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第一話

中編です。

モーレンカンプ公が亡くなったと聞いて、「ついに俺は逃げ切ったぞ!」と思ってしまったことは否定しない。


何せあの老公はかねてから「殿下がフェルデン公爵令嬢と結婚してくださるのが望み」だとか周囲に言って(はばか)らず、近頃では「この老い()れ最期の願い」なんて卑怯な単語まで口にし始めていたのだ。


一般的に国王陛下が王室内で一番偉いことになってはいるが、年長の親戚を無視するのは現実的ではなく、まして国王の叔父にあたるモーレンカンプ公である。

幼くして父王を亡くし、即位したばかりで政務の『せ』の字も知らぬ国王を支え続け、当時の戦争でも軍隊を率いて実戦に出向いた王国きっての英雄なのだ。

王室内の誰一人として、彼には頭が上がらないのである。


だからきっと、俺がもっと大人になるまで彼が生きていたら、俺は有無も言えないままフェルデン公爵令嬢と結婚させられていたことだろう。

フェルデン公爵家は三つ前の王家が血みどろの継承戦争を起こしていた頃から歴史書に登場するような由緒正しい貴族家で、令嬢は俺と同い年だ。モーレンカンプ公の推しは強く、正直宮殿内でも「もう王子と令嬢には婚約してもらっていいんでは?」「モーレンカンプ公もうるさいし……」みたいな空気が流れ始めていた。比較的年の近い近衛兵なんか「絶対結婚したくないって言うけど逆にフェルデン公爵令嬢の何が不満なんですか?美しくて気品に溢れてらっしゃるじゃないですか」と話しかけてくる始末。


しかし、俺はそれらの圧力からついに逃げ切ったのだ!俺は絶対にフェルデン公爵令嬢とは結婚したくなかった。

なぜって?もちろんこれには正当な事由をいくつも挙げることができる。



「ひどい顔をしているわ、エリック」

「ロザンネか…」

「あら。でも考えてみるとそれっていつものことだったわね」


まず第一には、フェルデン公爵令嬢ロザンネが、こういう女だからである。

黒一色のドレスに身を包んだロザンネは、持っていた扇子をパチリと閉じ、こてんと首を傾げた。

モーレンカンプ公の葬儀は一連の儀式を終えて、お開きになってからそう時間を経ていない。

棺が大聖堂に運び込まれた数時間前、ロザンネが遠くの方の席で神妙そうに座っているのを見かけたが、すっかりいつも通りの尊大な態度だ。俺はおそらく真っ赤になっている鼻の頭を手の甲で少し抑えて、彼女に向き直った。


「だけど君ほどひどい顔ってわけじゃない。今度質の良い鏡を仕立ててプレゼントしてやろう」

「結構よ。持ち物にはこだわりがあるの」

俺の嫌味にも顔色ひとつ変えず、ロザンネは俺の足先から頭のてっぺんに視線を這わせながら言った。「あなたと違ってね」


俺たちの間を、二人を象徴するかのような冷たい風がヒュウと流れる。枯れ葉が何枚か道を転がり、遠くの大人たちの静かな話し声がわずかに聞こえた。

まあただ、しんみりしすぎてぼんやりしていたので、彼女の飄々として変わらない態度は、少しだけ有難い気もした。


ロザンネはそれから流れるように一礼した。


「公爵閣下のこと、お悔やみ申し上げます」

「……ああ。父さんたちにはもう会ったか?」

「ええ、王太子ご夫妻に今しがたご挨拶してきたところよ。儀式の前には国王陛下にも謁見できたけど、かなり憔悴されてるご様子ね」

「モーレンカンプ公は祖父にとって父親代わりの人だったから、無理もない」

「今でも信じられないわ。夏にお会いした時はまだお元気だったのに」

「そうだな……」


ロザンネは手袋をした指を唇へ持っていくと大聖堂のある方角へ目線を向けた。彼女の淡く光って見える髪がどこか寂しげに揺れる。彼は高齢とはいえ、いつまでも元気に歩き回っていたので、棺を見てはじめてこみあげてくるものもあったが、結局のところまだ真に死を受け入れられたわけではなかった。それは多分ロザンネも同じだろう。彼女にも数えきれないほどの老公との思い出があり、その一つ一つを抱えながら生きていくことが喪失なのかもしれない。俺は最後まで怒られてばかりだった。そんなときもロザンネはすました顔をしていたように思う。


