してください。あのように目が不自由になるなど強みですよ! 物品で代償の利くものではないのですから」
エリクの言うことにも一理ある。ティアナと出会ってからは、今まで否定し続けていた女達の見方が少し変わって来ていたのだが…
真剣な表情になってきたレギナルトに追い討ちをかけるようにエリクは続けた。
「ティアナ様とて不安になられます。ご令嬢はとても美しいですから…」
ヒルデガルトは、瞳が霞んで良く見えないとは言っても、その瞳は黒曜石のように輝き涙でいっそう艶かしく、その容貌を引き立てていた。皇宮に集う麗しき貴婦人達の中でもその見事な黒髪と黒曜石の瞳は一際目を引く美しさだろう。甘美で艶麗な肢体はさぞかし男共を虜にするであろう。
「まさかティアナが嫉妬でもすると? 私の心が揺れることなど無いのだからそれこそ無用の心配だ。逆にこの地に見捨ててしまう方が怒られるだろう。あれは何時も弱き者の擁護者だからな。だが忠告は心に留めておこう。ティアナ以外に妃を持つなど全く考えていないのだから心配はいらない。望みはそれ以外で叶えよう」
エリクは心の中で溜め息をついた。女性の心理は皇子が思っている程、甘く無いのだと言いたかった。侯爵令嬢の思惑はさておき、今まででもティアナの心中は穏やかでは無かったのだから
(皇子は全く分かっていない!)
ティアナが〈冥の花嫁〉だと帝国内に告知されて正妃の座は皆、あきらめても第二、第三と続く妃の座を狙っているのだ。ティアナ以外眼中に無いレギナルトは全く無視しているが、女同士の戦いは水面下で継続中だった。皇子の愛を疑っているのでは無いが、ティアナはいつも心を痛めていた。
貴族の…まして皇族の結婚など別に愛が無くとも出来る。レギナルト自身、それが当たり前の世界で育っているからティアナと違って唯一の伴侶と言う観念が無いと思う。彼らの結婚とは需要と供給の世界のようなもので、皇子としての勤めや義務のようなものだからレギナルトは何とも思わないだろう。実際、ティアナも最初はそんな扱いを受けていた。
〝冥の花嫁〟 と言う義務の為の道具のように。だから彼女は良く分かっているのだ。
しかし、そう簡単に割り切れるものでは無い。
彼女も嫉妬する。独占欲が強いのはレギナルトだけでは無いのだ。控え目な性格のティアナはそう悟らせないだけだった。儀礼や義務とはいえ美しい姫君達を相手するレギナルトを見るのはとても辛そうなのだ。まして最近の皇子はティアナ効果で雰囲気がやわらかくなっているから寄って来る御婦人方は後を絶たなかった。
(ティアナ様は苦労されるな…)
エリクは跡取りである長男のハーロルトと違い名門貴族なのにその貴族的な因習や観念に囚われず自由奔放に育ち、多少なりとこのズレは分かっているつもりだった。もう一度、心の中で溜め息をついて深々と頭を垂れた。
「差し出た事ばかり申し上げましたこと、お詫び致します。余計な詮索でございました。自分も皇子のお心に添えるよう配慮いたします」
〝配慮〟 そうそう 〝配慮〟 とは優しきティアナに対してだ!
(こんなのに疎いハーロルトは頼りにはならないから、ドロテーが頼りだな…)
ドロテーを拝む気持ちでエリクは皇子の部屋から退室した。