そうして思い返してみると、彼女とはじめて会った日にもモーレンカンプ公はその場にいた。






ヴィレム・エリック・アントーン・ベルンハルト・ネイホフ=フェーネンダールというなかなか立派な名前をつけられた俺こそが、王太子の長男であり、将来の国王になるべく生まれた男だ。

とはいえ、俺が生まれた時の国王──祖父の年齢は47歳であり、はっきり言って俺に王位がまわってくるのはかなり先の話になるだろう。祖父が即位したのは7歳の時らしいが、同じ年ごろの俺は物事の分別など知らぬ小童であった。残念ながら。


「エリック!エーリック!この馬鹿もの!使用人の仕事をむやみやたらに増やすのは賢い振る舞いではないぞ!」


その夏、モーレンカンプ公は杖をつく必要性をまったく感じないスピードで王城内を闊歩していた。基本的に誰からも甘やかされていた俺は、『かわいらしい』を超えかけた悪戯好きであり、この日も来客があると聞いて逃走することを決めていた。逃走先は日々変わる。母親の衣装部屋に忍び込んだり、父親の書斎を台無しにしたり、コツを掴めば軍馬厩舎に侵入することもできた。しかし王太子夫妻である両親は多忙で、悪さした俺を一等にしかりつけるのがモーレンカンプ公であった。


かくれんぼが毎回うまくいくわけでもなく、あえなく発見された俺は、文字通り首根っこをひっ捕まえられて、しぶしぶモーレンカンプ公に付き従っていた。廊下ですれ違う侍従や女官などが揃いもそろって「まあ、王子」と笑みを浮かべる。不貞腐れていたので斜め後ろからバレないように舌を出すと「何かね、エリック」と間髪入れずに振り向かれた。後頭部にも目がついているのかとぎょっとしたものだ。

そうしていると前方から少しだけ懐かしい青年の声がした。


「やあ、エリック。相変わらずエネルギーが有り余ってるみたいだね」

「ダニエル兄さん!」

「ただいま戻りました、おじいさま。エリックは少し背が伸びたかな?」


声の主はモーレンカンプ公の孫、ダニエルであった。

俺にとっては親戚のお兄さんというやつで、身近な憧れの存在である。年は俺より十ほど上で、濃い金髪をたなびかせる長身のダニエルを誰もが「絵に描いたような貴公子」と呼んだ。

今だから思うが、この頃の結婚市場で一番人気の花婿候補だったのではないだろうか。王族に限りなく近い血筋ながら継承権からはいささか遠いために面倒な役割もほとんど負わず、誰もが振り返るほど優れた容姿に、モーレンカンプ公という英雄の直系で、一方(ひとかた)ならぬ財産もある。貴族令嬢も、その親たちもダニエルとの結婚をさぞ夢見たことだろう。


「ダニエル、夕方に着くと聞いていたが」

「首都へかかる橋が補修工事中とのことで、迂回を覚悟して出発を前倒して早朝に経ったんです。しかし特に問題なく渡れてしまいました」

「ははは、そうかそうか。通行できるかまで調べておくべきだったな」

「勉強になったと思うことにします」

「ふむ、本業の方は進んでいるか?」

「日々努力していますよ。そうでなければすぐに落第してしまう学校ですから。エリックとおじいさまはお元気そうですね」


ダニエルは代々王族の中でも()()()()()()()者が通う寄宿学校の学生で、長期休暇以外はほとんど首都へ帰ってこない。この時もダニエル兄さんに会うのは半年ぶりで、俺はしゃかしゃかダニエルの足元を走り回るほど興奮していた。7歳にとっての『半年ぶり』というのは、大人にとっての三年ぶりくらいを意味したし、彼がいることで幼い俺の遊びの幅は格段に広がるのである。俺の知らないことをたくさん知っていて、ダニエルがいる時はだいたいダニエルにくっついて回っているのが当時の俺であった。


「今日はフェルデン公爵一家がいらっしゃると到着早々ミスター・モリーから聞きましたよ」


ミスター・モリーは主にモーレンカンプ公家の予定を取り仕切る侍従である。


「お前の席も設けてもらうから、昼食に来ると良い」

「ありがとうございます。では着替えてから伺いますね。エリック、またあとで」

「うん!あとで騎士ごっこしよう!苺狩りも行ってね!」

「もちろん」


上機嫌の俺は、フェルデン公爵一家と昼食なんて頭から吹っ飛んで、午後からダニエルと騎士ごっこするための大剣───『いい感じの木の棒』をどこへ探しに行くのかだけに集中していた。正面の庭園は広いが、整えられていてあまり『いい感じの木の棒』は見つけられない。かといって東の森はなかなか入れてもらえないし、おばあさま(王妃)のガゼポはわざと自然を残していて『いい感じの木の棒』もあることが多いのだが、歩いて行くには少し遠い。馬があればすぐなのだが……。



この頃の俺は今と違って、一つのことを考え出すと集中しすぎてしまうところがあって、気付いたらいつの間にかフェルデン公爵一家と対面していた。モーレンカンプ公夫人も合流している。

一行の中でも初老の男が一歩前に出る。


「エリックよ、こちらが私の戦友であり、親友であるフェルデン公爵だ」

「エリック王子殿下にご挨拶申し上げます。実は、殿下がもっと幼い頃に何度かお会いしたことがあるのですよ。おそらく殿下にとっては居並ぶ退屈なおじいさんのうちの一人だったと思いますがね、ははは」

「…こんにちは、フェルデン公爵」

「そしてエリック王子殿下に紹介させていただきたく存じます。彼女は私の妻サンドラ。こっちが倅のマウリッツとその妻ジョゼフィーヌ、そして孫のロザンネです」


フェルデン公爵はモーレンカンプ公に負けず劣らずの体格の良さで、若い頃の二人が戦地に立つだけで味方は鼓舞され、敵は慄いたという大げさな逸話もあながちでっちあげではなさそうだった。


当時の俺は知らなかったが、次期公爵マウリッツの妻ジョゼフィーヌはロザンネの弟を産んだ時に体調を崩し、次期公爵一家は数年間静養のために領地にこもっていたらしい。マウリッツだけは仕事のこともあって首都と頻繁に行き来していたそうだが、それでも妻の容体もあって派手な交遊はすべて断っていた。社交界復帰ができるまでジョゼフィーヌが回復し、長男一家が首都に戻ってきたので、復帰の一助としてフェルデン公爵と親友のモーレンカンプ公は彼らを城へ招待したのだった。社交界は地続きであり、一度断裂した繋がりを結び直すのは、不可能ではないが簡単でもない。


「会うのを楽しみにしていたよ、ロザンネ嬢」


モーレンカンプ公が言えば、先ほどから妙に存在感があって気になっていた同い年くらいの女の子が両親の間から一歩前にでて、ちょこんとカーテシーをした。


「ロザンネ・アナスタシア・サンドラ・フェルデンがごあいさつ申しあげます。お会いできて光栄です、モーレンカンプ公爵」


その少女の髪は、たとえば朝の光を浴びた聖堂のステンドグラスみたいに柔らかな輝きをたたえ、一本一本が澄んだ川のように流れている。瞳は、いつか見た北部の渓谷に広がる湖のようで、痛いほどの冷たさに暴力的に感情を揺さぶられるような、それでもどこか受容されている気がしてなぜか目が離せないような、そんな不思議な趣きがあった。7歳ながらすでにすらりと手足が長く、立ち姿は堂々としていて雰囲気がある。

こんな女の子は見たことがなかった。


癪に触るが、この日の俺が間抜け面でロザンネを見ていたのは、まあ、事実である。


「こちらこそ、聡明なお嬢さんにお会いできて光栄だ。将来が楽しみだな、マウリッツ、ジョゼフィーヌ」

「父としてはただ心優しい子に育ってくれることを願っています」

「お言葉に感謝します、モーレンカンプ公。さぁロザンネ、エリック王子殿下へご挨拶は?」


ロザンネは母親に軽く促されて、ついに俺の方を見た。


「……ごあいさつ申しあげますわ、エリック王子殿下」


ちょこんカーテシーを受けて、俺はいささか戸惑いながら頷く。

王太子の長男ということは、特別な意味を持つ一方で、実際には未だただの王子に過ぎないという意味でもある。軍役もこなしていなければ、領地も持たず、名誉職一つないから、俺はほとんどの場合、大人からカーテシーを受ける立場ではない。だからロザンネからのそれに一瞬反応出来なかったのだ。鷹揚に頷くには明らかに人生経験が足りなかったし、野暮ったい印象を与えてしまったかもしれない。

少しの沈黙が落ちる。


「あー、ロザンネは首都に行けば王子様に会えると楽しみしていたんです。少し緊張しているのかもしれません」

「私も幼い頃、王子様に会っても何も話せなかったわ。うふふ、かわいらしいわね」


ロザンネの父親が言って、モーレンカンプ公夫人が俺の背後から同調した。モーレンカンプ公夫人は基本的にはおしゃべりで、優しく陽気な老女だったので俺の中では好きな人にカテゴライズされていた。


「そういえば君のことは無口な令嬢だと思ったまま僕はプロポーズしたんだったな」

「実はこんなにおしゃべりな女性でラッキーでしたね」


妻の前でだけ一人称が『僕』へ還るモーレンカンプ公は、両手を広げてやれやれといった態度で肩をすくめた。


「ああ、確かに私はツイてたよ。家の中は明るい方が良いからね」



「祖父母の馴れ初め話のようなので、興味がありますね。私もお邪魔させていただいても?」


その時ちょうど部屋へ通されたのはダニエルであった。部屋中の人間が「おお、ダニエル!」「よく来たね」「また背が伸びたかい?」「立派になって」と歓迎する。


しかし俺はロザンネが顔を輝かせて「ダニエルさま!」と呟くのも見逃しておらず、なんとなくまったくこれっぽっちも面白くない、そんな気分になっていた。俺に挨拶してきたときとの表情の差には、筆舌に尽くしがたいものがある。


ロザンネのダニエルへの好意はあからさまであり、俺は幼いながらになんて身の程知らずな女など驚愕したものだった。ダニエルはスーパーヒーローであり、色恋だとか俗世的なものごととは無関係な存在なのだ。少年は概して謎に潔癖めいたところを持っており、ダニエルには軟弱めいた惚れた腫れたのあれそれで悩んだりしてほしくなかったし、そうできると信じていた。


そして、俺にとってロザンネは、この時から負けたくない相手となった。

もちろん、惚れるなんて論外だ。他の男を好きな女に懸想するなんて負け戦は、王太子の長男法定王位継承人として育てられた俺の自尊心が絶対に許さないのである。だから彼女と結婚なんて、ごめんなのだ。

……それだけが理由ではないが。



モーレンカンプ公は俺のそういった感情を喝破していたのだろうか。

今となってはわからない。もう尋ねられないのだと思うと、はじめて本当に彼の死を感じてしまったかのように俺はまた鼻を啜った。ロザンネが呆れ顔で押し付けてきたハンカチは、妙に懐かしい匂いがした。

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